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ゴルフに嫌々行く話

 ゴルフは社交の手段であり社会人として身に付けておいて当然の教養である、とそういった考え方は未だに深く根付いているらしく、俺も来週開催される社内ゴルフコンペへの参加が半ば強制的に決まった次第である。

 全く気乗りしていない。何を隠そう、あまりゴルフが好きではないのだ。半年くらい前に上司から頂戴したゴルフクラブ素振りトレーニング器具は玄関の片隅に鎮座している。一見暴漢が侵入したときに警棒代わりに使えそうだが、しかしこのゴルフクラブ素振りトレーニング器具、家の中で振り回しで家具やら家人やらをうっかり破壊することがないようにとの気配りにより先端が柔らかなクッションで包まれているため武器としての価値は限りなくゼロであり、現在のところ気が向いたときに握って振れるだけの奇怪なオブジェである。

 ゴルフの何が気に食わないって、まずスポーツとしてのコスパが悪い。これが気に食わなさのおよそ二割を占める。一万円近い料金を要求する割にやることといえば、棒を振って移動する、これのみである。腕と足の裏にばかり負担がかかる。水泳を見習え。身体にかかる負荷のバランスの良さから、コスパランキングは堂々の第二位だ。第一位はジョギング。無料は強い。

 残りの八割は、俺が球技が苦手であるという、それに尽きる。棒を振って球に当てて狙った方向に飛ばすなんて、奇跡が何回必要なんだよ。

 従って俺には全くやる気がなく、コンペ参戦が決まってからもちっとも練習していない。半年近くゴルフクラブを握っていない。ここまで間が空くと逆にうまくなってるんじゃないかと思う。

 そんな俺に、うちのチームリーダーが声をかけてきた。

 リーダー「○○くん、ゴルフコンペのための練習会を開催しようと思うんだけど」

 ぼく「喜んで参加します! いやちょうど練習せなあかんなと思ってたところなんですよ! まだまだ下手くそなんで迷惑かけるかもしれませんけれど、是非是非勉強させてください! 楽しみだなー!」

 権力に弱い自分が憎い。

 

 で、今朝から行ってました。ゴルフに。

 直前になってすらもやる気がない。どんだけやる気がないかって、財布の中に1200円しか入っていないことがそれを裏付けている。打ちっぱなしですら払えるか微妙な金額である。さすがにまずいので、コンビニに立ち寄ってコーヒーを買ったりお金を下したりすることにした。

 近所のコンビニに車を停め、まずコーヒーを注文しようとレジの前に立つと、真横にあるドーナツの棚が目に入った。

 ドーナツ。俺はドーナツが結構好きなのだ。学生時代はテスト勉強のためにミスドに籠り、チョコオールドファッションを食ったりしていた。テスト勉強なぞチョコオールドファッションを食うための口実に過ぎなかった。チョコオールドファッション狂いである。

 そんなファッションモンスターであった過去を思い出したので、自分を奮い立たせるためにドーナツを注文することにした。しかしここでまたチョコオールドファッションを頼むのも芸がない。俺は日々変化し成長しているのだということを、ドーナツ選びはじめとする日常の些事から、俺はもっとアピールしていかなければならない。

 他に何かないかなと視線をさまよわせたところ、ココア風の生地にシナモンがかかった美味しそうなドーナツを見つけた。こいつにしようと商品を指さそうとして俺は気付く。商品名が

 『黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)』

 これである。責任者出てこい。

 25歳男性がココアドーナツを食べたくなるケースを想像できなかったのか。黒ねこ。何故ファンシー成分を付け加えた。黒ねこである必要はなかったろうが。「ねこ」がわざわざでひらがなで書かれているところがまた腹立たしい。

 正直なところ、恥ずかしい。俺は平常心を保ったまま「黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)ください」と言うための精神訓練を受けていない。しかし口の中はもう完全にココアドーナツの味になっている。なんなら「コーヒーと、あと……」と言ってドーナツの棚を指さす段階まで既に入っている。ここから手を引っ込めるわけにはいかない。

 まったく今日は災難だ。ゴルフに行くのだけでも億劫なのに、まさかドーナツを注文する段階でこのような試練が待ち受けているとは思わなかった。世間は25歳独身男性に厳しい。

 どうする。黒ねこを省略して「ココアドーナツ」と注文すべきか。しかしその場合(うわ、この人黒ねこっていうのが恥ずかしいんだ……)と目の前に立つバイトリーダーっぽい兄ちゃんに内心見下される事態を避けては通れない。それは避けねばならない。このセブンイレブンは最寄りのコンビニであり、最寄りのコンビニのバイトリーダーに見下された場合、最寄りのコンビニに来るたびに俺はちっぽけな劣等感を抱えなければならないことになる。

 例えばちょっと切手を買いに来る。レジにいるバイトリーダーに声をかけなければ切手は買えない。もちろんバイトリーダーは終始にこやかに対応してくれるが、心の中では(こいつ黒ねこココアドーナツもまともに注文できないくせに、切手は注文するのかよ……)と嘲笑の嵐である。俺は震える手で切手を受け取り、震える足で家まで駆け戻り、布団にくるまって悔しさに震えながら泣くのだ。

 そんな未来は断ち切らねばならない。俺は決めた。俺は黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を注文するのだ。25歳男性彼女なしにだって、その権利はある。照れてはならない。堂々と注文するのだ。恥ずかしいことなど、本当は一つもないのだから。

 

 ぼく「黒ねこココアドーナツください」

 バイトリーダー「は~~~~~い!! 黒ねこ一丁~~~~~~~~~!!!!」

 

 完全に負けた。黒ねこがどうとかファンシーがどうとか悩んでいるこっちが愚かだった。バイトリーダーはあくまでも職務に忠実であった。そこには25歳男性合コン連敗中に対する侮蔑など一切なく、ただ黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を望む客に黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を届ける、正しきバイト戦士の姿があった。たかが黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)という商品名に一抹の恥ずかしさを感じていた俺のなんと矮小なことか。

 俺は平然としたふりをしながら会計を済ませ、商品を受け取り、車に戻り、悔しさに涙しながら黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を食べた。何故か少ししょっぱく、ほろ苦い味がした。

 

 久しぶりのゴルフは前回のスコアを一割も上回る大健闘でした。

 あとお金下ろし忘れてたので先輩に一万円借りました。

ひらがなを投げる話

 ひらがなの「く」を投げたいと考えたことの一度や二度くらい、誰にとってもあることでしょう。投げた後の軌道が簡単に想像できる。くるくると回りながら手元に戻ってきて、きっと楽しい。何故ならば「く」、見た目がほぼほぼブーメラン*1である。同様の理由で「へ」も投げたい。この二つは投げたいひらがなランキング不動のツートップだろう。
 あと「し」や「つ」も結構戻ってくるだろうし、鋭い鉤爪がついていてより殺傷力が高そうである。刃のブーメラン*2である。投げたい。「も」に至ってはもう敵をズタズタに引き裂いてしまうであろうことが想像に難くない。攻撃力は最強クラス。つまりは炎のブーメラン*3である。めっちゃ投げたい。

 *1:投擲武器の一種。アボリジニが狩猟用として用いていたことで有名。紀元前のアッシリアでは兵士の標準装備とされていた。なお、投げても戻ってこないものは「カーリー」と呼ばれており、ブーメランとは区別されるべきである。ドラクエでは敵全体にダメージを与えることができるので、強い。
 *2:どうやってキャッチしているのだろうか。
 *3:どうやってキャッチしているのだろうか。

  さてこのようにひらがな投げたい界隈の中では「く」や「へ」や「し」や「つ」ばかりがちやほやされるわけですが、実際のところブーメランが戻ってくるのに大事なのは上から見たときの形状ではなく断面の形状であることは、ブーメラン運動に必要なのが揚力であり、揚力のトルクが角運動量をなんちゃらかんちゃらして回転面が進行方向にどうにかこうにかすればよいという簡単な力学より分かります。要するに、意外や意外、別に「く」や「へ」だけではなく、投げようによっては「あ」も「ぬ」も「れ」も全部戻ってくるらしい。

 そこで魔が差した僕、おもむろに「な」を手に取る。「やめろって!」とひらがな投げ仲間の友人が制止してくる。「それに関しては戻ってくるとかこないとかじゃないって!」

 うるせーやーい、と僕は手首のスナップをきかせ、「な」を勢いよく空中に放り投げる。一瞬で「な」はバラバラになり、突如吹いた強風に煽られてどこかへと消えていく。この瞬間、「な」はこの世界から失われてしまったのだ。僕がひらがなを投げたい欲求を抑えきれなかったばかりに。

 「なんてことをしてしまったんだ……」と僕は自分のしでかした悪行を反省するがもう遅い。「な」は既に失われてしまったので、先ほどの反省も「 んてことをしてしまったんだ……」になっている。何かがおかしいことに気付いた人たちが「なんだなんだ」と騒ぎ始めるが、これも「な」が失われているせいで「 んだ んだ」となり、田舎者が大量発生する結果となる。

 慌てて僕は四散した「な」の欠片を拾い集めに駆け出すが、先ほどの強風のせいでどこへ行ったか分からない。汗まみれの泥だらけになってようやく「な」の下の部分を見つけたと思ったらそれは野生の「ょ」だったので僕は「ょ」を思い切り蹴り飛ばす。「ょ」は泣き声を上げて逃げていく。

 「な」をもう一度作り出そうとしても、もうその姿が思い出せない。僕はペンを投げ捨てて白い紙をグシャグシャに丸め、「きみのなまえは……っ!」と慟哭するが、それもやはり「な」が失われてしまっているせいで「君の前は」になっているのでさっぱり意味が通らない。

 こうして僕は「な」を探しながら生きていくことになる。「な」の面影を、僕は常に追い求めている。向かいのホーム。路地裏の窓。こんなとこにいるはずもないのに。

 「な」と再会できぬまま、僕は年老いていく。もう何を探していたのかすらもおぼろげな記憶となってしまったが、妙な空虚さが胸のうちから離れてくれないのだ。この心の穴を埋めてくれる形を、僕は死ぬまで探し続けるのだろう。

 

 それからというもの人類は「な」の無い世界の中で暮らしています。「な」は「は」や「ま」などで代用して、何とかうまくやっているそうです。

 それでも50音表の中で不自然に空いた「 にぬねの」の行を見るたびに、人々は何故だか胸が締め付けられるような気持ちがするのです。

 

 

○参考文献

1.「力学」青山秀明、2008、学術図書出版社

2.「ドラゴンクエストV 天空の花嫁 公式ガイドブック 下巻 知識編」1992、エニックス

3.「one more time, one more chance山崎まさよし、1997、ポリドール・レコード

4.


「君の名は。」予告

5.


【お笑い・コント】バカリズム「順位に関する案」

靴下の片方がどこかへ消える話

 洗濯物かごをひっくり返した僕は、やれやれ、とため息を吐く。やれやれ、まただ。靴下が片方しかない。灰と赤のストライプ、それと合同の関係にあるはずの片割れがない。これで5足目だ。ボーイング747のシートに座った「ノルウェイの森」の主人公がやれやれまたドイツかと呟くように、僕はやれやれまた靴下かと呟くのだ。驚くべき格差社会。これがせめてイタリアだったら形も靴下に似るのになと思うのだが、それで何が良くなるのかは全く分からない。

 ここは男子寮であり、ランドリールームには洗濯機とその上に乾燥機が四台ずつ、等間隔に並んでいる。その様子はなにやら結界を守る魔物のようである。全員を一気に倒さなければならないやつだ。一体だけ倒したとしてもアレイズで復活させてくる。上の乾燥機は多分魔法攻撃を主体とする。

 そのたった四台しかない洗濯機や乾燥機の中に、益荒男どもが一週間溜まりに溜まった汚れ物をこれでもかというほどぶち込んで、しかも洗いっぱなしの乾かしっぱなしにしていたりするので、もうどこの洗濯物が誰の洗濯物かも分からない。置き去りにされた洗濯物の山は日に日に大きくなっており、もはや誰のものとも知れない。巨大化した洗濯物の山はいずれランドリールームから溢れだし、廊下を埋め、寮全体を飲み込んでいく。Googleマップで探した僕の住居は「寮」と記されているのだが、これがやがては「洗濯物」に切り替わるのであろう。もしそうなったら、僕のことを洗濯物に住む男として後ろ指さして笑ってください。

 で、どこかへ行った僕の靴下。わりと最近買ったばかりの灰と赤のストライプの靴下は、寮を埋め尽くした洗濯物山のふもとをひょこひょこ飛び跳ねるように歩いている。彼は探している。いなくなった片割れが、どこかに埋もれていないだろうかと。

 心細さに涙を流しそうになりながら、彼は探している。灰と赤のストライプの靴下ー。灰と赤のストライプの靴下ー。

「灰と赤のストライプの靴下ー」

「呼び方がまどろっこしいな」

 突然の突っ込みにびくりと振り返ると、そこには黒い靴下が一つ佇んでいる。当然のようにそいつも片方だけであり、靴下本来の機能を果たすには足りない。

「そうだな、お前のことは略して【灰スト】と呼ぶことにしよう」

「そんなパンティストッキング略してパンスト、みたいな呼称は嫌です」

「ついてこい。こっちに片割れを無くした靴下たちが身を寄せ合って過ごしている村がある。お前の探し人、いや探し靴下もそこにいるかもしれない」

「ありがとうございます。あの、あなたのことはなんと呼べば……?」

「そうだな、俺のことは黒304号とでも呼んでくれ。同じ見た目がたくさんいてな」

「安直なネーミングがもたらした悲劇」

 そうして灰ストと黒304号は連れだって歩き、深い森や広大な砂漠を、要するに花壇や砂場をいくつも抜けて靴下の片割れが身を寄せ合って過ごしている街にたどり着くわけだが、

「こ、これは一体どうしたということだ!」

 と仰々しい驚き声を黒304号が上げる。目の前に広がるのは無残に破り散らかされた靴下たちの残骸。この惨状、靴下たちなら思わず嘔吐し、人間たちなら全部燃えるゴミに出してしまうほどの惨たらしさである。

「いったい、誰がこんなことを……!」そう嘆く灰スト。

「決まっているだろう!」と黒304号は怒鳴る。

「我々、片割れを失くした靴下の天敵。それは……!!」

 

 ***

 

 なんなんすかね。なんかもう思いつかなくなっちゃって急に冷めちゃったんですけれど、カラスとかっすかね。

 さてそんな片割れを失くした靴下たちの興亡はさておき、ともかく僕の部屋には片方しかない靴下が5つ転がってるんですけれど、これどうしましょうか。小石を詰めてカラスに投げつけたりすればいいっすかね。

 いけお前たち。片割れの仇だ。

海苔を食べるタイミングの話

 上手に海苔を食べられないことがコンプレックスだ。食卓によく上がる1袋5枚入りの海苔。僕が食べようとすると、大体余ってしまう。1枚目、2枚目まではいい。3枚目くらいになってくると他のおかずに気を取られすぎ、海苔の処理がおろそかになってしまう。気付いた時にはもう遅い、残ったご飯はわずか。3枚目の海苔はなけなしのホカホカご飯をくるむのに使い、最後の2枚は海苔・オン・ソロステージ。2枚まとめてポリポリ齧りながら「うん、素材の味」と呟く僕はその屈辱にちょっと涙ぐんだりしている。

 海苔を食べるタイミングを教えてくれる人。そういった職務があればいいのだと思う。わんこそばのそばを注ぐ人とポジション的には同じである。朝餉を楽しむ僕の左後方に彼女は静かに立ち、適切なタイミングで「海苔」と囁く。僕はその声に導かれるように海苔を手に取り、ご飯をくるみ、食べる。そうすることにより、ご飯がなくなるのに合わせて5枚の海苔を綺麗に使い切ることができるのだ。

 

 その日、僕はちょっとした長期出張のためホテルに宿泊している。私用の際に泊まるビジネスホテルより数ランク上のそのホテルのなかで僕は目覚め、朝の湯浴みを優雅に楽しんでから2階にあるレストランに向かう。右手にはルームキーを、左手には朝食券を握りしめている。

 レストランに着いた僕は、中を見て驚く。各テーブルの後ろに一人ずつ、厳かな和装を身にまとった人が控えているのだ。多くは3~40代程度の女性であり、ごくわずかに若い女性や、学生と思しき青年の姿が見える。

 海苔、海苔、海苔、と呟く声が聞こえる。なるほど、彼らが海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちなのだろう。

 僕は自分の部屋番号が書かれた卓に就く。後方に控えるのは同年代と思われる女性。凛とした立ち姿からは、何とも言えない気品を感じる。

 少し緊張しながら僕は朝食を取り始める。まず味噌汁をすすり、続いて米を一口食べる。次に鮭の身をほぐして一欠け口に含み、それから「海苔」ここで海苔だ。海苔の袋を開けて1枚取り出し、ご飯を包んで食べる。優しい味がして、僕はほう、とため息をつく。

 僕の食事は続く。漬物、米、ひじき、味噌汁、「海苔」、米、鮭、味噌汁、米、「海苔」、米。なるほど、少しオーバーペースであるような気もするが、実際のところこれくらいの按配がちょうどよいらしい。鈴の音のような彼女の「海苔」に従って、僕は正しく海苔を消費する。

「ありがとう」食事を終えた僕は言う。いえ、それが私の役目ですから、と彼女は答える。

 

 いつになく上手に海苔を食べることができた僕は気合十分、出張先で業務をバリバリこなす。昼になるとおなかが空くので、先輩に連れられて評判だというラーメン屋に向かうことになる。

「夏の暑い日に食うラーメンはうまいよな」と先輩は僕に言う。「ここ家系のラーメンなんだけどさ、おススメだよ」

 店の暖簾をくぐると、案の定そこにも海苔を食べるタイミングを教えてくれる人がいる。先ほどホテルにいたのと同じ人たちのようにも思える。確かにラーメンの上に乗っている海苔を食べるタイミングもかなりの難問であるから、家系ラーメン屋にも海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちは必須であろう。

 僕はラーメン並盛の食券を買い、カウンターの上に出す。程なくしてラーメンが提供される。僕は箸とレンゲを手に取って、ラーメンを手元に寄せる。

「海苔」と僕の後ろで、先ほどと同じ鈴の音のような声が囁く。僕はそれを無視して先にスープに口をつけ、麺に手を伸ばす。「海苔」。再度声がする。僕は麺を啜りあげる。

「海苔」「うるさいな!」僕は思わず声を荒げる。「いつ海苔を食べようが僕の勝手だろう!?」「しかし後になると海苔がふやけてしまい、海苔本来の味わいが……」「ほっといてくれ、僕はスープでひたひたになった海苔を食べるのが好きなんだよ!」

 僕は凄まじい勢いでラーメンを食べ、最後に海苔を口に含むと、丼と箸をテーブルの上に叩きつける。「あんたに教えてもらわなくたって、僕は一人で勝手に海苔を食べるさ」そう吐き捨てて、僕は荒々しく店を出て行く。

 そんな僕の後姿を、「すみません」と呟く彼女と、置き去りにされた先輩が寂しそうに見つめている。

 

 次の日の朝、僕の目覚めは悪い。昨日吐いてしまった彼女への悪態について、夜遅くまで考えを巡らせていたからだ。

 朝食の時に謝ろう。そう思いながらレストランに入った僕は異変に気付く。一人もいないのだ。海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちが、どこにも。

 僕は不安な気持ちになりながらテーブルにつき、一人で食事をする。周りの人たちは海苔を食べるタイミングを教えてくれる人がいないことも気にせずに平気な顔をして海苔を食べており、それが僕の不安をさらに掻き立てる。動揺のあまり僕は海苔を4枚も余らせてしまい、残った海苔を4枚一気にほおばって口の中が海苔まみれになる。

 仕事に向かうも、身が入らない。急に姿を消してしまった、海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女のことが気になって仕方がない。

「僕、ちょっと出てきます!」

「おい、どこに行くんだ!?」

 先輩の言葉も聞こえないふりをして、僕は職場を飛び出す。駆け足で駅に向かう僕は、思い出している。そうだ。彼女と出会ったのはあのホテルが初めてではない。その前から、何度も。ずっと、彼女は僕に海苔を食べるタイミングを教えてくれていたのではなかったか。汗を滴らせながら、僕は走り続ける。

 僕はもう、どこに行けばいいのかわかっている。それはつまり、海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女が待つ場所を、僕は最初から知っていたということだったのだ。

 携帯が先輩からの着信で揺れている。僕は電源を切る。

 電車に揺られて数時間、僕はたどり着く。そこは懐かしい場所だった。小学校の林間学校で訪れた、古いキャンプ場。そのシンボルである巨大なクスノキの下に、彼女はいた。木陰に隠れるように、艶やかな黒髪を風になびかせながら、彼女は僕に背を向けて立っている。

 僕は彼女の元へと向かう。

「今日はさ、4枚も残してしまったんだ」と僕は言う。

「自分一人でも海苔を食べられるなんて、あんな大見得を切っておきながらさ。僕はやっぱり、君がいないとダメみたいなんだ。君が傍に立ってくれていないと、一人で満足に海苔を食べることすらできやしない」

 戻ってきてくれないか。そう僕は言う。彼女は振り向かない。僕に背を向けたまま、彼女は答える。

「あなたは言いました。私がいなくても、自分で勝手に海苔を食べると。もっと早くそうすべきだったのです。あなたは私に甘えすぎたし、私はあなたを甘やかしすぎました。そうするのが心地よかったからという、それだけの理由で」

「ダメだ! 君がいないと、僕は……!!」「大丈夫。あなたは大丈夫ですよ。私がいなくても、あなたは自分のタイミングで海苔を食べることができる。その勇気を、あなたはもう持っているのですから」

「待ってくれ!」僕は彼女に駆け寄り、抱きしめようとする。確かに彼女を捕まえたはずの僕の両手は空を切り、僕はその場に崩れ落ちる。

 妄想に過ぎなかったのだ。海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女は、僕の弱い心が生み出した、ただの幻だった。小学生の時、周りがそうするように上手に海苔を食べることができなかった僕は、そのコンプレックスを埋めるために海苔を食べるタイミングを教えてくれる存在を頭の中だけで作り上げ、彼女にずっと頼って生きてきたのだった。

 僕は力なく身体を起こし、上体をクスノキに預ける。僕の感傷になど構うことなくセミは鳴き続け、夏の日差しは僕を焼いていく。

 大丈夫。そうどこからか声が聞こえたような気がしたが、これもきっとただの幻聴なのだろう。

 

 それから僕は先輩に謝罪の電話を入れ、急いで仕事に戻った。ありのままを話そうとしたのだが、「海苔」の時点で先輩が「海苔がなんだ!!??」と恫喝するため、正しく事情を説明することはできず、僕は平謝りを続けるばかりだった。

 次の日の朝、僕はいつものように目を覚まし、食事をとりにレストランに向かう。海苔を食べるタイミングを教えてくれる人は、当然ながらもう誰もいない。僕は一人で食卓に着く。

 味噌汁を啜り、米を一口食べる。それから「海苔」と自分で呟いて、海苔の袋を開ける。

 僕の頬を、涙が静かに流れていく。

今日の話

 朝10時くらいからちょっとした業務のために職場まで来てさ、まあ業務自体は2時間もありゃあ終わるもので、そっから資格試験の勉強でもしようと思って、職場に残ってたんだよ。まあ全く出来なかったね。勉強。集中力もなければ思考力もない、テキストに書かれた公式読みながらボーッとして、問題眺めてボーッとして、解いてみるかとペンを取ったら全然わかんなくてまたボーッとして。途中珈琲飲んだりタバコ吸ったり、実質勉強してたのなんて一時間半くらいにじゃないかな。今の今までいたんだぜ。何してたのかったいうと、大半ボーッとして、途中急に情緒不安定になってボロボロ泣き出したり、小銭入れぶん投げたり、机をガンガン殴ったり、Tシャツを脱ぎ捨ててから着たりした。文字に起こすとヤバい人だね。まあ実際ヤバいんだろうけどさ。晩飯食うのも面倒くさくてカップラーメン啜って、ああこっから帰る気力もねえなってのでまたしばらくボーッとして、気付いたこんな時間だ。最悪だよ。なんなんだよ。なにがしたかったんだよ。自分で答えるけれど、なにもしたくないんだよ。なにもしたくない俺は。なにも出来る気がしないんだよ。怠けてるとか、甘えてるとか言うなよ。そんなもん自分で一番わかってるんだぜ、こう見えてもな。ダメなんだと思う。というか、ダメになっててほしいね。最近右腕と右足が痺れるんだ。目が覚めたら動かなくなっていてくんねえかなあ思いながら毎日寝てるよ。動くんだけどね。結局のところ俺は健康で、不健康ダアッてほしいなんて思うのはサボりたいからに過ぎないわけで、じゃあこのサボりたい気持ちが病気なのか病気じゃないのかというと俺は分からないので。分かりやすい病気になりてえや。めまいが酷いし頭もしびれるんだよ。血管とか詰まってくれてて別にいいんだけどな。どっちにしろ働かないんだからさ。んでいま、休日出勤のときは自転車で五分のこの距離を車で通うんだけどさ、帰りにどっかよれるようにね。どっか寄るところか帰る気力もなくて座席倒してフラットにした車の後ろ半分でこれかいてんだよ。暑いな。クーラーつけてえけどガソリン持ったいねえし。まあいいや、たぶん俺はこのまま今日は眠るんだろう。昔を思い出すんだよ。俺は。子供の頃、良く親父につれてって貰ったからさ。海とか、まあ、海とかだな。海が好きだからなおれの親父は。車中泊が当たり前で、でっけえバンに乗っててさ。昔はマツダボンゴフレンディだった。今はベンツに乗ってる。ベンツっても、ベンツって感じのベンツじゃねえけどな。トランスポーターったいう、まあ調べた見なさいや。国産車でいうとハイエースに近いよ。とにかく、車の後ろで良く眠ったんだよ。子供の頃な。休みの日。休みの前の金曜とかだ。親父が運転する車にのって、助手席で他愛ないこと喋ってさ。眠くなったら後ろに潜り込むんだ。毛布敷いてるし枕もおいてる。移動する部屋だぜ。移動している間にぐっすり安眠だ。目が覚めたら遠いどこかにいるんだ。遅くまで運転してたはずの親父は俺よりやっぱり先に起きてて、あのキャンプ用の小さなガスコンロでウィンなーを焼いてる。それをコッペパンに挟んで、マスタード書けて食べるんだ。旨かったな。で、海にいくんだよ。親父は波乗りをする。俺はもっと近場で遊んだり、泳いだりしてた。貝のコレクションしてたっけな。小学校低学年くらいのことだぜ。あのガソリンスタンドのシェル、あれのロゴにそっくりな一枚貝を持っててさ、あれが一際お気に入りだったね。家に大量に持ってたな。レゴブロックのセットが入ってる大きい箱、あれにどっさり貝殻が入ってた。もともと入ってたレゴはどこ行ったんだろうな。まあいいか。あよ貝殻、もうないよな。いつ捨てたんだろう。あんなに大事にしてたのにな。そんなこととかがあってさ、俺は車を買うときは絶対中でのんびり寝れるくらいのやつって決めてたんだよ。で、ホンダのエアウェイブ。初めの車として選ぶにはでかすぎないし手頃な値段だったし、後ろ倒せば足伸ばして寝れる。ピッタリだったんだよ。こいつでいろんなところいこうとおもってた。波乗りとかさ、毎週は無理でも月に二回くらいしてえなって思ってたんだ。で、どうだ。俺は会社の駐車場で、こんなこと書いてる。車買えばどこまでも行けると思ってた。大人になったら好きなところに行けると思ってたんだ。なあ、行けると思ってたんだよ。行けるのに、行ってないのかもしれねえけどさ。なあ、俺はどこに行くんだろうな。誰か教えてくれ。って言ってる時点でもう間違いなんだけどさ。なあ。どこへでも行けると思ってたんだよ、俺は。

t.A.T.u.の歌を思い出す話

 昨晩、高校の同期と飲んでるときにt.A.T.u.の話になったんですよ。どういう流れかは忘れたんですけど、あーいたねそんなやつら、PVで少女二人がキスするやつね、Mステをドタキャンしたやつね、代わりに演奏したミッシェルガンエレファントのミッドナイトクラクションベイビーがすんげえ格好よかったやつね、とまあそんなことになって。
 で、どんな歌詞だったかなあと皆して思い出そうとしたんですね。おれは確か「オニトゥマヘー」だったと思うと提案し、それは概ね賛同を得られたんですよ。サビだけは皆メロディーを覚えていたので、以下が俺たちが過去の記憶を掘り出して復元したt.A.T.u.の曲の歌詞になります。

オニトゥマヘー オマヘーヘー
オニトゥマヘー オニトゥマヘー オニトゥマヘー↑
オニトゥマヘー オマヘーヘー
オニトゥマヘー オニトゥマヘー オニトゥマヘー↑
フッフッフッ フッフーフーン (wow wow)
フッフッフッ フッフーフーン

 いや文字だけでは伝わらないと思うんですけどね、これかなりの再現度だったんです。あの時の俺たちはほとんどt.A.T.u.でした。雨に打たれながらキスをした方が良いんじゃないかと思ったくらいです。
 しかし、いくらこれがかつてのt.A.T.u.をほぼ再現していると断じて過言ではないとは言え、答え合わせが必要だなという話になりました。とはいえ曲名も分からないので、取り敢えずは「オニトゥマヘー」で検索をかけてみることにしました。

 次の検索結果を表示しています: オルトゥマヘイ
元の検索キーワード: オニトゥマヘー

 早速立ち込めてくる暗雲。俺たちがオニトゥマヘーだと思っていたのはオルトゥマヘイだったのか。オルトゥマヘイ オマヘイヘイ オルトゥマヘイ オルトゥマヘイ オルトゥマヘイ↑だったのか。先ほどまでほとんどt.A.T.u.だったはずの俺たちに亀裂が入ります。
 この「オルトゥマヘイ」、かつて学校へ行こうのB-RAPハイスクールに出演していたMUSIAというラッパーが提唱した空耳だったようですね。t.A.T.u.といい学校へ行こうといい、懐かしむ話題から俺の年代が確実にバレていっています。
 で、そんな似非ラッパーの空耳に俺たちのオニトゥマヘーが遅れを取るわけがないと思い、ちゃんと歌詞を調べることにしました。どうせt.A.T.u.で調べて最初に出てきた曲がオニトゥマヘーのやつです。俺たちの正しさを証明しようという瞬間、いやがうえにも胸が高鳴ります。


"All The Things She Said" - t.A.T.u.

All the things she said
All the things she said
Running through my head
Running through my head
Running through my head
(Running through my head)
                                    ×2
This is not enough

 再び鎌首をもたげる暗雲。all the things she said? おかしくない? オニトゥマヘーのマがなくない? 歌詞とPVを睨み付けながら、譫言のように俺たちはオニトゥマヘー オマヘーヘーと呟きます。
 そして判明した真実には、これ、最初の2フレーズと次の3フレーズで歌詞が違うんですよね。初めはAll the things she saidで次はRunning through my headなんですよ。つまり、前半はオザシグセーで後半はラニスマヘーと表現するのがより正鵠を射ているということで衆目が一致しました。
 つまり、我々の信じていたオニトゥマヘーオザシグセーラニスマヘーが混じりあった結果に生まれたものだったのですね。しかし歌詞の正確な発音は間違えて覚えていたとはいえ、途中ラニスマヘー↑と音が上がる部分や(wow wow )と入る合いの手のタイミングは完璧に覚えており、もう俺たちの記憶力は凄いのか何なのか良くわからん。
 そんな虚構の元に生まれついたオニトゥマヘーに別れを告げ、再構成した正しいt.A.T.u.の曲が以下になります。

オザシグセー オザシーセー
ラニスマヘー ラニスマヘー ラニスマヘー↑
オザシグセー オザシーセー
ラニスマヘー ラニスマヘー ラニスマヘー↑
イッイッノッ イナーアー (wow wow)
イッイッノッ イナーアー

 この瞬間、俺たちは完全にt.A.T.u.になりました。時空は2002年まで巻き戻り俺たちは二人の少女となって、歓喜の涙を流し雨に打たれながらキスをして、Mステをドタキャンしました。そしてその精神的オルガスムスを感じながら眠りに就き、酒の残るアホみたいな頭のまま俺はこの記事を書いています。
 こうして俺たちは晴れてt.A.T.u.となった訳ですが、しかし俺たちだけがt.A.T.u.なのだと言うわけではありません。俺たちの提唱するオザシグセーラニスマヘー以外にもt.A.T.u.になりうるフレーズは存在しうると俺は思いますし、そのフレーズはあなた方の頭のうちに眠っているのだと考えています。
 ここまで読んで下さった読者の皆さま、あなたも是非あなたの思うt.A.T.u.となり、Mステをドタキャンしてみてくださいね。

朝ご飯を食べる話

 午前5時くらいに仕事が一段落つき、自分の席で「あ"ーーーー」って言ってたら午前6時になっていた。長い。「あ"ーーーー」が長すぎる。毎日「あ"ーーーー」に1時間を費やすだけで1年で365時間、日数に直すと約15日「あ"ーーーー」とやっている計算になる。人生のうち1/3を睡眠に費やす上に、さらに1/24を「あ"ーーーー」に浪費していく。なんの冗談だよ俺の人生は。

 声帯が擦りきれるまで一頻り「あ"ーーーー」を嗜んだ後、ひとっ風呂浴びてから朝飯を食べにいくことにした。今日は車で通勤していたため、車の中に常備してある風呂道具が役に立つ。ところで自動車については、本腰を入れて愛好している方々を除くと、一般的には「快適な移動手段」として用いるか「移動する快適空間」として用いるかの2パターンがあるように感じられ、俺は完全に後者に属するのだけれど、長くなりそうなのでこの話はまたの機会に。

 で、さっぱりしてから近所のファミレスにきた。モーニングメニューは4、500円で注文できる上にドリンクバーが付いており、非常にアツい。コーヒーで粘りながら貴重な午前の数時間をだらだら過ごすのが専らのマイブームなのである(今2杯目)。

 今日のセレクトは定番朝食。ご飯味噌汁沢庵に加え、納豆玉子ひじきと定番の一品ばかりを揃えた貴重なメニューだ。納豆や玉子など、消費期限の都合上一人暮らし生活をしていると自宅で食べにくいものが揃っているのもありがたい。

 玉子と納豆を混ぜてご飯の上にかけ、箸でかっ込む。旨い。旨すぎる。これが科学の力か。続いてひじき。ひじきは……ひじきだな。合間に啜る味噌汁も熱々で良い出汁が出ている。沢庵もご飯に良く合う。んでひじきは……ひじきだな。

 そんなこんなで腹を満たした幸せな気分で今これを打っている訳だけれど、この幸せについて改めて考えてみると、どうにも俺は「美味しいものを食べた」とか「お腹いっぱいになった」とかではなく、むしろ「規則正しく栄養価のあるものを摂ることができた」という部分に食の幸せを感じているようだ。

 俺、外食欲が少ない。休日のお出掛けの際にはしっかり外食をして贅沢することはあるものの、例えば会社の同期が頻繁にそうするように、平日の仕事帰りに「ファミレス行くか~」と思ったことがない。それなら俺はスーパーで惣菜を買い、部屋で米を炊いて食う。これも普段の食事を「栄養を摂るためのノルマ」と考えている節があるからだろう。

 なんか、RPGみたいだなあと思う。ノルマを達成することによって経験値を溜め、レベルを上げていき、少しずつ強くなって強大なボスを打ち倒すのだ。そんな日々の過ごし方。実際にそんな分かりやすいシステムであったらどれだけ良かっただろうか。

 もちろん現実はRPGではないし、ちゃんと栄養を摂ったとしてもレベルアップのファンファーレは鳴り響かない。本当に、俺はちゃんと強くなってるんだろうか。不安で不安で仕方ないので、仕事をしないサウンドエフェクトの代わりに自分で奏でる。てれれれ、てってってーん。

 三杯目のコーヒーを飲み終える。俺の胃には着実にダメージが刻まれていっている。