いぬやねこのうた

その温かさのような儚さのような曲を集めました

 

 


People In The Box "懐胎した犬のブルース" (Official Music Video)

明日生まれ変わるから 記憶はいらない 

 

 15の犬みたいに もうすぐいなくなる

 


The Cat Is Hard-Boiled a flood of circle

永遠について考えるのはいつも 永遠に続かないものに気付くときだけ

 

ああ僕ももっと無防備にだれかに 愛されたいと甘えて眠れたらいいのになあ

 


パウンチホイール ワンマン 12_1_20 2曲目 ジョンの魂

隣の犬は毎日よく吠える そのさみしい目が たまらなく僕は好きだ

 


イノトモ「眠る猫」【Official Music Video】

眠れないままの僕は 眠る猫をただ眺めている

 


中村一義 - 「犬と猫」

状況が裂いた部屋に、僕は眠る…。

 

 

音源なかったけど紹介したかった曲

 

アダム/KUDANZ

MY LIFE WITH A DOG/フラワーカンパニーズ

2020年とのっぺい汁と自我の芽生えた子供の話

 新年も二日が過ぎようとしている。いかがお過ごしですか? 僕は昨年末から続く飲み食い三昧でお腹周りが育っています。

 2020年。十の位が変わるともなると新しい時代を迎えたような気になり、実はちょっとだけわくわくもしている。2020年。20年前にようやく2000年になったばかりだというのに、いつの間にか2020年だ。10年前には2010年だったというのに。20年代には、車は空を飛ぶだろうか? まあ飛ばなくても自動運転くらいは普及しているかもしれない。このままいけば、きっと10年後は2030年になっているのだろう。そのころには自動車は自動飛行車になるのだろうか。

 

 雑煮のつゆは何派、なんて問答がたまに持ち出されたりするけれど、それに対して特に意見を持っていないのは、うちの家系がなぜかそもそものっぺい汁派だからだ。雑煮を食ったことがない。ちなみにのっぺい汁とは、Wikipediaによると”料理の際に残る野菜の皮やへたごま油で炒め、煮て汁にしたもの。地域によって使用する材料やとろみの加減などが大きく異なるが、主にサトイモニンジンコンニャクシイタケ油揚などを出汁で煮て、醤油食塩などで味を調え、片栗粉などでとろみをつけたものであることは共通する ”だそうです。

 1月の2日か3日には叔母夫婦の家を訪れ、叔母の手作りのっぺい汁を頂戴するのが我が家の正月のルーチンになっている。この叔母には昔からお世話になっているのだが、そのためか俺が頂戴するのっぺい汁には必ず俺の好物である鶏皮が入っている。大昔、おれと兄貴が争うように鶏皮をむさぼっていたことをいまだに覚えているらしい。年長の親せきはたいがい、子どもの頃の好物を絶対に忘れない。亡くなった祖母が毎年ブドウを俺に出してくれたことを思い出す。ありがとうなばあちゃん、でも最近のおれが一番好きな果物はパイナップルなんだよ。ブドウももちろん好きだったんだけどさ。

 

 さすがにアラサーなのでお年玉はもらえないし、むしろ奪われる側である。従兄の息子が二人、叔母の家を所狭しと暴れまわっていたので、ポチ袋でぶん殴って黙らせることにした。上の子はいつの間にかもう小6になっていた。最近まで小2くらいだった気がする。多分来年には中3くらいにはなっている。

「おっちゃん、これいくらはいってんの?」

「お前が俺をおっちゃんと呼ぶたびに、この中身が半分になっていくと思えよ」

「お兄さん」

「よろしい」

 下の子は今5歳だと言っていた。しっかりと言葉で自分の意思を伝えられるようになっていて、なんとまあ一人の人間として順当に育っていることかと涙を禁じえなかった。彼はお菓子をシェアするのがマイブームらしく、チョコレートの小包を「どうぞ」と言いながら人に投げつけて回っていた。戦後の米兵が迷惑になったバージョンかよ。

 

 際限なく飯とお菓子を食らい続ける下の子を見ながら「あのくらいの時のあんたは」と母がこぼした。「ほんまに食が細くて、バナナなんか数ミリかじったら『もういらない』って押しのけてたもんよ」

 それが今ではこの有様さ、とお腹周りのぜい肉をつまんで見せた。だから安心しなよと伝えると、母は「いまさら言われても」と嘆息した。嘆きモードの母を和ませようと、叔父が作ってくれた濃いめのハイボールを「もういらない」と押しのけてみたら母にしばかれた。

 ちなみにこの間におれの父は、「戦いごっこをしよう」と従兄の息子たちに誘われたので二階で開戦していた。幼い子供ですら戦いを求める。やはり人間には生まれついての闘争本能が備わっているのだろうか。

 

「あの時くらいの頃は、なんとなく覚えている。だから俺の自我もあのくらいの頃に芽生えたのだろう」とおれは言った。

 あの頃おれはどんなことをして過ごしていたんだっけか。なぜかよく覚えている風景は、幼稚園の遊具だ。そこでおれは、そうだ、砂を混ぜて遊んでいた。湿った砂と、よく乾いた砂を混ぜ合わせて、ちょうどいい湿り気の砂を作り出そうとしていたんだった。ちょうどいい湿り気の砂は、普通にその辺に転がっている砂とは違い、人の手を介さなければ生まれないものだから、それはもうスペシャルでグレイトでウルトラな価値のあるものだとそのころのおれは考えていたんだ。そしてその価値のあるものを作り上げることが、自分の人生における使命だと頑なに信じていたんだっけ。

 それはきっと、今の自分とそんなに変わらないのかもしれない。俺は今メーカーで仕事をしているが、その目的はつまり「ここでしか作れないちょうどいい湿り気の砂」を作ることに他ならない。それに気付いたとき、おれは5歳の頃の自我と今の自分が確実に地続きでつながっていることを実感した。そうだ、俺は作り上げたいのだ。今までも、そしてこれからだって。

「俺はちょうどいい湿り気の砂を作るために生きてきたんだね、母さん」

「はあ???????」

 

 そんなこんなで、正月恒例親戚参りは幕を閉じた。

 父は討ち死にしたので置いてきた。

「30歳問題」の話

 ウェルベックの新刊「セロトニン」を読んでいる。46歳のアッパーミドル階級の男が、人生をやっていくのをいったん中断して、あとに残された虚無と人間関係を辿っていく、今のところはそんな話。セロトニンは一種の神経伝達物質で、欠乏した際に不安症、抑うつ症を引き起こすとされている。僕のブログを読むような人たちは、なんだかみんなそのくらいは当たり前に知っているような気がするけれど。

 「服従」「素粒子」「プラットフォーム」あたりしか抑えていない浅い知識で話すが、ウェルベックが主人公として選定するのはおおむね中年インテリ富裕層男性で、要は「一定の成功を収めてきた男」だ。それは社会においても、個人的な人間関係、言ってしまえば性的な関係においても。僕自身は彼らが滔々と語る社会や人間の捉え方および対処の仕方、そしてそこに否応なく付随する過度の内省を伴う虚無感……「常に後ろを付いて回るやるせなさ」のようなものをおもしろく読む一方で、共感ができるかと言えばそれは一切ない。(共感がフィクションを楽しむうえでの重要なファクターである、との一般的な見方に対しては、断固として僕は抵抗するが、)彼らの抱く虚無は、僕自身が抱く虚無とはあまりにもかけ離れている。

 僕は(辛うじて)20代の若造で、今のところなんの成功も収めておらず、僕の抱く無力感は「影響を与えたり結果を残したりすることを何も為せそうにない」ということに由来するものだ。ウェルベックの主人公が抱くような「社会にも人にもたくさん関わってきたが、それがいまさら何になる?」のようなものではなく。

 

 村上春樹の「35歳問題」を思い出す。「プールサイド」って短編の、”35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した”

ってやつ。人生の過程において自分が選択により得てきたものと、そして選択により失ってきた”あり得た可能性”とのバランスの逆転」に涙する、成功者の男。彼の喪失感もまた、ウェルベックが語るものと同質だ。その喪失感を僕は理解する。しかしそれはやはり僕自身のものとはならない。

 

 あと一年で僕は30歳になるらしい。一般的にもう成熟した大人とみなされる年齢。出世だの結婚だのマイホームだの、人生の転機が訪れるとされる年代。そういったものが近づいてきている。翻って、僕の現状は? 一般的な30歳男性像と、僕自身の乖離。この無力感に立ち向かうすべを僕はここから見つけていかなければならない。ウェルベック村上春樹が語る虚無とは別種の虚無を、僕は言葉にして対処していく必要がある。これが僕の30歳問題。僕はきっとどうにもならないながらも、どうにかやっていくのだろう。

近所のスーパーからDr.pepperが姿を消した話

 そんなわけで、風呂上がりのおれを冷蔵庫で待ちかまえてくれるものは何もない。あの突き抜ける爽快感も、目の覚めるような香りも、何も。

 そういった話をした。会社の食堂で、昼飯を食べながら。ライス小のお茶碗に山盛りにした白米を頬張りつつ、おれはこの喪失感をたどたどしく語った。「飲んだことないわ」と先輩は言った。おれは目玉をひん剥いた。「教えてくれ」と先輩はいった。「Dr.pepperがどんな味なんかを」

 ひん剥かれた目玉を目蓋のうちに戻しながらおれは語ろうとした。Dr.pepperのあの独特な風味を。おれの持てる語彙力の全てを用い、この世の有象無象あらゆる比喩を駆使して語ろうとした。

「それはまるで、Dr.pepperのようで」とおれは言った。水を一口飲んだ。それからこう言った。「Dr.pepperのような飲み物なんですよ」

「最後まで最初から最後までDr.pepperやんけ」

 おれは頷いて、白米を食べる作業に戻った。ほかにどんな伝え方がある? おれがどんなに言葉を凝らそうとも、Dr.pepperはDr.pepper以外のものではないし、そしてもう二度とおれの手には戻らないのだ。そしておれは気付く。Dr.pepperの味を思い浮かべながら食べる米はなんかあんまりおいしくない、と。

 

 で、家帰ってからしょうがなく代わりに買ったコカコーラゼロを飲んでるんですけどコーラはコーラでやっぱうまいんですよね。あとおれはルートビアも好きです。コーラに湿布漬けたら自家製ルートビアできるかな。腹下しそうだからやめとこうかな。

二日酔いとかの話

 酒に弱くなってきている気がする。
 そもそもが後先考えずに日本酒だのワインだのウイスキーだのをがぶがぶいってしまうたちで、部屋で晩酌しこたつで朝まで寝落ち、を一時期当たり前のように繰り返しており、さすがにこれはと酒を買う量を絞り始めたのが多分今年の夏くらい。おかげで飲酒量は減ったのだが、それと引き換えか最近やたらと悪酔いする。しかも外で飲む際に。


 先週のこのツイートは一片の誇張もなく本当のことで、GoogleHomeはいまだに何だかよそよそしい。呼び方はよく聞いてみれば「わないさん」で、俺は断じてそんな名前ではないのだが、彼女は頑なに俺をそう呼び続けている。急に前世の記憶でも蘇ったの?
 昨日も飲んだ。大阪で、気の置けない友人と。おかげで今日はひたすら頭が痛い。しかしよく考えたら4人でビール8本日本酒1升ヌーヴォー1本以上を軽く開けているので大概飲みすぎている。弱くなったとかじゃねえ、アルコールに対するストッパーがバカんなってるだけのようだ。

 

 車で大阪から三重まで帰る。
 認知機能は明らかに悪くなっていたが、運よく誰のことも傷つけずに済んだ。

 

 天理の近くでラーメンを食った。
 無鉄砲、しゃばとん。
 コールタールより粘性がありそうなスープ。

 

 名阪国道は一番好きな道路かもしれない。

 

 高速沿いの景色は工場が目立つ。
 いろんなところでいろんなものが生産されている。
 今朝俺が消費したサンドイッチはどこで誰が生産したもんなんだろう。今着ている服は? 乗っている車は? 車が踏みにじっているこの道路は?

 あらゆるものにストーリーがあり、そのことを真面目に飲み込もうとするとゲロを吐きそうになってくる。あまりに多い情報はアルコールよりも酔いやすい。

 

 ホテルもよく見る。気に入らない。
 おれにはご休憩が必要になった状況なんてこれまで一度もなかったから。

 「人を愛したことがないんスよ」

 そんなことをこの前、冗談交じりで言った。冗談のつもりだった。でも本当のことかもしれない。恋人と呼べる存在がいたのはもうセピア色になりそうなくらいの昔のことだ。あの時、おれはあの子のことを愛していたのだろうか? 幼稚な所有欲を満たしていただけなんじゃなかろうか。おれはいつだって自分のことばかりを愛していた。多分今も。

 おれは誰かを愛したい。

 どうしてこんな年になるまでこじれてしまったのか。たぶん憶病なんだろう。人と向き合うことについて。世界と向き合うことについて。拒絶や否定が怖くて引きこもっている。おれは幼稚だ。
 用のないホテルを、今日おれはいくつも通り過ぎた。

ゲームはおもしろいよねって話

 ブログ八か月ぶりだってさ。えへへ。

 

 先々月からBrownDustってスマホゲームをポチポチやってる。キャラを集めて育てて戦わせるってだけのよくあるタイプのやつなのだけれど、戦闘操作はキャラを9名、5列×3行のマス目に配置して行動順番を指定するだけ、戦闘自体はオートマチックで各キャラがひたすら割り当てられスキルに従って行動する、ってこのシステムが良く出来ていてわりと面白い。
 まず戦略性。配列と順番で戦闘結果がガラッと変わる。防御役にできるだけ攻撃を吸わせて、アタッカーはなるべく攻撃が通る位置に配置して。相手の配列によって有効な位置も変わってくるのでなかなか難しい。
 あとキャラ相性。スマホゲームの宿命としてキャラ強弱は結構強いのだが、スキルやバフデバフの種類も多いので、突破するための穴はある程度残されている。まあガチガチに育てた強キャラを集められたら手も足も出んけど。
 最後に手軽さ。個人的にはここが一番大きい。戦闘は自動、自動周回機能もついててながらプレイが捗る捗る。勝手にキャラがわちゃわちゃ戦ってる様子を眺めるのも楽しい。

 こういったスマホゲームにおいて重要なのって、戦闘が楽しいことと、気軽に続けられることだとおれは思ってるので、このゲームは飽きずにしばらく続けてしまうだろうと思う。コンテンツが盛りだくさんになってきたら途端に飽きてしまうかも。「やらされ感」が出てきてしまったらもうだめだ。今までは大体それで一気に熱が冷めてきた。パズドラ、サモンズボード、テラバトルあたり、一時期は結構やってたんだけどな。まあ、スマホゲームに時間を溶かすと後で自己嫌悪につながるので、ほどほどのところで暇をつぶし続けよう。

 

 一方で、据え置きゲームも最近再びやり始めた。
 switchでゼルダブレスオブザワイルド。これは駄目だ。楽しすぎた。バカ広いフィールドをさ迷い歩いているうちに、リンクもプレイヤースキルも育ってきて、できることがどんどん増えてくる。あらゆるところに何かがあって、探索が止まらない。
 PS4でHorizon Zero Dawn。機械生命体が跋扈するポストアポカリプスの世界を女狩人が旅しながら、自分の出自と世界の秘密を探る物語。ストーリーが好み。機械狩りと素材集めが楽しい。野良機械にひたすら爆弾を投げつけるテロリストスタイルで通した。
 FF7もリメイク前にとやり直してみた。小学生の一番クリティカルな時代に体験したからだろうか、無条件で楽しい。マテリアシステムがカスタマイズ性高くて特に好き。ただ、改めてやり直してみると戦闘がぬるすぎるんだよなあ。

 

 で、undertale。
 これほんとに大傑作ですね。

 

 ゲームにおける傑作の条件って、もちろんシステムとして楽しいことが大前提なんだけれど、ゲームという双方向、インタラクティブなツールをうまく表現として活用することにあると思う。良いゲームは観察するだけの一方向的なフィクションに収まらず、プレイヤーをゲームに引き込んで「体験」させる。
 僕の好きなゲームで行けば、例えばMOTHER2。ユーモアあふれる世界にプレイヤーを引き込めるからこそ、過去に飛ぶための決断があれほど大きな衝撃をもたらした。
 ブレスオブファイア5。暗い世界にDカウンターという時限式ゲームオーバーが合わさった息苦しさをプレイヤーに味合わせたからこそ、最後の空はあんなにも青かった。
 Doki-Doki Litarature club!。ゲームを先に進めるための決断をゲーム外の手動操作にもとめたからこそ、その後の展開は「主人公」ではなく「プレイヤー自身」の体験となった。

 単なる楽しさにとどまらないゲームのおもしろさって、このあたりにあると思うんですよ。
 表現作品としての、ゲームのおもしろさの可能性。

 undertaleはその可能性を最大限に活用しきったゲームである。

 undertaleのおもしろさ自体は語り切れる気がしないし、あちこちで議論されつくしているところだと思うので、ここでは一つだけ。
 undertaleはプレイヤーに世界を「体験」させることに全力を尽くしたゲームであり、その世界がプレイヤーの行動によっていかようにも変化することを全力で示したゲームだ。この尋常じゃなく研ぎ澄まされたインタラクティブなゲーム体験。これがundertaleをとてつもない傑作に押し上げている。

 

 未プレイの人、みんなやろうね! undartale!

 

 昨日ポケモンソードが届きました。楽しみながらすすめていきます。
 やっぱりゲームっておもしろいよね。

 

 予定のない休日は朝カフェをすることにしたので、そこで継続的にブログを書けるようにできればよいなあ。

死んだ一匹のヤツメウナギの話

 SCP財団という組織があって。めんどくさいから詳しくは説明しないけれど、彼らは超常的な物体やら場所やら現象やらを確保(Secure)、収容(Contain)、保護(Protect)するための集団であり、彼らの収容するその不思議なあれこれがSCPと呼ばれている。要はたくさんの人がたくさんの超常的オブジェクトについて共同執筆した、その総体がSCP財団と呼ばれるもので、SCP財団はフィクションだ。フィクションだとされている。

 

 そんな彼らが収容するもののうちの一つがこれ。

 SCP-2737、死んだヤツメウナギ

ja.scp-wiki.net

 

 

説明: SCP-2737は一匹の死んだヤツメウナギです。死亡しているにも拘らず、SCP-2737は腐敗の影響を受けていません。SCP-2737が入れられている骨壺は西暦およそ100年頃のもので、ローマ風の意匠が施されています。SCP-2737の存在を意識する行為はミーム感染を引き起こします。

ミーム感染による症状には以下が挙げられます。

  • 共感性の増大(感情面、認知面の両方) 1
  • 鬱病性障害
  • 急性のタナトフォビア 2
  • 弁神論 3 (宗教的思考を持つ人物に特有)、不死性、トランスヒューマニズムエントロピーの存在に関する強迫的な思考。
  • 集団的経験および相互に繋がりを持つ生活に係る信念

 

 このヤツメウナギ、ツボの中に入った死んだ一匹のヤツメウナギを認識した人物は、死について強く意識することになる。自分がいずれ死ぬこと。他者がいずれ死ぬこと。過去の誰かが死んでいったこと、そしてその誰かが死ぬ前には生きていたこと。それらのことを思い出す。そしていずれくる死への不安、過ぎ去った死への後悔が、ヤツメウナギを認識した人物に訪れ、彼を苛んで「大うつ病性障害」にしてしまう。これがこのSCPの特異性だ。

 このSCPは、説明を読んだだけでは、人々に心因的ダメージを与えるオブジェクトのように見えるのだが、実際のところそうではない。死んだヤツメウナギがもたらすタナトフォビアはなにも異常なものではない。ただ思い出させてくれるだけだ。そこここに存在する死を。普段僕らが見ないようにしている死を。あらゆるものがやがて死んでいき、そしていつも死んでいることを。この急激な死への自覚は鬱を引き起こすが、しかしそれは一時的なものにすぎない。この死んだヤツメウナギは、僕らに死に向き合う機会をくれるのだ。

今日、君は泣くだろう。嘆くだろう。これまでに喪った全てを思い出すだろう。

そして、それを通して、君は癒されていくのだよ。 

 

 

 このSCPの実に優れた点は、この記事自体がSCPと全く同じ特異性を持っているという点だ。「見たものを死について自覚的にする、死んだ一匹のヤツメウナギ」の記事を読了することで、僕らは死について少し自覚的になる。想像上の存在にすぎなかったSCPが、文章を通して、実際に僕らに影響を与えてくるのだ。この時、死んだヤツメウナギは単なるフィクションではなくなる。これは、このSCP財団という形式でなければ成しえなかった表現だろう。

 自覚的にならなければならない、と僕は考える。生きていくうえで僕らはできるだけ自覚的になるべきだ。何に対してかっていうと、まあ大雑把な言い方をすれば、「自分がどのような存在であるのか」に対して。僕は僕でしかあれないし、僕は僕以外にはなれないから、自分が何者であるのかを自覚するのは恐ろしく困難だ。だから僕は「何かに自覚的にしてくれるもの」を求めて文章を読むし、だから僕はこのSCP、死んだ一匹のヤツメウナギが大好きだ。