忘れ物の話

 何かを忘れてしまったような、焦燥感だけがある。

 たとえるならば遠足の朝だ。君は背中にリュックを背負っている。お弁当。水筒。おやつ。ハンカチ。ビニールシート。大事なものは全てそのリュックの中にある。そのはずなのに、なぜかリュックは非常に軽く、頼りないように思える。必要不可欠な、それを失くすことで致命的になりうるなにかがが、欠けているような感覚。必要だと思ったものは持ってきた。それらは確かに自分が背負っている。それなのに、何かが足りていないような、何かを見落としているような気がしてならない。自分の背負う荷物の中に、明らかな空洞が、本来は埋めておかなければならない空洞がある。

 そんな焦燥感。

 なにを忘れたのか忘れました。

「何か忘れてる気がするんだけどあなた知ってる?」と斉藤和義は歌った。アゲハの中の彼女はそのとき26歳だった。彼女はピアノを水に沈めていた。僕が水に沈めたのはいったいなんだったっけ? 記憶の中のため池の水はすっかり濁ってしまって分からない。

 人生は一度きりだという。そんなこと誰だって知っているし、分かっている。

 ほんとにわかってる?

 アゲハの彼女は、32才になってやっと頭の中の霧が晴れた。道のりは長い。一度きりしかないはずの人生を僕は、まるで視聴し終わったビデオテープの暗転時間のように、空虚に過ごしている。背負ったリュックの空洞はますます広がっていくように感じる。

 僕はいったい何を忘れてしまったんだ?

 軽すぎる荷物とともに僕は歩いている。進めば進むほど、忘れ物は致命的になっていく。駅で定期がないことに気付いた時、遠足先でお弁当がないことに気付いたとき、出張先で大切な資料がないことに気付いた時、旅行先でクレジットカードがないことに気付いた時、距離が離れるほどにダメージは取り返しがつかないものになる。

 それでも時間は待ってくれない。

 僕は歩いている。忘れ物が杞憂であることを祈りながら。あるいは、忘れ物が致命的なダメージを僕に与えてくれる時が来るのを焦がれながら。僕はおっかなびっくり歩いていく。

小国の大臣になりたい話

 おれがなりたかったものといえば、郵便屋さん、カクレンジャー、水泳選手、脳外科、イワトビペンギン、球体、夜空など、いろいろとありますが、現在時点におきましてもっぱらなりたいものはといえば「お転婆な姫様に手を焼く小国の大臣」を他置いてありません。

 多分、才能あると思うんですよね。おれ。お転婆な姫様に手を焼く小国の大臣になる才能。「姫さまー!!」って言うの、山口県で一二を争うほどうまいと思います。「なりませんぞ姫さまー!!」って。日ごろから練習していますし。「姫さまー!!」の練習。しめ鯖も好きだし。「しめ鯖ー!!」とも上手に言える。「あぶりしめ鯖ー!!」って。「あぶり姫さまー!!」みたいな感じで。

 「お転婆な姫様に手を焼く小国の大臣」が魅力的なのは、自らの「脇役」という立ち位置を理解したうえで、受容している点であると思う。彼らはお話の主役が姫様であることを理解し、そのうえであえて「口うるさいじいや」という嫌われ役を買って出ているのだ。自己犠牲の精神のかたまりである。「全く、この国の行く末が心配ですぞ......」などと嘆きながらも、彼らのたしなめんとする姫様がゆくゆくは立派な女王となることを確信している。お小言ばかりの大臣への反発心を自立心へと昇華して、姫様が為政者へと育っていくことを。

 小国の大臣。彼らが目指すのは、「姫様がこんなに立派になられて、じいは感無量ですぞ……」というセリフを口にする日が訪れることだ。すなわち、自らが不要となる時がいつか来ることを理解しているのだ。それでも彼らは小言を言う。嫌われ役となり、脇役となり、姫様の踏み台となることを理解しながらも、姫様と王国の未来のために。格好いい。おれも必ずお転婆な姫様に手を焼く小国の大臣になりたい。異動願を出そう。まずはお転婆な姫様を生みそうな女王がいる国を探すことからはじめよう。

 

 

 人は死を迎える瞬間、21g軽くなる。これは魂の重さだと言われているが、翻って一日普通に過ごした時の体重の減少量は、幅はあるものの1kg前後にはなるそうだ。

 つまりは一日生き延びるのは、50回ぐらい死ぬこととおんなじくらい辛いってことなのではないか。

 一日あたり50個の魂が空へと昇っていく。

 

 それじゃあ明日も頑張って、50回死のうぜ。

文学的ではない話

 僕が持っている文学的な思い出は、大学に入学したあたりからぷっつりと途切れている。ここで僕の言う「文学的」とは、僕の考えうる限り最も文学に失礼な意味合いしか持たない表現で、「何やら含蓄のありそうな」程度の意味しか有していない。自分にはよくわからない表現だということを上手いこと言った感じにするためだけにある言葉だ。だけど、なんとなく僕は僕の思い出をそう呼びたいのだ。ぶんがくてき、と。

 例を挙げよう。

 友人と二人で馬鹿みたいにブランコを漕いだこと。転校するあの子に思いを告げられたこと。カッチカチに凍り付いた17アイスを齧りながら父と海辺を歩いたこと。壊れたマイクと気付かずに全校生徒の前で演説をしたこと。転びかけたあの子の手をさっとつかんだこと。決勝レースが始まる前の空っぽのプールを、予選落ちしたリレーメンバー四人で独占したこと。フラれた僕を慰めるために友人が連れ出してくれたコンビニでは、涙の止まらない僕をあざ笑うかのようにD-51の「No more cry」が流れていたこと。……最後のやつなんか特に最高だ、思い出すたびに僕は笑える。

 要はそういうぶんがくてきな思い出、僕にとって何らかの含蓄を持った、僕が僕となるためのバックグラウンドを形成している思い出というのが、どうも高校の途中あたりで終わってしまっているのだ。大学時代を思い出す。良い友人にも良い集団にも出会えた、それは確かだ。しかし、圧倒的に欠落しているのだ。そこに僕がいた、という実感が。

 僕が僕の実感を失ってしまった時期は、思い返せば「客観的かつ理性的であろう」と思い始めた時期と重なる。僕が自分持ち前の滑稽さと我の強さを憎み始め、「絶対的に正しい人間であろう」と思い始めた時期と。それはこの上なく愚かなことで、自分であることを放棄することに他ならなかった。知識もなく経験もなく能力のない僕が正しくあるためには、結局のところ、何もしないでいるのが一番マシな選択肢だったのだ。

 俺は自分に対する真摯さを失った。

 

 これ以上は何を書いても駄目な方にいくのでテンションを切り替えます。

 だからここは俺の最後の砦だと思うのです。何か書こうとすること。それが俺に残された最後の真摯さなのです。じゃあ一月半もサボるなよ。はい。ごめんなさい俺。俺は俺を守ります。俺のぶんがくを忘れないために。

休みと、ペットショップの動物と、走り回る子どもの話

 あまり正当とは言えない理由で今日もお休みを頂いた。要するに体調不良です。

 職場に休みの連絡を入れ、「生活リズムは崩さないように」とのお言葉を頂いたその体で二度寝に入り、目を覚ますと12時だった。部屋に食料はなかった。溶けた鉛のように重たい頭と身体を引きずって風呂に入り、着替え、車のキーを手に取り、外に出ることにした。一先ずは昼食を取らないと、凝固した鉛の塊になってしまうような気がした。

 うどん屋で、うどんよりも多くのネギと天カスを摂り、ついでに頭と体のリハビリがてら近くのショッピングモールへと向かうことにした。アクセルを踏む。ガソリンを燃料にして動く車が、ネギと天カスを燃料にして動く僕を運んでいった。

 何も考えずにふらふら歩いた。時折、胸ポケットに放り込んでいた電子煙草を吸った。思い付きで買ったものだが、ニコチンが苦手なくせにたまに吸いたくなる僕には重宝している。

 息を吸う。吐く。水蒸気の煙の行方を目で追う。一連の動作は、僕に空白の時間をもたらしてくれる。

 適度な空白は良いものだ。空白がなければ、僕は空白以外のものが有する圧倒的質量に押しつぶされてしまいそうな気がする。現に押しつぶされているのかもしれないけれど。なお、空白は適度な量に留めておくべきで、巨大な空白は虚無となって僕を飲み込んでしまうことだろう。分かっている。分かってはいるんだけどな、と僕は思う。

 ふらりとペットショップに寄り、買う予定もない動物を冷やかした。眠り続けていたアメショ。僕を不機嫌そうな目で一瞥し、ガラスケースの前を何回か行ったり来たりして背中を向けたスコティッシュフォールドポメラニアンは、僕が目の前で立ち止まると、狭いケースの中を走り回ったり、縦横無尽に跳び回ったりした。隣の豆柴もつられて跳んでいた。反対側のトイプードルは気だるげに壁をパンチしていた。それぞれの性格というか、性質が表れるものだなと思う。

 寮住まいではペットは難しい。可能性があるとして爬虫類か、とコーンスネークやレオパルドゲッコーを冷やかしてみる。コーンスネークはケース内の自分の部屋に籠ってしまっていて、姿かたちも見えなかった。レオパはいろんな種類がいた。眠るトカゲ、何かを見つめて微動だにしないトカゲ。目と口の愛らしさは小動物系と比べても引けを取らない。静かで飼いやすく、おまけに少し懐きもするとなれば興味も出てくる。が、お値段、19,800円。思い付きで飼うにはハードルが高い。

 店内の散歩で身体も少しほぐれたので、TSUTAYAへと移動し、店内カフェで時間をつぶした。未購入の本を持ち込んで読んでも良いという優れた暇つぶしスポットだが、今日は持参した本を読んだ。佐藤友哉「灰色のダイエットコカコーラ」。大人になりきれない19歳のフリーターが、町内の支配者であり絶大な力を持っていた祖父に憧れ、祖父のような「覇王」になるべく、ごく普通の一般人である「肉のカタマリ」を軽蔑し、侮蔑し、罵倒し、成り上がりを目指す物語。「覇王」を目指すというものの、主人公自身はいまだ何も成していない「肉のカタマリ」未満であることを自覚しており、そこから醸し出される切迫感、焦燥感は凄まじいものがあった。特に自虐を形容する言葉の羅列が素晴らしい。「まるでテーブルの下に落ちたたべかすだ。病気の猿が振りまく糞臭だ。アルコール中毒者の一瞬の夢だ。告白したがっているウジ虫だ。生真面目な喜劇役者がひそかに愛する注射器だ。豚の吐しゃ物で作られたハンバーグだ。交通事故で死んだ少女の破られなかった処女膜だ。」思春期の頃に読んでいたら受け付けなかっただろうが、今読むとなると少し遅すぎたのかもしれないとも思う。26歳の僕。僕は肉のカタマリでいることに精いっぱいだ。

 本を読んでいる僕の傍を、時折3,4歳頃の子どもが二人、駆け抜けていった。男の子が一人、女の子が一人。近くでは、おんぶひもで赤子を前にぶら下げた母親が二人立ち話をしていた。座ればいいのに、と浅はかに僕は思った。彼女らは時折子どもに注意を投げた。彼女らの声が僕には区別できず、どっちの母親が子どものなのかもすっかり判別できなかった。子どもたちは注意をほとんど聞き入れず、棒の先に恐竜をぶら下げたおもちゃを振り回していた。子犬と同じだな、と先ほどのペットショップを僕は思いだしていた。

 何回か、子どもが僕の顔を遠巻きに覗き込んだ。僕はその度にいびつな笑みを返した。僕には彼らが無邪気に跳ね回る小動物のように見えていたが、彼らには僕がどんなふうに見えていたのだろうか? 動物園の水槽で身じろぎしないカバのように見えていたのかもしれない。カバならいいな、と僕は思う。カバは強いんだ。

 子どもたちの話す言葉はほとんどが聞き取れなかったけれど、たまに「悪い人」「悪い子」という単語だけが僕の耳に飛び込んできた。僕のことか、と身構えたけれど、どうやら僕は関係なく、彼らのお遊びにおける架空の相手らしかった。彼らの持つ恐竜が「良いもの」なのだろうな、と思った。

「良い」「悪い」

 そんな風な二元化が出来ていたのはいつのころまでだったっけな、と思う。少なくとも、小学生ぐらいの時には架空の悪役を叩きのめす空想に思いを馳せていたとは思う。だけど、いつからか良い悪いの二つだけじゃなく、徐々に良いものも徐々に悪いものもあるんだということを知り、しまいには良い悪いで語れることなんてそうそうにないんだということも知り、善悪の二点から、善悪の有限な数直線上から、無限に広がる平面上に僕は自分が放り出されていることに気付く。

 ここには敵はどこにもいない。張り合う相手も誰もいない。

 さてさて困ったな、まずは自分の立っている場所を定めなくちゃいけないんだけど、そうだそこの子どもたち、僕がどんな人間か教えてくれないか? と脳内からカフェ内へと視線を上げると、いつの間にか子どもたちは母親もろとも消えていた。彼らの痕跡は何も残されていなかった。

 僕も読み終えた本を畳んで、家へ帰ることにした。

 あの子たちには、僕が「良く」見えていたのか、「悪く」見えていたのかが、今でもどうにも気にかかっている。

先日見た夢と、なんにもわかっちゃいない話

「死ぬことでリセットできる」

 そんな夢を、この前見た。

 夢の中の俺は、なにかに失敗するたびに、能動的に死んでいた。死ねば、意識と記憶を保ったまま、任意の過去に戻れる。そんなシステムだった。俺は死にまくっていた。失敗などしないように。成功ばかりを引当て続けるように。

 何をもって、夢の中の俺は死ぬ基準を選んでいたのか、まったく覚えちゃいない。だけどおそらく俺は「完全無欠の最強データ」である俺を作り出そうとしていたんじゃないかと思う。夢の中の俺の考えることは、所詮俺の考えることだから、よくわかる。

 感覚的にはこんなもんだ。

 キングボンビーを引いたら一旦死ぬ。

 期間限定アイテムを取り逃したら一旦死ぬ。

 力の種の成長値が最低を引いたら一旦死ぬ。

 死ぬ死ぬ言っているが、ここで重要なポイントとして、夢の中の俺は意識するだけで死ねるようだった。「ちょっと死んどくか」、そう思いながら眠ることで、俺は死に、過去に舞い戻っていった。そこには何の痛みも喪失も恐怖もリスクなく、ただ安らかな眠りと、リセットとしての死があるのみだった。

 眠るよりも安易な死。

 

 夢はもう少し続いた。

 夢の中の俺は、どうせまたいつものように仕事で何かミスをやらかしたのだろう。「一旦死んでリセットしておくか」と考えた。

 事務所の外に出て、屋外にある階段の手すりによじ登った。二階だった。高さが足りなくて不安だったから、ちゃんと死ぬために、俺は頭から落ちるように、放物線を描くようにして思い切り飛んだ。

 痛みはなかったが、頭が割れる感覚と、何かが流れ出す感覚がした。

 薄れゆく意識の中で、俺は不安になった。

 あれ、こんな死に方で良かったんだっけ?

 俺はこれで本当にリセットできるんだっけ?

 夢は終わる。

 

 この内容から察するに、俺は未だに、ちっとも理解しちゃあいないってことなんだろう。

 死ぬことについても。

 生きることについても。

窓を拭く才能がない話

 友人を乗せて車を走らせていた。豪雨だった。フロントガラスには際限なく雨粒が打ち付け、車のワイパーは忙しなく左右に揺れ続けていた。

 友人は「前が見えない」と呟いた。

 僕は応えた。

「前が見えない。なるほど、確かにそれは言い得て妙だ。僕らは前が見えない。僕らが生まれる前に日本全体を覆っていたらしい全体的向上感ーーこれは経済指数などの定量的なものに限らず、確実に社会が進歩、成長しているという感覚的な確信をも含めるのだがーー僕らはそういった感覚が失われた時代に生まれ、育っている。高齢化、年金問題ワーキングプア、過労死、苛めに虐待。僕らは【社会は僕らを乗せて前進していくものではなく、隙あらば人を叩き落とそうとする魔物なのだ】と教わってきた。そんな不穏な、不安な、不安定な、不透明な雰囲気の中で僕らは育ってきたのだ。僕らの前に未来が見えるだろうか? 僕にはぼんやりと灰色がかった霧のような光景しか見えないね。付け加えるならば、さらに9.11に3.11、そんな人的および自然的な災害が、親切にも僕らに、社会という昨今形成されたコミュニティが、全くもって絶対的なものではないことを教えてくれている。保証はないんだぜ? 僕らがこうやって、明日も呑気に無駄口を叩いていられる保証なんて、何処にもね。【前が見えない】。はっ! 全くその通りだ。僕らにはちっとも前が見えないんだ」

「いや、お前の車、全然撥水せえへんから前が見えへん」

 

 なんか黄色いので油膜を落とした後に、なんか赤いのとかでワックスをかけるといい、そう友人が教えてくれた。

 そんな曖昧な指示でわかるかよ、と近所のイエローハットに向かうと、そこには「キイロビン」という油膜落とし商品があった。そのままだった。赤いのはガラコとかいう名前だった。二つを握りしめ、レジに向かい、車検で得た大量のポイントを利用して会計を済ませた。24円足りなかった。もうそれマケてくれても良くない?

 炎天下に晒されながら、寮の駐車場でフロントガラスを磨いた。中心部を磨くべく身を乗り出すと、車のボンネットが僕の下腹部を焼いた。「あかん、このままやとミディアムレアリブロースステーキになってまう」と呟いた。カラスがカーと鳴いた。恐らく「そんな上等なもんやないやろ」という突っ込みだったのだろう。

 なんとかミディアムレアになる前に車の窓を磨き終えた。目に見える汚れがなくなったフロントガラスを見て、僕はご満悦だった。こんなに満ち足りたのは1024とかいうゲームで4096まで作り上げたとき以来だった。

 そして昨日だ。唐突に雨が降った。これは撥水効果を確認すべきときがきたと、浮き足だって僕は車に乗り込んだ。

 

 見事にムラだらけだった。

 

 僕は泣いた。それは号泣と言っても、慟哭と呼んでも良い有り様だったろう。

 ワイパーが動く度にフロントガラスのムラは明瞭に見えた。それは僕の無能さを示す証しだった。窓ひとつ満足に拭き終えることが出来ない僕に、見るべき【前】など初めからなかったのかもしれない。

 せめてミディアムレアリブロースステーキになる覚悟さえあったなら、と僕は後悔した。人はミディアムレアリブロースステーキになったぐらいでは死なない。ミディアムレアリブロースステーキになっても、誇り高く生きている人たちを僕は何人も知っている。人が本当に死ぬのは、誇りを失った時だ。つまり、今の僕だ。

 ハンドルに突っ伏して嗚咽を漏らし、しゃくりあげていると、唐突に後輩からLINEが来た。

「先輩、飯食いに行きましょう」

「聞いてくれ、僕は先輩と呼ばれる価値のない人間だし、君と一緒に飯を食うことで、君や、あるいは飯の価値すらも一緒になくしてしまいかねない人間なんだ。僕は窓をちゃんと拭くことすらできないんだよ。この意味が分かるかい? 存在自体が一種の罪なんだ。僕は今まで生きてきた中で、無自覚のうちに綺麗に拭き終えられていない窓をいくつも生み出して来たに違いない。そうやって、窓を曇りだらけにして、見通しの悪い社会を作り上げてきたのは、他ならぬ僕なんだ。はは。笑ってくれ。前が見えないのを社会のせいにしたりして。その実、前が見えない原因を作ってきたのは僕なのにな。さあ、もうわかったろう。僕などに関わらず、君は好きに飯を食いにいくがいい。さもなければ、いずれ僕は、君が心のうちに持っている窓すらも曇らせてしまうことだろう」

「意味分からないです。それより焼肉食いに行きましょう」

 

 そんなわけで、後輩たちと焼肉を食べに行った。

 任天堂switchを買うための虎の子の諭吉が飛んでいった。

眠れない夜の話

 ハロー。

 のっけから挨拶を間違っています。時間的に。

 久しぶりにFacebookを覗いてみたら、あそこは色々なもので満ち満ちていますね。各々の生活、日常、意見、娯楽、未来。目眩がします。そこに詰められた情報の多さに、処理能力が追い付かずに。

 彼らの所属する場所の常識。あるいは、彼らに見えている世界の断片。そういったものであると思うのです。SNS上でシェアされているものは。ひゅー。みんなちゃんと生き抜いているみたいですよ。そこに対する正しい姿勢として、受け手側に求められるのは、多分誠実な理解とかではないんでしょうね。ただの認知と許容なんだと思います。「へー」。ただそれだけ。「そんな生活があるんだなー」って。決して彼らの状況を正確に理解しようとした上で自分と対比しようとなんかしちゃあいけないぜ。人目に付くように置かれたものは綺麗に設えられているもの。だから彼らにもあるはずなのです。僕が、僕らが埋没しているこの日常のような。擦りきれた仕事着、ふらふらと歩く道のり、静かなワンルーム、一向に減らない録画と積ん読。なあ、そうなんだよな? そうだと言ってくれよ。

 要するに、自分の所属する場所における「当たり前」。それに自然と馴染むことができる、というのはこの上ない幸福だと思うわけです。自分が「ずれている」と言うことを思い知らされながら生活するのは、これはあまり楽しいことではありませんからね。

 

 なんの話をしようとしてたっけ。

 

 眠れない夜の話。

 あるいは、山積みになった洗濯物の話。

 あるいは、奮発したのに首に合わない安眠枕の話。

 あるいは、効きの悪いエアコンの話。

 

 俺の世界の断片とは?

 

 こんな夜、思い返すのはどうしても、昔のことです。

 ブールサイド。塩素の香り。生温い水。

 教室の机。○のついたテスト。休み時間の喧騒。

 淀川の花火。

 高校の最後の大会、50メートルプールを、たった四人で独占して泳いだ、あの最も自由だった一瞬について。

 

 今はすっかり細部の曖昧になった記憶の断片を、俺はビー玉をこねくり回すかのように弄びます。

 かつての俺は、もっと瞬間的に生きていたはずだ。

 現在進行形で流れている時間に、もっとしっかり、地に足を着けて立っていたはずなのに。

 

 なんかどうやら、また立ち位置を失いそうになっているようてす。

 

 久しぶりに「クビキリサイクル」を引っ張り出して、少し読んでみました。かつてはいーちゃんより年下だった俺も、今ではもう彼が「大人」と読んだ人たちと同年代です。

 世知辛いね。

 

 serph。そんなミュージャンがいますが、脳の皺に入り込んでとろかすような音を聴かせてくれるので、好きです。

 

 知ってるかい?

 伝わらない文章には、その時点で価値がないんだぜ。