休みと、ペットショップの動物と、走り回る子どもの話

 あまり正当とは言えない理由で今日もお休みを頂いた。要するに体調不良です。

 職場に休みの連絡を入れ、「生活リズムは崩さないように」とのお言葉を頂いたその体で二度寝に入り、目を覚ますと12時だった。部屋に食料はなかった。溶けた鉛のように重たい頭と身体を引きずって風呂に入り、着替え、車のキーを手に取り、外に出ることにした。一先ずは昼食を取らないと、凝固した鉛の塊になってしまうような気がした。

 うどん屋で、うどんよりも多くのネギと天カスを摂り、ついでに頭と体のリハビリがてら近くのショッピングモールへと向かうことにした。アクセルを踏む。ガソリンを燃料にして動く車が、ネギと天カスを燃料にして動く僕を運んでいった。

 何も考えずにふらふら歩いた。時折、胸ポケットに放り込んでいた電子煙草を吸った。思い付きで買ったものだが、ニコチンが苦手なくせにたまに吸いたくなる僕には重宝している。

 息を吸う。吐く。水蒸気の煙の行方を目で追う。一連の動作は、僕に空白の時間をもたらしてくれる。

 適度な空白は良いものだ。空白がなければ、僕は空白以外のものが有する圧倒的質量に押しつぶされてしまいそうな気がする。現に押しつぶされているのかもしれないけれど。なお、空白は適度な量に留めておくべきで、巨大な空白は虚無となって僕を飲み込んでしまうことだろう。分かっている。分かってはいるんだけどな、と僕は思う。

 ふらりとペットショップに寄り、買う予定もない動物を冷やかした。眠り続けていたアメショ。僕を不機嫌そうな目で一瞥し、ガラスケースの前を何回か行ったり来たりして背中を向けたスコティッシュフォールドポメラニアンは、僕が目の前で立ち止まると、狭いケースの中を走り回ったり、縦横無尽に跳び回ったりした。隣の豆柴もつられて跳んでいた。反対側のトイプードルは気だるげに壁をパンチしていた。それぞれの性格というか、性質が表れるものだなと思う。

 寮住まいではペットは難しい。可能性があるとして爬虫類か、とコーンスネークやレオパルドゲッコーを冷やかしてみる。コーンスネークはケース内の自分の部屋に籠ってしまっていて、姿かたちも見えなかった。レオパはいろんな種類がいた。眠るトカゲ、何かを見つめて微動だにしないトカゲ。目と口の愛らしさは小動物系と比べても引けを取らない。静かで飼いやすく、おまけに少し懐きもするとなれば興味も出てくる。が、お値段、19,800円。思い付きで飼うにはハードルが高い。

 店内の散歩で身体も少しほぐれたので、TSUTAYAへと移動し、店内カフェで時間をつぶした。未購入の本を持ち込んで読んでも良いという優れた暇つぶしスポットだが、今日は持参した本を読んだ。佐藤友哉「灰色のダイエットコカコーラ」。大人になりきれない19歳のフリーターが、町内の支配者であり絶大な力を持っていた祖父に憧れ、祖父のような「覇王」になるべく、ごく普通の一般人である「肉のカタマリ」を軽蔑し、侮蔑し、罵倒し、成り上がりを目指す物語。「覇王」を目指すというものの、主人公自身はいまだ何も成していない「肉のカタマリ」未満であることを自覚しており、そこから醸し出される切迫感、焦燥感は凄まじいものがあった。特に自虐を形容する言葉の羅列が素晴らしい。「まるでテーブルの下に落ちたたべかすだ。病気の猿が振りまく糞臭だ。アルコール中毒者の一瞬の夢だ。告白したがっているウジ虫だ。生真面目な喜劇役者がひそかに愛する注射器だ。豚の吐しゃ物で作られたハンバーグだ。交通事故で死んだ少女の破られなかった処女膜だ。」思春期の頃に読んでいたら受け付けなかっただろうが、今読むとなると少し遅すぎたのかもしれないとも思う。26歳の僕。僕は肉のカタマリでいることに精いっぱいだ。

 本を読んでいる僕の傍を、時折3,4歳頃の子どもが二人、駆け抜けていった。男の子が一人、女の子が一人。近くでは、おんぶひもで赤子を前にぶら下げた母親が二人立ち話をしていた。座ればいいのに、と浅はかに僕は思った。彼女らは時折子どもに注意を投げた。彼女らの声が僕には区別できず、どっちの母親が子どものなのかもすっかり判別できなかった。子どもたちは注意をほとんど聞き入れず、棒の先に恐竜をぶら下げたおもちゃを振り回していた。子犬と同じだな、と先ほどのペットショップを僕は思いだしていた。

 何回か、子どもが僕の顔を遠巻きに覗き込んだ。僕はその度にいびつな笑みを返した。僕には彼らが無邪気に跳ね回る小動物のように見えていたが、彼らには僕がどんなふうに見えていたのだろうか? 動物園の水槽で身じろぎしないカバのように見えていたのかもしれない。カバならいいな、と僕は思う。カバは強いんだ。

 子どもたちの話す言葉はほとんどが聞き取れなかったけれど、たまに「悪い人」「悪い子」という単語だけが僕の耳に飛び込んできた。僕のことか、と身構えたけれど、どうやら僕は関係なく、彼らのお遊びにおける架空の相手らしかった。彼らの持つ恐竜が「良いもの」なのだろうな、と思った。

「良い」「悪い」

 そんな風な二元化が出来ていたのはいつのころまでだったっけな、と思う。少なくとも、小学生ぐらいの時には架空の悪役を叩きのめす空想に思いを馳せていたとは思う。だけど、いつからか良い悪いの二つだけじゃなく、徐々に良いものも徐々に悪いものもあるんだということを知り、しまいには良い悪いで語れることなんてそうそうにないんだということも知り、善悪の二点から、善悪の有限な数直線上から、無限に広がる平面上に僕は自分が放り出されていることに気付く。

 ここには敵はどこにもいない。張り合う相手も誰もいない。

 さてさて困ったな、まずは自分の立っている場所を定めなくちゃいけないんだけど、そうだそこの子どもたち、僕がどんな人間か教えてくれないか? と脳内からカフェ内へと視線を上げると、いつの間にか子どもたちは母親もろとも消えていた。彼らの痕跡は何も残されていなかった。

 僕も読み終えた本を畳んで、家へ帰ることにした。

 あの子たちには、僕が「良く」見えていたのか、「悪く」見えていたのかが、今でもどうにも気にかかっている。

先日見た夢と、なんにもわかっちゃいない話

「死ぬことでリセットできる」

 そんな夢を、この前見た。

 夢の中の俺は、なにかに失敗するたびに、能動的に死んでいた。死ねば、意識と記憶を保ったまま、任意の過去に戻れる。そんなシステムだった。俺は死にまくっていた。失敗などしないように。成功ばかりを引当て続けるように。

 何をもって、夢の中の俺は死ぬ基準を選んでいたのか、まったく覚えちゃいない。だけどおそらく俺は「完全無欠の最強データ」である俺を作り出そうとしていたんじゃないかと思う。夢の中の俺の考えることは、所詮俺の考えることだから、よくわかる。

 感覚的にはこんなもんだ。

 キングボンビーを引いたら一旦死ぬ。

 期間限定アイテムを取り逃したら一旦死ぬ。

 力の種の成長値が最低を引いたら一旦死ぬ。

 死ぬ死ぬ言っているが、ここで重要なポイントとして、夢の中の俺は意識するだけで死ねるようだった。「ちょっと死んどくか」、そう思いながら眠ることで、俺は死に、過去に舞い戻っていった。そこには何の痛みも喪失も恐怖もリスクなく、ただ安らかな眠りと、リセットとしての死があるのみだった。

 眠るよりも安易な死。

 

 夢はもう少し続いた。

 夢の中の俺は、どうせまたいつものように仕事で何かミスをやらかしたのだろう。「一旦死んでリセットしておくか」と考えた。

 事務所の外に出て、屋外にある階段の手すりによじ登った。二階だった。高さが足りなくて不安だったから、ちゃんと死ぬために、俺は頭から落ちるように、放物線を描くようにして思い切り飛んだ。

 痛みはなかったが、頭が割れる感覚と、何かが流れ出す感覚がした。

 薄れゆく意識の中で、俺は不安になった。

 あれ、こんな死に方で良かったんだっけ?

 俺はこれで本当にリセットできるんだっけ?

 夢は終わる。

 

 この内容から察するに、俺は未だに、ちっとも理解しちゃあいないってことなんだろう。

 死ぬことについても。

 生きることについても。

窓を拭く才能がない話

 友人を乗せて車を走らせていた。豪雨だった。フロントガラスには際限なく雨粒が打ち付け、車のワイパーは忙しなく左右に揺れ続けていた。

 友人は「前が見えない」と呟いた。

 僕は応えた。

「前が見えない。なるほど、確かにそれは言い得て妙だ。僕らは前が見えない。僕らが生まれる前に日本全体を覆っていたらしい全体的向上感ーーこれは経済指数などの定量的なものに限らず、確実に社会が進歩、成長しているという感覚的な確信をも含めるのだがーー僕らはそういった感覚が失われた時代に生まれ、育っている。高齢化、年金問題ワーキングプア、過労死、苛めに虐待。僕らは【社会は僕らを乗せて前進していくものではなく、隙あらば人を叩き落とそうとする魔物なのだ】と教わってきた。そんな不穏な、不安な、不安定な、不透明な雰囲気の中で僕らは育ってきたのだ。僕らの前に未来が見えるだろうか? 僕にはぼんやりと灰色がかった霧のような光景しか見えないね。付け加えるならば、さらに9.11に3.11、そんな人的および自然的な災害が、親切にも僕らに、社会という昨今形成されたコミュニティが、全くもって絶対的なものではないことを教えてくれている。保証はないんだぜ? 僕らがこうやって、明日も呑気に無駄口を叩いていられる保証なんて、何処にもね。【前が見えない】。はっ! 全くその通りだ。僕らにはちっとも前が見えないんだ」

「いや、お前の車、全然撥水せえへんから前が見えへん」

 

 なんか黄色いので油膜を落とした後に、なんか赤いのとかでワックスをかけるといい、そう友人が教えてくれた。

 そんな曖昧な指示でわかるかよ、と近所のイエローハットに向かうと、そこには「キイロビン」という油膜落とし商品があった。そのままだった。赤いのはガラコとかいう名前だった。二つを握りしめ、レジに向かい、車検で得た大量のポイントを利用して会計を済ませた。24円足りなかった。もうそれマケてくれても良くない?

 炎天下に晒されながら、寮の駐車場でフロントガラスを磨いた。中心部を磨くべく身を乗り出すと、車のボンネットが僕の下腹部を焼いた。「あかん、このままやとミディアムレアリブロースステーキになってまう」と呟いた。カラスがカーと鳴いた。恐らく「そんな上等なもんやないやろ」という突っ込みだったのだろう。

 なんとかミディアムレアになる前に車の窓を磨き終えた。目に見える汚れがなくなったフロントガラスを見て、僕はご満悦だった。こんなに満ち足りたのは1024とかいうゲームで4096まで作り上げたとき以来だった。

 そして昨日だ。唐突に雨が降った。これは撥水効果を確認すべきときがきたと、浮き足だって僕は車に乗り込んだ。

 

 見事にムラだらけだった。

 

 僕は泣いた。それは号泣と言っても、慟哭と呼んでも良い有り様だったろう。

 ワイパーが動く度にフロントガラスのムラは明瞭に見えた。それは僕の無能さを示す証しだった。窓ひとつ満足に拭き終えることが出来ない僕に、見るべき【前】など初めからなかったのかもしれない。

 せめてミディアムレアリブロースステーキになる覚悟さえあったなら、と僕は後悔した。人はミディアムレアリブロースステーキになったぐらいでは死なない。ミディアムレアリブロースステーキになっても、誇り高く生きている人たちを僕は何人も知っている。人が本当に死ぬのは、誇りを失った時だ。つまり、今の僕だ。

 ハンドルに突っ伏して嗚咽を漏らし、しゃくりあげていると、唐突に後輩からLINEが来た。

「先輩、飯食いに行きましょう」

「聞いてくれ、僕は先輩と呼ばれる価値のない人間だし、君と一緒に飯を食うことで、君や、あるいは飯の価値すらも一緒になくしてしまいかねない人間なんだ。僕は窓をちゃんと拭くことすらできないんだよ。この意味が分かるかい? 存在自体が一種の罪なんだ。僕は今まで生きてきた中で、無自覚のうちに綺麗に拭き終えられていない窓をいくつも生み出して来たに違いない。そうやって、窓を曇りだらけにして、見通しの悪い社会を作り上げてきたのは、他ならぬ僕なんだ。はは。笑ってくれ。前が見えないのを社会のせいにしたりして。その実、前が見えない原因を作ってきたのは僕なのにな。さあ、もうわかったろう。僕などに関わらず、君は好きに飯を食いにいくがいい。さもなければ、いずれ僕は、君が心のうちに持っている窓すらも曇らせてしまうことだろう」

「意味分からないです。それより焼肉食いに行きましょう」

 

 そんなわけで、後輩たちと焼肉を食べに行った。

 任天堂switchを買うための虎の子の諭吉が飛んでいった。

眠れない夜の話

 ハロー。

 のっけから挨拶を間違っています。時間的に。

 久しぶりにFacebookを覗いてみたら、あそこは色々なもので満ち満ちていますね。各々の生活、日常、意見、娯楽、未来。目眩がします。そこに詰められた情報の多さに、処理能力が追い付かずに。

 彼らの所属する場所の常識。あるいは、彼らに見えている世界の断片。そういったものであると思うのです。SNS上でシェアされているものは。ひゅー。みんなちゃんと生き抜いているみたいですよ。そこに対する正しい姿勢として、受け手側に求められるのは、多分誠実な理解とかではないんでしょうね。ただの認知と許容なんだと思います。「へー」。ただそれだけ。「そんな生活があるんだなー」って。決して彼らの状況を正確に理解しようとした上で自分と対比しようとなんかしちゃあいけないぜ。人目に付くように置かれたものは綺麗に設えられているもの。だから彼らにもあるはずなのです。僕が、僕らが埋没しているこの日常のような。擦りきれた仕事着、ふらふらと歩く道のり、静かなワンルーム、一向に減らない録画と積ん読。なあ、そうなんだよな? そうだと言ってくれよ。

 要するに、自分の所属する場所における「当たり前」。それに自然と馴染むことができる、というのはこの上ない幸福だと思うわけです。自分が「ずれている」と言うことを思い知らされながら生活するのは、これはあまり楽しいことではありませんからね。

 

 なんの話をしようとしてたっけ。

 

 眠れない夜の話。

 あるいは、山積みになった洗濯物の話。

 あるいは、奮発したのに首に合わない安眠枕の話。

 あるいは、効きの悪いエアコンの話。

 

 俺の世界の断片とは?

 

 こんな夜、思い返すのはどうしても、昔のことです。

 ブールサイド。塩素の香り。生温い水。

 教室の机。○のついたテスト。休み時間の喧騒。

 淀川の花火。

 高校の最後の大会、50メートルプールを、たった四人で独占して泳いだ、あの最も自由だった一瞬について。

 

 今はすっかり細部の曖昧になった記憶の断片を、俺はビー玉をこねくり回すかのように弄びます。

 かつての俺は、もっと瞬間的に生きていたはずだ。

 現在進行形で流れている時間に、もっとしっかり、地に足を着けて立っていたはずなのに。

 

 なんかどうやら、また立ち位置を失いそうになっているようてす。

 

 久しぶりに「クビキリサイクル」を引っ張り出して、少し読んでみました。かつてはいーちゃんより年下だった俺も、今ではもう彼が「大人」と読んだ人たちと同年代です。

 世知辛いね。

 

 serph。そんなミュージャンがいますが、脳の皺に入り込んでとろかすような音を聴かせてくれるので、好きです。

 

 知ってるかい?

 伝わらない文章には、その時点で価値がないんだぜ。

一人前になった証としてマットレスを買う話

 社会人になって三年目となった。社会人三年目ともなると、さすがに焦りが出てくる。私は未だに自分のことを未熟な若輩者であると思っているし、なんなら会社内を歩く時も「若輩者ですけど~?」みたいな面をして歩いている。「若輩者なんですけど~~??」みたいな面を。若輩者面をしている。くだらねえと呟いて、若輩者面して歩く。あまりに若輩者であるという自覚が強すぎるので、電話を取る際も「はい若輩者です!」と言いそうになる。会議で発言するときも「若輩者が斯様な出過ぎた真似をして心苦しいのですが……」といった雰囲気を言外に漂わせている。最近は若輩者じみるのにもこなれてたので「若輩でサーセンっす」みたいな雰囲気になってきている。「じゃーセンっす」みたいにすらなってる。そういえば「最近お前調子に乗ってない?」とこの前先輩に言われたが、思い至る節が全くない。

 話を戻す。三年目になったということで、そろそろ若輩者を脱するべき時期がきたのであろうと私は考えた。若輩者を脱し、一人の社会人として、自分の両の足で真っすぐと社会に立つべき時期がきたのだと。

 一人前の社会人たる条件とはなんなのだろうか? 昨日、火曜日は休みを頂戴していたので、私はじっくり考えてみることにした。月曜の夜、翌日が休みなことに浮かれて買いだめしたウィスキーをジャバジャバ飲み、布団の横に積んだ漫画を適当に読み散らかして夜更かしし、二度寝三度寝を繰り返して昼過ぎに目覚めてカップラーメンをすすりながら、私は自分が一人前の社会人になるために必要なものを考えてみた。

 成熟した大人は、やはり己が力で己の生活を成り立たせられるべきである。しかし、なんとか生活ができる、その段階で止まってしまっては、その人の成熟度はそこで成長を止めてしまう。それで満足か? 生活を成り立たせたうえで、余力を持って生活の改善に臨み、更なる余力を得て更なる生活の向上を図る、そのような正の連鎖、成熟スパイラルに自己を置くことがより大いなる成熟へと向かう道なのではないだろうか。私は成熟したい。熟れに熟れたいのだ。バナナでいうともう余すところなく真っ黒になっているレベルまで。

 そういうわけで私、生活を改善すべく、マットレスを買いに行った。睡眠、それは生活の基盤である。睡眠を改善することは生活を改善させることに他ならない。なのでちょっと良いマットレスを買うことにした。といってもマットレスを買えそうな場所、山口県にはニトリナフコtwo-one styleしかない。ニトリナフコ。「お値段以上、お値段以上」とただコストパフォーマンスの一点突破を譫言の様に繰り返すばかりのニトリと違い、ナフコは名前から「two-one style」と、なんかこうスタイリッシュなイメージがある。意味は分からないけど、ちょっとシュッとした感じがする。なのでナフコに行くことにした。「お値段以上……」とニトリの悲しそうな声が聞こえた気がした。

 ナフコに着くやいなや、私はテンピュールを探す。良い寝具といえばテンピュールである。他は知らん。シモンズ? エアウィーブ? 聞いたこともない。テンピュールのみが寝具であり、神はテンピュールの上に寝具を作らずテンピュールの下に寝具を作らず、「テンピュールあれ」と神が仰せられたその時からテンピュールはそこにあった。ここまで根気強く読んでいる人はご存知かもしれないけれど、俺は気に入った単語をやたら繰り返すのが好きです。

 で、テンピュールのマットレスをみた。

 安いやつで¥48,600

 高ッ!

 いつも一週間分の朝食に買ってるバナナが1房5本で¥98やからお前、バナナに換算すると、えーと、お前その、あの、随分食えるわ!!

 

 結局、枕カバーだけを買って帰りました。

 マットレス? 社会人五年目になって一人前になってからかな。

テレビのリモコンの呼び方、あるいは各家庭環境の話

 「その人がどんな家庭で育ったかは、その家庭でテレビのリモコンをなんと呼ぶかから判別することができる」

 

 とまあ、一説にはそんな意見があります。一説には、というか、僕が勝手に拵えたものなんですけれども。

 しかしながら、親と子、あるいは祖父母や孫、そういった要素により構成される共同生活の最小単位としての家庭、その家庭を想像した場合、共同生活の効率化のために固有のキーワードが自然と生まれることは想像に難くありません。そしてテレビのリモコン、家庭内において恐らくは最もその所在を問われることが多いアイテムです。いちいちテレビのリモコンテレビのリモコンと呼ぶにはその名称は冗長に過ぎることから、各家庭における独特の愛称が付けられやすいのもまたテレビのリモコンではないか、そしてその名称の付け方には家庭内で共有されている前提、例えば雰囲気や常識、生活様式などが大きく反映されるのではないか、などと屁理屈をこねることもできるのではないかと思います。

 

 テレビのリモコンをなんと呼ぶ? 以前twitterでそう尋ねてみたところ、様々な回答がありました。以下にそれらを紹介し、簡素な考察を付け加えたいと思います。

 

・チャンネル

 一番ありがちなパターンではありますが、リモコンはチャンネルを変えるものでありチャンネルそのものではないことを考慮しますと、テレビのリモコンをチャンネルと呼ぶ家庭は物事の本質を見抜けない愚か者です。

 

・チャンネルかえるやつ

 物事の本質は見抜けていますが、それはもう独自の愛称とかではなくない? 認知症の疑いがあります。

 

・チャンネルチェンジャー

 英語にしちゃった。この家庭はかっこつけです。

 

・チャンチェ

 略しちゃった。しかも若干チャンジャっぽい。酒の肴好き。

 

・チャンネル棒

 棒て。確かに棒だけど、わざわざ棒て。つまりは、棒状以外のリモコンがたくさんあるってことなんですかね? ちゃんと物を整理するようにしましょう。片づけ下手

 

・チャンネルバンバン

 なんで殴るの。DVを疑ってかかるべきです。

 

・パチパチ or カチャカチャ

 レトロな雰囲気が漂っていますね。古きよきものを愛すると考えることも出来ますが、結局は時代の潮流に乗り遅れた愚か者ですね。

 

・ピッピッ or ピーピー

 普通ですね。

 

・ピ

 略しすぎだろ。面倒くさがり

 

・ピールン

 ピーはわかる。ルンて。なんでそんなにいつも楽しそうなの? 悩みとかないの? 頭お花畑なの? 楽観主義です。すいません、これそういえば我が家でした。

 

 

 以上、そろそろ友人の結婚式に遅刻しそうなのでここらで切り上げます。今日結婚する僕の親友には、素敵なテレビのリモコンの愛称をつけるような家庭を築きあげてほしいと思います。

閉じられた大戸屋の扉の前で姉を思う話

 近所の大戸屋が潰れていた。

「やる気が出ない」という正当な理由で、今日の俺は残業を早々と切り上げてそそくさと帰ることにした。そそくさとしすぎた余り、社食で夕飯を取るのを忘れてしまった。そこで俺に思い浮かんだのは、そうだ、今日は大戸屋に行こう、という優れたアイデアだった。

 大戸屋。それは落ち着いた雰囲気の漂う、全国チェーンの定食屋である。素材にも調理にも、おまけに健康にもこだわった定食を楽しむことができ、しかもドリンクバーも備え付けられているのでファミレス的にも利用することができる。しかし、この地域で幅を利かせているジョイフルと比較するとやや割高なため、普段はジョイフルを、少しのんびりとくつろぎたいときに大戸屋を利用する、というのが俺の習わしだった。

 五穀米を頼んで栄養を補給しよう、ついでにのんびり文庫本でも読もう、そんな浮きたつ心を抑えながら自転車を走らせた俺の目に飛び込んできたのは真っ暗な店内と、扉に張られた張り紙の「閉店しました」という無情な文字。俺は茫然と立ち尽くし、「嘘……だろ……?」と声を漏らす。こんな昼ドラみたいな振る舞いをしたのは生まれて初めてだ。張り紙を良く読めば「当店は2月28日をもって閉店しました」とあり、3週間も大戸屋の閉店に気づかなかったことに俺は「嘘……だろ……?」と声を漏らす。早くも二回目。

 大戸屋が潰れることはないと思っていた。大戸屋は、いつでも変わらずそこにあるのだと俺は思い込んでいた。しかし、大戸屋は潰れてしまっていた。やれジョイフルが安い、ジョイフルが美味い、と俺がジョイフルジョイフルはしゃいでいる間に。胸を引き裂くような後悔の念が押し寄せる。俺は大戸屋の苦しみに気付くことができなかったんだ。

 落ち着いた、品の良い雰囲気の漂う大戸屋は、俺にとっては理知的でしっかり者の姉のような存在だった。それと比較するならば、ジョイフルは無邪気で明るく屈託のない妹であると言える。一緒にいると楽しいけれど、少し頼りなくて目を離せない妹。最高のメニューだったタコの唐揚げをいつの間にかゴボウの唐揚げに変えてしまった妹。そんな妹と比べれば、お姉ちゃんは非の打ちどころがなくて完璧で、俺がたまに思い出すようにしか会いに行かなくっても、いつだって静かな微笑みで歓迎してくれた。そんなお姉ちゃんだから、俺なんかが気にかけなくたって、きっと大丈夫なんだと思い込んでしまったんだ。その微笑の下で、どんな苦悩と葛藤が渦巻いているかなんて気付きもせず。みなさんお気づきでしょうが、ここで俺はもう大戸屋のことを完全にお姉ちゃんであると思い込んでいます。

 閉じられた大戸屋の扉は、社会に出てしばらく経ってから突然会社を辞め、ひきこもるようになってしまった姉の部屋の扉だった。俺は扉をノックして、お姉ちゃん、と声をかける。返事はない。姉はもう心を閉ざしてしまっているのだ。自分を受け入れてくれなかった社会に。そして、自分を助けてくれなかった弟、つまりこの俺に。

 扉に両手をついて、俺は俯く。ごめん、と俺は噛みしめるように言う。お姉ちゃんを放っておいてごめん、お姉ちゃんのことを助けてあげられなくてごめん。俺はここに来るよ。明日も、明後日も、その次の日も。俺は本当は、お姉ちゃんのことが大好きなんだよ。今さらそんなこと言ったって、もう遅いのかもしれないけどさ。でも、忘れないで欲しいんだ。お姉ちゃんが扉を開けてくれるのを待っている人間が、少なくともここに一人、いるってことをさ。

 俺は顔を上げて、踵を返し、目を拭う。そして自転車に乗って走り出す。いつか姉と再び会える日が来るのを願って。あといい加減おなかが空いたので隣のはま寿司に向かって。炙りサンマがとても美味しかったです。