ココアの話

 最近、頭痛がひどい。頭痛というかなんというか、鈍い痛みが顔の左側を移動する。頬骨が痛むかと思えば次はこめかみの奥がずきずき疼き、やがてそれが頭の上まで這い上ってくる、これを繰り返す。行ったり来たりで節操ない。俺の落ち着きのなさを継承したんだろうか。ペットは飼い主に似るというが、痛みが痛み主に似るという話は寡聞にして聞いたことがない。

 頭痛の一つの原因はカフェインですよ、そうネットの妖精がささやくので、コーヒー断ちをすることにした。毎日職場までインスタントコーヒーを詰めたステンレスの水筒を持っていき、春頃に美味いコーヒーを飲みたいがためにネスプレッソを買った俺がここでまさかのコーヒー離れだ。めっきり使われなくなったエスプレッソマシンが寂しそうに部屋の片隅に鎮座しているが、ここは諦めてもらうほかない。人間は誰しもが孤独と戦っている、だから、お前も。

 で、コーヒーの摂取量をできる限り減らして一週間。頭痛はだいぶマシになった。結果としては良好であったが果たして頭痛が本当にカフェインのせいだったのかどうかは不明であり、そこを詳細に明らかにするためには厳密な対照実験が必要となる。つまりは俺を二人用意し、コーヒー漬けにした俺とコーヒー断ちした俺に丸っきり生活を送らせる。同じように出社し、レポートを書き、上司に怒られ、金曜の夜には安い居酒屋で腹がはち切れるまで飯と酒をかっくらうのだ。しかし現実的に俺は一人だけで、二人いても持て余す。この案はお蔵入りだ。

 そんな感じで頭痛は落ち着いたのだけれど、如何せん口さみしい。休日、コーヒーをずるずる啜りながら読書に励むのが俺の至福の余暇だったわけだが、コーヒー断ちしたお陰で啜るものがない。他に啜れそうなものはといえばカップラーメンか鼻水くらいであり、どちらも日常的に啜るのは御免被りたい。

 そこでココアだ。液体だし、色も黒っぽい。ほぼコーヒーであると考えて差支えない。コーヒーの代替品ではなく、これは甘くてカフェインが少ないコーヒーである。そういう特殊なコーヒーの一種である。そう自分に言い聞かせながらスーパーの棚の前で森永とヴァンホーテンをにらみつけ、どちらにしたものかと悩んだ挙句にヴァンホーテンを選んだ。名前が格好いいからだ。

 部屋に帰り、マグカップに粉末をドバドバ落とす。コーヒーにしてはやけに量を要求してくるなと思いつつ、そこに低脂肪乳を注ぎ込んで、電子レンジの中に収める。ボタンを押して、あと数分待てばコーヒーっぽいものの出来上がりだ。

 電子レンジを開けたら、沸き立ったココアが電子レンジをココア浸しにしていた。

 反逆だったのだろう。俺はそう思う。コーヒーコーヒーと呼ばれ続け、自身の名前をちっとも呼んでもらえなかったココアの、ささやかな反逆。ぼくはコーヒーじゃない、正しい名前を呼んでほしい。そんなココアの心の奥底にたまった不安が、電子レンジの中で加熱されるにあたり溢れかえったのだ。

 ココアでべたべたになった電子レンジを、俺は布巾で優しく拭いた。それから机の上のマグカップに向かい、ごめんな、と声をかけた。ココアを一口啜る。温かいココアは甘く、優しく、口の中に広がった。それはまるで全てを赦してくれるかのようだった。

とりとめのない話

 最近本を読む頻度も文を書く頻度も減っている。あんまりよくないなあ、と思う。頻度が減っているから僕の表現力も御覧の有様だ。

 

 豆が好きなので、ミックスナッツをぼりぼり食う。仕事から帰ると、リュックを置き、ズボンと靴下を脱ぎ散らかし、こたつに潜り込むやいなやミックスナッツをぼりぼり食う。テレビを付け、うとうとし、目を覚ますが早いかミックスナッツをぼりぼり食う。酒類のお供にする人が多いと思うが、あれは邪道だ。酔った頭では豆の持つ甘さ、旨さ、香ばしさを正しく感知することはできない。そんなことをいう僕の部屋の玄関には発泡酒の空き缶が6本置かれており、在庫をうっかり切らしてしまったことを示唆している。
 今食っているミックスナッツはアーモンド、カシューナッツ、くるみ、バタピーというそうそうたる顔ぶれが揃っている。まさに豆類の面目躍如といった次第であるところ、話は変わるがミックスベジタブル、奴らは一体なんのつもりだ。コーン、にんじん、グリンピース。良いのは色合いばかりで野菜としては二軍ばかり。お話にならぬ。ミックスナッツに並びたければ、茄子、ピーマン、もやしくらいは揃えてこい。

 

 今朝、身体が怠かったので、体温を測った。36.4。これが摂氏なら平熱も平熱なのだけれど、いかんせん拙体温計、安物なので単位が出ない。これが華氏であったとした場合、僕の体温は97.52℃。これは便利と体温でインスタントコーヒーを沸かそうとしたところ人肌に温いコーヒーが出来上がり、ならば36.4ケルビン、摂氏に直して-236.75℃なのではないか。液体窒素よりも低い温度だ、これからおれは液体窒素製造マンとして生きていこう、そんなことを考えていたら時間が無くなったので急いでフルーツグラノーラをかっこんだ。腹を満たしたら元気になったので出勤した。みんな、調子が悪い時はご飯を食べるべきだぞ。

 

 数か月前に衝動買いしたサクマドロップスが一向になくならない。そもそも僕はあまり飴を舐める性質でなかった。しかしたまに舐めると、メロン味が結構メロンみたいな味したり、レモン味も結構メロンみたいな味したり、ハッカ味はハッカ味だったりでいろんな発見があっておもしろい。
 同じタイミングで買ったハリボー。以前からやってみたかったウィスキー漬けにしてみたが、あれは素晴らしく美味かった。一日放置するだけで、ウィスキーの香りが詰まったプルプルのグミに変貌するのだ。結構アルコールもきついのだが、1,2個食えば満足できるので、仕事終わりの一服として長らく活躍してくれた。
 思い出したらやってみたくなった、それも明日などではなく今すぐだ、と熱い気持ちにかられたのだが、今現在部屋にあるもので最も近い組み合わせを検討したところ「さやえんどうの泡盛漬け」が精いっぱいだったので、今回は採用を見送らせていただきます。今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

歩道橋の話

帰省したら、近所の歩道橋が撤去されていた
その歩道橋は交差点の東側を南北に繋いでいて
斜めに渡れるわけでもなく、かといって交差点の信号待ちが長いでもなく
ほとんど誰にも使われていない歩道橋だった

昨日おれが見たとき、ほとんど工事は終わりかけていて
残すは基礎の部分だけになっていた
ちょっと見ない間に、歩道橋は影も形もなくなっていた

あの歩道橋、使ったことあったっけかな
たぶん二回くらいだ、それくらいしか覚えていない
一度目は十何年も前、中学生の時だ
寝坊して部活に遅れそうだったからおれは全力で走っていて
信号待ちをする時間すらも惜しかったのだ
歩道橋の階段を上り下りする間に信号の色は変わっていて
やっぱりこの歩道橋意味ねえなと思ったことを覚えている

もう一度はわりと最近のことだ
大阪マラソン、あれのコースにその歩道橋のあった交差点も含まれていて
その日の交差点は通行止めになっていた
おれは自動車教習所に行く必要があったから
自転車をかついで歩道橋を上り下りした
こいつも一年に一度くらいは役に立つものだ、とそう思った

今朝、荷物をまとめて実家を出た
工事はもうすっかり終わっていて
安全第一と書かれたフェンスも全部取り払われていた
後には真新しい、黒いコンクリートが敷き詰められていて
歩道橋の名残を示すのはそれくらいのものだった

一部分だけ色の違う道を見ながらおれは
ほとんど使わなかった歩道橋のことを思い出していた

曇り止めとかUSBメモリとかの話

 最近体調が悪いから、職場でもマスクをつけて行動している。
 マスクをつけるとメガネが曇る。メガネが曇ると僕が困る。
 さてさて困った困った小松菜のソテー、ということで思い出したのが水泳のゴーグルに使う曇り止めの存在で、あいつをメガネに塗りたくればもう人の顔が見えずにいちいち親の仇のようににらみつけることもしなくて済むのではないかと思ったが、案の定曇り止めが見つからない。引っ越しの際に家にあった水泳道具を一式まるまるがさっと持ってきたから、曇り止めの一つや二つ、使用期限さえ気にしなければどこぞに埋もれているだろうと目論んでいたのだが、果たしてさっぱり見つからない。
 まあそれも仕方がない。曇り止めは失くすものだ。使ったことのある人ならわかると思うけど、あれはとにかくどこかへ行ってしまいやすい。曇り止めと、ちびた消しゴムと、将来の夢はそのうち失くしてしまうものと相場が決まっている。

 そういえば、引っ越しのどさくさで失くしたものがもう一つある。SONYUSBメモリ(8GB)。あれ、一体どこにやっちまったんだろうな。確かに持ってきた気がするんだけど。
 中に何を保存していたのかさえも思い出せなくて、長らく放置してしまっていた。忘れるくらいだからきっと大したものじゃない。念のためにとっておいた学生時代のレポートとか、たぶんその程度のものだろうな。
 だからわざわざ探そうとも思わないんだけれど、僕ですら忘れてしまったデータの存在をどこに行ったかもわからないUSBメモリだけが健気に覚え続けているのかと思うと、なんというか、申し訳ないなあという気持ちになってくる。
 ごめんな。

 

 思いのほかあっさり書き終わったから、あとは最近好きな曲を貼る場所にさせてもらいます


Serph-vit

 


Helsinki Lambda Club - Lost in the Supermarket (MV)

 


PELICAN FANCLUB - Dali (MV)

 


toconoma"relive" MV

またまた歯医者に行く話

 初診からひと月以上が経ち、年をまたいで西暦の数字が一つ増えてからも、歯医者での治療は続いている。

 いつの間にか通い慣れてしまった道を寒さに震えながら僕は歩く。歯医者への道中、目に映るのは小児科の診療所と薬局、やけに洒落たカフェ、小さな焼き鳥屋。そのいずれにもあまり人の気配はなく、この物寂しさもこの街ならではの持ち味だと、引っ越してから十か月になる今となっては愛着を感じるようになった。

 歯医者の待合室には、やはりあまり人がいなかった。受付を済ますとすぐに診療室に案内され、歯科助手の女性による診療が始まった。

 先日右奥歯に被せた銀歯の予後を一通りチェックし、左のほうにもう一つ見つかった虫歯の確認を済ませた後、「少し待っていてください」と歯科助手は席を外した。この日はここからが長かった。歯医者の椅子に寝そべりながら僕は目を閉じて静かに待っていた。診療室の中には、病院にありがちな静かなピアノのBGMと、これもありがちな子供の泣き声が響き渡っていた。

「すみません」と、僕のブースに戻ってきた歯科助手が言った。

「先生が、いま少し手が離せなくて。もう少しお待ちください」

「そうでしょうね」と、僕は言った。子供の泣き声は間断なく続いており、その対処に歯科医がかかりっきりになっているであろうことは容易に想像がついた。

「大変なお仕事ですね。子供の健康を思ってのことなのに、当の子供たちには嫌われる」

 そうですね、と歯科助手は笑った。「でも、やりがいのある仕事です」

「どうしてこの仕事を選んだのですか」僕は何気なく尋ねた。

 歯科助手は少し考え込む様子を見せてから、答えた。

「穴を埋めるような仕事をね、したかったんですよ。私は」

「穴を?」不可解な答えに、思わず僕は聞き返した。

「埋めるじゃないですか、虫歯。ああやって、穴を少しずつ埋めていくようなことを、私はしたいと思って」へへ、と少し恥ずかしそうに歯科助手は笑い、言葉を続けた。「埋めたくなりません? 穴があったら」

「ちくわの穴にきゅうりを詰めてみたくなるような?」

「ドーナツとかバームクーヘンとか見てるともやもやしますね」

「好きなスポーツは?」

「ゴルフです」

「好きなパズルは?」

 クロスワード、と彼女は笑う。「こう、目に見える穴でなくても、例えばスケジュール帳の空白もなるべく埋めたくなりますね。一人だけの時間って、人生における穴みたいなものじゃないですか」

「わかる気がします」と僕は言った。「お腹が空いたら何か食べるのも、要は穴を埋めることだ」

「そうそう、そうやって、穴を埋めながら私たちは日々を過ごしているんですよ」

 生きるとは穴を埋めることだ。過去に偉大な人物が遺した格言であるかように、そう彼女は言った。

「人が本を読んだり映画を観たりするのも、穴を埋めたがっているから、なのでしょうか」僕は言った。

「暇な時間を潰す、ということですか?」歯科助手が首を傾げた。

「いえ、時間や予定を、という意味ではなく」言葉を続けようとしたが、ブースに誰かが立ち入ってきて、僕はそこで口をつぐんだ。

 お待たせしました、と頭を掻くその男性は言うまでもなくこの病院の主だった。いつの間にか子供の泣き声は止んでいた。

 治療が再開し、僕と歯科助手の会話は中途半端に終わりを迎えた。

 

 *

 

 診療が終わり、受付で代金を支払い、来週の土曜日に僕は診療の予約を取った。

 また一つ穴が埋まった、と僕は心の中でつぶやいた。

 外に出ると、雪がちらちら舞い始めていた。一段と厳しくなった寒さに僕は身体をぎゅっと縮こまらせて、歩き始めた。

「本を読んだり映画を観たりするのは、」僕は独り言ちる。「空っぽな自分を埋めるためだ。語るべきことも、やるべきことも特に見つからないがらんどうの中に、物語を詰め込んでおきたいからだ。そこから何らかの意思や意味を、さも自分自身のものであるかのように取り出せるようにしておくために」

 そんな風に考えるのは、僕だけだろうか。

 風が強くなり、細かい雪が顔に吹き付けてきた。僕は少し俯いた。

 あの歯科助手の言うことが正しいとして、人間が穴を埋めるように生きているのだとして、穴を埋めきったその後には、その人生にはいったい何が残るのだろうか。あるいは、埋めきれない穴をひたすら埋め続けて一生を送るのだとしたら、それはこの上なく絶望的なことなのではないのだろうか。

 悲観的な自分に僕は小さく笑った。

 黒いコンクリートの上に、白い雪がぽつりぽつりと舞い落ちていく。それを踏みにじりながら、僕は家に帰った。

「廊下に立つ」

 廊下に立たされることになった。居眠りしていたせいだ。

 こんな刑罰が実在するなどとは驚きだ。のび太くん以外誰も体験しないものだと思っていた。

 とりあえずはテンプレートに則り両手に水の入ったバケツを持ってみたが、これに何の意味があるのか実行している僕にも分からない。この状態で反省がてら、さきほど追い出された物理の授業の復習を行うことにする。バケツの質量をmとして右手にかかる重力はmg、左手にかかるのも同じくmg、僕に罰としてのしかかっているこの重みは合計2mg。僕の実力で理解できるのはここまでだ。

  既に左腕がmgに耐えきれず震えてきた。一時限分の時間が経つころには僕はきっと疲れ果ててしまうだろう。そうすると次の授業で僕はより強い眠気に襲われることになり、つまり両手にバケツは居眠りをした罰としてあまり適当とは言えないのではないか。

 一度バケツを廊下に置いた。2mgがゴトリと音を立てた。置いたのは思案に集中するためだ。早くも僕の腕に限界が訪れたわけではない。

 先生が話す声と、チョークが黒板を叩く音が背中側から聴こえてくる。その物音に、僕は少し寂しくなる。

 一つ席の空いた教室では、普段と変わることなく授業が進んでいっているのだろう。あのだみ声ハゲ、いや先生が書き連ねる文字を生徒たちがせっせと写し、時々練習問題を解く。問題を前に出て解くように言われた生徒がお決まりのように「わかりません」と答え、その後ろに座る生徒も「わかりません」と言う。それが三回続いた後に仕方なく自分で解き始めるあの先生の教え方は、どちらかと言えば分かりにくい。

 なるほど、廊下に立たされるという罰は、こうやって自分の不在が他人に大した影響を及ぼさないことを思い知らせるためにあるらしい。僕がいなくとも授業は成り立つ。自らが廊下の隅に転がる埃と変わらぬ些末な存在であることを悟り、鼻の奥がツンと痛んだ。

 僕は反省した。凄まじく反省した。

 そしてこの反省の姿勢を示すためには、生半可な廊下の立ち方では力不足であるとの結論に至った。凄まじく反省しているからには、同じく凄まじい廊下の立ち方をしなければならないに決まっている。

 足元のバケツを見る。バケツを両腕に提げながら廊下に立つなんて、誰もが簡単に思いつきそうな立ち方は問題外である。もっと強烈な負荷をかけるべきなのではないか、と鉄球を両手に持つ立ち方を考案してみたが、そもそも学校の廊下に鉄球はない。

 他にも剣山の上に立つ、硫酸の海の中に立つなども考えてみたが、実行不可能なものばかり考えても仕方ないだろう。

 とりあえずはできる範囲で、片足立ちをしてみる。フラフラする。傍からみると遊んでいる様にしか見えないということに気付いたので止める。

 続いて逆立ち。腕がプルプルし、次第に頭に血が昇り、僕はバランスを崩して廊下に思い切り身体を打ち付ける。ベタン、と比較的大きな音が鳴る。僕は急いで通常の二足直立状態に戻り、すぐさま教室の扉が開いて先生が顔を出す。

「何やってんだ」

「廊下に立ってます」

「ふざけているんじゃないだろうな」

「とんでもございません、僕は真面目に廊下に立とうとしているのです」

「正しい日本語はとんでもないことです、だ」

 先生の頭が引っ込み、扉が閉まる。僕はホッとする。

 ここまでやって気付いたのだが、ただ立ち方を少々変えてみるだけではどうやっても“凄まじい立ち方”にはならないだろう。“少し変わった立ち方”になるだけだ。それでは駄目だ、求めているのは僕のこの尋常ならざる反省を伝える“尋常ではない立ち方”なのだ。

 さてどうしたものかと頭を捻り、頭が二回転半したところで唐突に天啓が訪れる。なにも難しく考える必要はない。僕は、ただ廊下に立てばよいのだ。

 無論、漫然と廊下に立ってはならない。純粋に廊下に立つ。廊下に立つ以外の行為を全て遮断し、廊下に立つことの純度と密度を高め続けるのだ。

 そうと決まればバケツなんぞ邪魔になるだけだ。手洗い場に行って中の水を流す。さよなら2mg。

 僕は教室の外の定位置に戻る。既にこの場所に立っていると安心感を覚えるようになっている。良い傾向だ。この調子で、廊下に立っているのが自然なことである状態まで持っていくのだ。

 目を閉じる。廊下に立つために、視覚は必要ない。続いて聴覚も遮断しようとするが、残念ながら僕は耳を閉じることはできない。代わりに聴覚から意識を外し、全意識を脚にのみ集中させる。

 今の僕に必要なのは、廊下に立つこの脚だけだ。他のすべてはもう不要なものだ。

 大きく深呼吸する。息を吐くごとに、一緒に体の力を抜いていく。呼吸の速度を次第に遅くしていく。呼吸しているのかどうかわからない程度まで。

 やがて、僕は何も感じなくなる。暗闇と静寂の中に僕はいる。身体の輪郭が曖昧になり、溶けて外界と混ざりあい、流れていく。他の何もない、ないことさえ存在しない虚無の中で、ただ僕の脚だけが確固たる実体を保ち、廊下に立ち続けている。

 既に僕に罰を受けているという意識はない。罪を贖うために廊下に立っているのではなく、僕は廊下に立つために廊下に立っている。廊下に立つという行為の追求。純粋な、最も純粋な“廊下に立つ”。他の何事も僕とは関係なく、もはや僕自身すら関係なく、ここには“廊下に立つ”という行為のみが存在する。

 後は僕の意識をすり替えるだけだ。意識的に廊下に立っているのでは不純物が紛れこんでしまい、真の“廊下に立つ”を体現するには至らない。意識さえも不要だ。脚と廊下のみがこの場に存在を許される。

 廊下に立つ。その行為のみで意識を満たし、他の何物も入り込む余地を消し去ってしまうのだ。

 僕は廊下に立つ。

 僕は廊下に立つ。

 僕は廊下に立つ。

 僕は廊下に立つ。

 廊下に立つ。

 廊下に立つ。

 そして、僕は廊下にーーーーーー

 

 

 突然強い衝撃を受け、僕は自分自身を思い出す。急激に世界が輪郭を取り戻し、色彩が周囲に宿り、音が空間を満たしだす。

 引きずり戻されたのだ。こちらの世界に。

 何が起こったのか分からず目を白黒させていると、目の前にはなまはげがいた。

「寝んな」

 勿論それはなまはげではなく、怒りに顔を赤くした先生だった。その手には丸めた教科書があり、どうやらそれで頭を叩かれたらしい。

「良い度胸してんな、お前」

「いえ、寝ていたわけではないのです。僕は著しく反省しております。猛省に次ぐ猛省の上、“廊下に立つ”という罰の意味を真摯に受け止め、それを忠実に実践しようとした結果……!!」

「やかましい」

 先生は数秒考え込み、言った。

「グラウンドにでも立ってろ」

 

 *

 

 力強い北風と舞い上がる砂埃に打ち付けられながら、僕はグラウンドに立っている。

 時折体育の授業を受けている下級生たちが好奇の視線をこちらにぶつけてくるが、これも罰の一部である。耐えねばなるまい。むしろ少し気持ちよくなってきた。

 さて、このような状況を鑑みれば、“グラウンドに立つ”ことを追求するのは“廊下に立つ”ことを追求するよりもいささか難易度が高いと考えるのが妥当である。しかし、先ほど“廊下に立つ”の最奥をのぞき込みかけた僕だ。成し遂げることができるに違いない。懸念されるのは達成する前に先生に見つかってしまうことだが、それは仕方ないものとして諦めるほかないだろう。

 もし僕の瞑想が、居眠りであると再び先生に見とがめられた場合、どういった処罰が下るのだろうか。次は校舎外だろうか。もしその次は町外、次は市外と追い出され続けるとしたら、最終的に僕は宇宙に立つことになってしまうだろう。まあしかし、その場合も問題はない。宇宙旅行が幼いころの夢だった。

 息抜きはこのくらいにしておこう。いつ再び先生が巡回に来るやも知れぬ。その前に僕は成し遂げなければならないのだ。

 目を閉じて大きく深呼吸する。

 そして僕は、グラウンドに立ち始めた。

帰っている話

 かつて通学に使っていた京阪電車、その始発駅である淀屋橋

 朝、大阪から京都に向かう人々は、示し合わせたように進行方向左側の座席に座る。右側の座席は南東に面しながら線路を進んでいくことになるから、朝陽が差して眩しいのだ。その光景はまるで日陰に集まる猫みたいだけど、残念ながらスーツ姿のサラリーマンやだらしなく眠る大学生は猫に例えるには愛嬌が足りない。

 

 新幹線に揺られながら、そんなことをふと思い出していた。

 

 昨晩会社のほうでトラブルがあり、夜21時に呼び出された時にはもう年末年始を諦めかけたのだが、会社に駆けつけて先輩の隣で2時間ほどわたわたしていると「お前にできることは特に何もない」と上司に言われたのですごすごと引き下がった。その後すごすごと一晩眠り、すごすごと支度を整えてすごすごと新幹線に乗り込んだ。自分が新人であることにありがたさ半分、情けなさ半分。新幹線が揺れる音も今日はなんだかすごすごとしているように感じられ、お察しの通り僕はすごすごと言いたいだけだ。

 

 窓から景色を眺めるのは好きだが大抵そのうち眠りに落ちてしまうし、プラットフォームに降りた時には見ていた景色のほとんどを忘れてしまっている。

 景色を眺めるのは難しい。これは大学生だった頃からずっと思っている。見ているようで目に入っていない細部が山ほどあり、これらを完全に把握しない限りは景色を本当に眺めたことにはならないだろう。しかし細部にばかりこだわりすぎると今度は全景が目に入らなくなり、そうこうしているうちに景色は窓の外を通り過ぎる。比喩の才能のある人ならこれを時の流れやら人との出会いなどに例えるのだろうが、生憎僕には才能がないため精々流しそうめんに例えるくらいしかできない。

 新幹線の窓から見る景色はまるで流しそうめんのようだ。掴もうとしているうちに流れ去っていくし、五分で飽きる。

 

 景色の中のどうでもいい細部というのが僕は好きで、多分これは伝わらないのだろうけれど、例えばこの前訪れた山中の公園に設えられた送電塔に、風を受けてくるくる回っているよくわからない物体がひっついていたりするのだが、まさにああいうものだ。

 僕が常に忘れないでいたいと思っているのはそういった見過ごしがちなとるに足らないものの存在だ。世の中の空白を少しずつ埋めてくれているこいつらがいなければ、世界はまるで麩菓子みたいにスカスカになってしまうんじゃないかな。

 

 新幹線はあっという間に広島を追い越して岡山に追いつこうとしている。

 大阪の実家に向かうことを僕は「帰る」と表現するが、困るのが山口の現住所に戻る方だ。前者を「帰る」と言ってしまった以上こっちは「行く」になるのかもしれないけれど、そうなると僕の部屋はいったいなんなのだ、僕の部屋は僕の居場所ではないのか。いや現在大阪のほうに僕の居場所があるのかどうかも怪しく、そもそも僕の居場所なんてものがこの世界に存在するのかと考えたところで悲しくなってきたので止めておく。とりあえず長年過ごしてきた大阪のほうに軍配が上がるとして、僕は今大阪に帰っている。

 いずれ、大阪に行って山口に帰る、と表現するのが自然になるのだろうか。

 その未来が訪れるのは当分先になりそうだが、多分その時、僕は僕の居場所を一つ失ってしまうことになるのだろう。