ハロー。
のっけから挨拶を間違っています。時間的に。
久しぶりにFacebookを覗いてみたら、あそこは色々なもので満ち満ちていますね。各々の生活、日常、意見、娯楽、未来。目眩がします。そこに詰められた情報の多さに、処理能力が追い付かずに。
彼らの所属する場所の常識。あるいは、彼らに見えている世界の断片。そういったものであると思うのです。SNS上でシェアされているものは。ひゅー。みんなちゃんと生き抜いているみたいですよ。そこに対する正しい姿勢として、受け手側に求められるのは、多分誠実な理解とかではないんでしょうね。ただの認知と許容なんだと思います。「へー」。ただそれだけ。「そんな生活があるんだなー」って。決して彼らの状況を正確に理解しようとした上で自分と対比しようとなんかしちゃあいけないぜ。人目に付くように置かれたものは綺麗に設えられているもの。だから彼らにもあるはずなのです。僕が、僕らが埋没しているこの日常のような。擦りきれた仕事着、ふらふらと歩く道のり、静かなワンルーム、一向に減らない録画と積ん読。なあ、そうなんだよな? そうだと言ってくれよ。
要するに、自分の所属する場所における「当たり前」。それに自然と馴染むことができる、というのはこの上ない幸福だと思うわけです。自分が「ずれている」と言うことを思い知らされながら生活するのは、これはあまり楽しいことではありませんからね。
なんの話をしようとしてたっけ。
眠れない夜の話。
あるいは、山積みになった洗濯物の話。
あるいは、奮発したのに首に合わない安眠枕の話。
あるいは、効きの悪いエアコンの話。
俺の世界の断片とは?
こんな夜、思い返すのはどうしても、昔のことです。
ブールサイド。塩素の香り。生温い水。
教室の机。○のついたテスト。休み時間の喧騒。
淀川の花火。
高校の最後の大会、50メートルプールを、たった四人で独占して泳いだ、あの最も自由だった一瞬について。
今はすっかり細部の曖昧になった記憶の断片を、俺はビー玉をこねくり回すかのように弄びます。
かつての俺は、もっと瞬間的に生きていたはずだ。
現在進行形で流れている時間に、もっとしっかり、地に足を着けて立っていたはずなのに。
なんかどうやら、また立ち位置を失いそうになっているようてす。
久しぶりに「クビキリサイクル」を引っ張り出して、少し読んでみました。かつてはいーちゃんより年下だった俺も、今ではもう彼が「大人」と読んだ人たちと同年代です。
世知辛いね。
serph。そんなミュージャンがいますが、脳の皺に入り込んでとろかすような音を聴かせてくれるので、好きです。
知ってるかい?
伝わらない文章には、その時点で価値がないんだぜ。