死んだ一匹のヤツメウナギの話

 SCP財団という組織があって。めんどくさいから詳しくは説明しないけれど、彼らは超常的な物体やら場所やら現象やらを確保(Secure)、収容(Contain)、保護(Protect)するための集団であり、彼らの収容するその不思議なあれこれがSCPと呼ばれている。要はたくさんの人がたくさんの超常的オブジェクトについて共同執筆した、その総体がSCP財団と呼ばれるもので、SCP財団はフィクションだ。フィクションだとされている。

 

 そんな彼らが収容するもののうちの一つがこれ。

 SCP-2737、死んだヤツメウナギ

ja.scp-wiki.net

 

 

説明: SCP-2737は一匹の死んだヤツメウナギです。死亡しているにも拘らず、SCP-2737は腐敗の影響を受けていません。SCP-2737が入れられている骨壺は西暦およそ100年頃のもので、ローマ風の意匠が施されています。SCP-2737の存在を意識する行為はミーム感染を引き起こします。

ミーム感染による症状には以下が挙げられます。

  • 共感性の増大(感情面、認知面の両方) 1
  • 鬱病性障害
  • 急性のタナトフォビア 2
  • 弁神論 3 (宗教的思考を持つ人物に特有)、不死性、トランスヒューマニズムエントロピーの存在に関する強迫的な思考。
  • 集団的経験および相互に繋がりを持つ生活に係る信念

 

 このヤツメウナギ、ツボの中に入った死んだ一匹のヤツメウナギを認識した人物は、死について強く意識することになる。自分がいずれ死ぬこと。他者がいずれ死ぬこと。過去の誰かが死んでいったこと、そしてその誰かが死ぬ前には生きていたこと。それらのことを思い出す。そしていずれくる死への不安、過ぎ去った死への後悔が、ヤツメウナギを認識した人物に訪れ、彼を苛んで「大うつ病性障害」にしてしまう。これがこのSCPの特異性だ。

 このSCPは、説明を読んだだけでは、人々に心因的ダメージを与えるオブジェクトのように見えるのだが、実際のところそうではない。死んだヤツメウナギがもたらすタナトフォビアはなにも異常なものではない。ただ思い出させてくれるだけだ。そこここに存在する死を。普段僕らが見ないようにしている死を。あらゆるものがやがて死んでいき、そしていつも死んでいることを。この急激な死への自覚は鬱を引き起こすが、しかしそれは一時的なものにすぎない。この死んだヤツメウナギは、僕らに死に向き合う機会をくれるのだ。

今日、君は泣くだろう。嘆くだろう。これまでに喪った全てを思い出すだろう。

そして、それを通して、君は癒されていくのだよ。 

 

 

 このSCPの実に優れた点は、この記事自体がSCPと全く同じ特異性を持っているという点だ。「見たものを死について自覚的にする、死んだ一匹のヤツメウナギ」の記事を読了することで、僕らは死について少し自覚的になる。想像上の存在にすぎなかったSCPが、文章を通して、実際に僕らに影響を与えてくるのだ。この時、死んだヤツメウナギは単なるフィクションではなくなる。これは、このSCP財団という形式でなければ成しえなかった表現だろう。

 自覚的にならなければならない、と僕は考える。生きていくうえで僕らはできるだけ自覚的になるべきだ。何に対してかっていうと、まあ大雑把な言い方をすれば、「自分がどのような存在であるのか」に対して。僕は僕でしかあれないし、僕は僕以外にはなれないから、自分が何者であるのかを自覚するのは恐ろしく困難だ。だから僕は「何かに自覚的にしてくれるもの」を求めて文章を読むし、だから僕はこのSCP、死んだ一匹のヤツメウナギが大好きだ。

生きることの不可避な売春性の話

 5か月ぶりくらいであるらしい。ブログを書くのが。この5ヶ月くらいの間、ひいては10月に職を転じてからの半年の間、いったい何をしていたのかというと、まあ平たく言えば鬱がひどくなったり良くなったり繰り返していた。職場環境は以前に比べれば随分と良くなり、残業時間もずっと短くなって、直截的な非難や否定を受けることも少なくなったのだけれど、それでもやっぱり駄目なもんは駄目らしい。

 三十路が手に届きそうな距離になってやっと理解できたことがあって、俺はどうやら人間があまり好きじゃない。より具体的に言えば多くの人間から構成される組織や社会が好きではなくて、さらに詳細に言うならば多くの人間から構成される組織や社会に否応なく付随する階層的な人間関係が嫌いだ。スクールカーストに似たものは、社会にあっても存在する。それはより曖昧な雰囲気となって、しかしながらより絶対的な、確固たる暗黙の了解となって。全部くそったれだ。俺は多くの人間たちの合間に挟まって居心地の良いポジションとポーズを探ることに労力を費やしたくない。誰にも見下されたくないし、誰も見下したくない。俺はただ俺のままでいたい。それだけだ。ただそれだけのはずなんだけどな。

 

 表題の言葉は樋口恭介氏の書評「生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』 | UNLEASH」から取ったもので、俺はこれを見た瞬間上記の本をamazonで購入した。届くのが楽しみだ。俺は俺のことを説明してくれる言葉をずっと探している。レクサプロの時代の愛。

そこには逃げ場はない。出口はない。そこではあらゆるものが値付けされ売買される。青春は商品になり、恋は商品になり、性愛は商品になる。誰もが「私を買ってください」と主張し、自分の持つ何かを切り売りしながら生きている。
たとえば筆者も、まさに今この瞬間に、思考と呼ばれるある種の情報を切り売りするために、この文章を書いている。
「資本主義リアリズム」とは要するに、生きることの不可避な売春性について、不可避であると信じさせられていることを指す。

 

 サバンナモニターを再び飼おうかと思っている。年の暮れに不注意にて死なせてしまったにも関わらず。罪滅ぼしか? 今度はちゃんと飼育できることを示して以前の失敗を帳消しにしたいがためか? いずれにしてもただのエゴだ。だけどペットを飼うって行為そのものがそもそも利己的じゃないか。俺にところにいるあいつらが、俺のところに来てよかったのかどうか、俺には分からない。

 

 何か書きたかったことがあった気がするが完全に忘れた。今回はこの辺で。

スピリットサークルの話 -水上悟志は次元を超える-

 メチャクチャ好きな漫画であるスピリットサークルのおススメをするにあたって、まずは作者であるところの水上悟志先生の紹介から入ります。まどろっこっしいか? うるせえ、つべこべ言わずに聞いてくれ。

 水上悟志。1980年生まれ(へー)。主にヤングキングアワーズで読み切りや連載を描いた後、同誌で連載した「惑星のさみだれ(全10巻)」が読者の心を鷲掴みにした後2,3回ぶん殴って最後にキレイにパイルドライバーキメてくれるような名作として評判を博す。代表作は他に「戦国妖狐(全17巻)」「スピリットサークル(全6巻)」。2018年の7から9月に放送されたアニメ「プラネット・ウィズ」の原案も務める。これもいい宇宙超能力戦隊巨大ロボアニメでした。設定は水上作品を知ってると「なるほど」と思えるところが多く、何よりキャッチコピーの「幸せだったことを俺は忘れない」、読むだけで鳥肌立つし、これがクライマックスで言い放たれた瞬間には鳥肌がスタンディングオベーションでしたね。

 さて、水上悟志は妖怪、霊、超能力、輪廻転生といった題材を扱うことが多く、いくつかの作品は世界観を共有していると言われていますが、これは誤りであると俺は思っておりまして、それは要するに、いくつかなどとは生ぬるい、世界観を共有しているのは全作品だ。それが一番わかりやすいのがスピリットサークル5巻の84、5ページ。

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 この世界への理解が作者の根底にあり、その根底を基にして諸作品が成立しているのではないかと思うんですね。いや実際のところはわかんないけどね。

 

 多分大事なのはこのあたり。

・世界は空間(3次元)+時間(1次元)座標の基本形を有する天川が中心となってできている。

・天川を例えばx軸に取り、可能性値をy軸に取ると、無数の平行宇宙を面として表記可能。

・さらにこの面は無数に積み重なっており、このz軸は魂/非物質の次元値に相当する。

・で、この構造上を魂/意思/霊力は移動可能である。

 

 ってことから、諸作品の以下の設定が導出される。

・人は意思/魂の力で非物質の次元にアクセスし、エネルギーを実在世界に持ち込める。(諸作品の超能力/霊力に相当)

・非日常的な存在は可能性値/非物質の次元値が僅かにずれたところ、つまり僕らのそばに存在する。(闇(かたわら)/おとなりさん…つまり妖怪の存在⇒散人左道、百鬼町戦国妖狐、プラネットウィズ)

・人間は何らかの方法で天川を離れられれば(魂だけになるとか、莫大なエネルギーで強引に時空を歪ませるとか)時空間の移動が可能。(タイムトラベル、輪廻転生⇒惑星のさみだれスピリットサークル

人智を超越したもの、すなわち天川を次元的に超越し俯瞰するものの存在。(外星生命体⇒サイコスタッフ、スピリットサークル、プラネットウィズ)

 とまあこんな感じで。ここで俺が特に強調しておきたいのは、俺ら人間は天川(空間3次元+時間一方通行の1次元)の強制的な流れのもとに存在しているってこと。俺らは天川に流されながらなんとか生活をやっていくしかないわけ。普通はね。

 まあ長々語りましたけれど、ぶっちゃけ設定なんて2の次だと思うんですよね。しかしながら、物語に強度をもたせるためには、より強固な地盤、つまり設定が必要になる。水上悟志の作品は上記のうんちくを小難しく語るためにあるのではない。これはあくまで地面だ。登場人物たちが真っすぐ立つための足場だ。そして忘れないでほしい。水上悟志の物語は、天川の一方的な流れに翻弄されながらも、それでもより強く泳ぎ切ってやろうとする人たちの物語だ。導入はここまで。いったん休憩入りまーす。

 

 

 ではやっと本題。スピリットサークルの紹介です。

 まずあらすじ。ちょっと霊が見えるくらいの平凡な中学2年生桶屋風太は、転校生の女の子、石神鉱子に一目惚れ。彼女の後ろに見える背後霊のことは少し気になるものの、仲良くなろうと話しかける。そこで彼女に胸倉掴まれ、「探してたわ、あんたが私の嫌いな奴」と初対面なのに言われ、不思議な円環でぶん殴られる。意識を失った風太はおかしな夢を見る。遠い昔の夢。風太はそこではフォンという名前で、レイという名の少女と仲睦まじく暮らしている。そのささやかな幸福がある日、村の豊穣を祈る儀式のイケニエにレイが選ばれるという形で不条理に奪われ、怒りを抑えきれなくなったフォンは儀式の最中に乱入するも、レイの心臓はすでに捧げられた後で、フォンは神官に返り討ちにされる。今わの際、フォンがとらえたその神官の顔は、石神鉱子にそっくりだった。目を覚ました風太に鉱子は告げる。「私たちは前世で憎みあい、戦ってきた。あんたにはあと7回死んでもらう。私と関わってきた過去生をあと6回体験してもらった後で、あんたの魂を完全に滅し、私たちの戦いを今生で終わらせる」輪廻転生、人の縁をめぐる物語がいま幕を開ける……!!

 とここまでが1、2話のまとめ。なげえよ!!

 要するにこれは、輪廻転生の物語なんですよ。人が繰り返し繰り返し、生きて死んでいく物語です。主人公風太は7回生きて死ぬ。ヒロインというより宿敵の鉱子も7回生きて死ぬ。そこでこの作者、水上悟志の本領が発揮されます。この人、登場人物を死なせるのがメチャクチャ巧い。そういうとなんというか嫌らしく聞こえますが、ただ作品のなかで登場人物は、物語の起伏のために死ぬのではなく、自分が自分として生き抜いた結果として、すなわち天川の終着点に辿り着いて死ぬのです。この辺はもう読んでもらうしかない。惑星のさみだれなら2巻まで、スピリットサークルなら1巻読めば風太3つ目の過去生ヴァンの完結までたどり着けます。読んでくれ。頼む。読んだら俺の言っている意味が分かるから。そしたら分かる、この輪廻転生の物語をこの人が描いて面白くならないわけがないって。

 さて、風太は繰り返し過去生を体験し、鉱子との因縁の元凶であるはじまりの過去生、フルトゥナに辿り着きます。彼はとんでもない天才だったので孤立するも、友人たちに恵まれて幸せに暮らすのですが、やっぱりちょっと天才過ぎちゃったので、何万人も殺してコーコ(鉱子の過去生)と対立したり、最終的には宇宙を喰って全知全能になろうとします(何言ってんのか俺もよくわかんない)。最終的には英雄コーコに倒されます。ところ戻って現代、全ての過去生を見終えた風太と鉱子のもとに、邪悪な天才フルトゥナが仕掛けた罠が襲い掛かる…! というのがこの全6巻の漫画の全体感。

 一応核心のネタばれを控え、その結果どうなるかというところは置いといて。

 で、特に最終版の、何が素晴らしいのかというと、フルトゥナが普通の人間から離れて全知全能の存在にまでなろうとしたその理由が、結局はフルトゥナが「幸せだったころを取り戻したい」だけってところなんですよ。この時、天川、つまり人生の流れから逸脱しようとした天才フルトゥナが、結局他の凡人と大差なく、いや誰よりも人生に捕らわれていることになる。次元の壁を超えてしまいそうな大天才だって、最終的には一人の人間に還元される。

 その結果、この物語は読者に何をもたらすか?

 それはいくつもの人生を追体験したような濃密な時間と、自分の人生を前向きに見つめなおす機会です。

 

 小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。

-北村薫               

 漫画だけどね。でもこれと同じだよ。水上悟志作品は別次元の世界であり、そこを生きる人たちの人生の物語だ。

 水上悟志諸作品には、人生を(あるいは人生を包括する一方向の時空の流れ=天川を)超越しようとする人物がたびたび現れますが、彼らに共通して言えることは、結局彼らだって人間であることには変わらない、ということです。

 そんな流れを超えていこうとする彼らや、あるいは流れのなかでより強く生きていこうとする人たちを漫画の中に見ることはすなわち、読者が冒頭に述べた天川を、魂の次元値を一つ越えた場所から眺めることになります。水上漫画は次元を超える媒体であり、読者はそうして一つの世界を見つめることで、己をいま押し流している現実の世界を新たに見つめなおす視点を得られるのです。

 そうして俺たちは考え直す機会を与えられる。

 よりよく生きられるんじゃないのか?

 より強く生きられるんじゃないのか?

 そんな想いを、後ろ暗くなることなく、100%前向きな形で読者に与えてくれるこの漫画。誇張抜きでおそらく俺の人生ベスト1漫画なので、ぜひ手に取っていただければと思います。

初めてコインランドリーに行った話

 洗濯30分で200円、乾燥20分で200円。相場は知らないが、これはきっと安いのだろう。洗濯機も乾燥機もなく、自分で衣服を手もみし、太陽に衣服を乾かしてもらう手間を考えると。しかし前者の200円は僕の省力にはなるけれど、後者の200円は太陽の省力にしかならない。感謝しろよ太陽。今日の仕事は200円分だけ楽なはずだ。雨天で日差しはかけらも見えないけれど。

 今日の買い物はもうすっかり終わらせてしまったのだったから、乾燥機が回る20分のあいだ、ぼんやりbronbabaを聴きながら、衣服のもみくちゃにされる様を眺めていた。数分ごとに回転する方向は切り替わり、衣服はぐるぐる宙を舞う。滝つぼの激流に揉まれる小魚みたいに。あるいは社会に揉まれる僕みたいに。二つ目のほうはたぶん嘘だ。僕が勝手にここでぐるぐる回転しているだけなのかもしれないし、実際は回転すらしちゃあいないのだろう。

 入れ替わり立ち代わり、おどろくほど大勢の人がコインランドリーを訪れ、乾燥機に私物を押し込んでいく。太陽の調子が悪いものだから、代わりに乾燥機に仕事を押し付けようって腹らしい。たくさんの衣服を飲み込んで乾燥機はぐるぐる回る。乾燥機の逆トルク作用で地球の自転は少しずつ加速する。これも嘘。言うまでもなく。

 洗濯機と乾燥機の中身が慌ただしく入れ替わるように、人々も入れ替わる。僕もやがては外に出る。コインランドリーの外へ。乾燥機の回転の外側へ。そこに回転はないか? 多分あるのだろう。お金は循環し、資源は再利用され、社会は回転し続けているのだから、僕もその流れに合わせて回転せざるを得ない。明後日から僕は社会復帰するらしい。これは嘘じゃない。しょうがないけど渋々行こうか、回転する準備はできている。たぶん、一応ね。

しらける話

 みんなさ、遊んでる最中に、「なんかつまんねーなー」って気持ちになったことない? 「今やってるこれ、確かに楽しいんだけれど、果たしてこれに何の意味があるんだ?」って気持ちに。

 おれはあったよ。それもしょっちゅう。例えば高校の友達とシダックスキャラメルマキアートをガッパガッパ飲みながらBUMPやRADWIMPを熱唱したり、大学んときに慣れないビール飲みながら飲み会でギャーギャーはしゃいでいたり、そんな合間合間で。トイレに立って、用を足している時に、そいつが目覚めるんだ。

「そんで?」っておれの中のクソしらけ野郎が言う。「表面上お前は楽しそうだけど、それって本当のお前は楽しいの?」

 うるせーって、その言葉を振り払うようにおれはチンコをぶるんぶるん振る。なんだ本当のおれって。それはイケてもない特技もない天才でもない、ちんけな劣等感を抱えてるおれのことなんだろうけれど、そんなもん出したところで何になるんだ? おれは余分にチンコを振って、手を洗って、会場に戻る。少し、場違いな気分になる。この場所にうまく馴染めているのか不安になる。自分の正しい振る舞いかたがよくわからなくなる。

 そんな感じ。

 んで、こいつは厄介なことに、いつだってやって来るようになる。朝の、夜の、電車のなかで。試験勉強の合間に。本を読んでる最中に。布団のなかで。いつだって。

 

 おれはそんな、おれの中のしらけ野郎を蹴っ飛ばして追い出したつもりだったんだよな。

 だってそうだろ、しらけるのは最低の悪手だ。「意味がない、つまらない、気に入らない」の一言でなにかを切り捨てて、勝手に上から目線になって。根拠のないニヒリストはただの水差しクソ野郎だ。

 つまりはこうだ。意味のないものなんてないさ、っておれは唱える。

「そんなことはねえだろ。例えば、猥雑な週刊紙の片隅に載ってるホロスコープみたいに」

 それだって誰かが懸命に考えて書いたものだし、そいつをたよりに一週間の暮らしかたを決めている誰かさんだっているかもしれないだろ? その彼だか彼女だかはホロスコープに救われているはずだ。

「詭弁だろ。お前は占いを、とりわけ星座や血液型で人を判断するような輩が大嫌いなくせに」

 おれがそいつを嫌いだからって、そいつ自身に意味がないとは限らないさ。いいか。おれのものの見方は、全くもって正しいとは限らない。あるものがおれにはAに見える。でも別の人にはそいつがBにもCにも見えるのかもしれない。とある物事の本質は、おれのしょっぱい見識では推し測れるものではないんだ。

「そんで?」

 だからこうだ。おれたちは、あらゆるものを面白がることができる。あらゆるものに意図や意味があるんだ。コンクリートのひび割れにも、路地裏にある狭い公園にも、エアコンの室外器の並びやそこから生えるダクトにも、誰も登らない歩道橋にも、ポケットティッシュの裏側にある広告も開いたことのないプリインストールアプリにも、古本屋の平積みの下の方で折れ曲がった文庫本にも。なんにだって、それが今の状態に至るまでの背景があり、そこに意味を見出だすことが出来るんだ。

「そんで?」

 だから少なくとも、おれは今、楽しむべきなんだよ。今遊んで楽しむことの意味なんてあとから勝手についてくるんだから。

「あっそ。じゃあ頑張って楽しんでね」

 で、おれはおれの中のしらけ野郎を追い出した。

 

 まあもちろん追い出したと思ったのは錯覚で、しらけ野郎はずっとおれの中にいた。いい加減な理屈はなんにも打ち負かしてなくて、そいつが明確な言葉になるのを防いだだけ。しらけ野郎は漠然とした、単なるしらけた気分に変化して、ティッシュに落とした黒いインクみたいに、じんわりとおれの中に広がってた。

 ほらどうした、とおれは言う。楽しめよ。面白がれよ。

 うるせえ、お前がいるからできねえんだろうが。

 結局のところ、初手から間違えてんだよ。全部。全部だ。お前がなにかを楽しめなくなったのは、単にお前がそのなにかに一生懸命じゃなかっただけ。ものの考え方とか、捉え方とか、そんなもん本っ当にどうでもいいの。お前が部活に、勉強に、バイトに、研究に、趣味に、そのうちどれかひとつにでも本気で、全力で、そこにお前の全部を預けるような生活が出来てれば、お前はその場所で心底楽しめただろうに。なにが、あらゆるものを楽しむことができる、だ。お前は何を楽しむかの判断も自分でできなかっただけだろうが

 だってお前は言っただろ。おれのやることになんの意味があるんだ、おれがそれをやる意味はなんなんだ、一体お前に何が出来るんだ、って。

 知らねえよ。何もやらなかったのはお前だろ。

 

 

 俺にはこいつの殺し方が分からない。

今聴いている音楽の話

 特にやることがないので、好きな歌を集めたプレイリストをシャッフル再生し、その曲が流れ終わるまでに感想を書き上げるやつをやります。

 

 魂の本/中村一義

 一発目から良いのを引きました。中村一義のなかで12を争うくらいには好きな曲。軽やかなメロディに載せて歌われる「ただ僕らは、絶望の“望”を信じる」の力強さに、何度聞いても心を揺さぶられる。「電線の束、今日の赤、痛い状態は直感で」

 

 よだかの星/amazarashi

 ポエトリーリーディングといえばamazarashi、amazarashiのポエトリーリーディングといえばこれ。身体を燃やしながら空を飛ぶよだかにふさわしい、激しくもどこか消え去りそうな曲。

 

 Fools in the planet/the pillows

 アウイエー!! うん、それが言えればいいや。あとまだ5分も残っているのか。何書こうかな。そういえばpillowsで初めて聴いたのがこのアルバムだったと思う。そういう意味では思い入れのある曲。「誰もが忘れても、僕は忘れたりしないぜ」ってフレーズが、歳を取るごとに身に染みるようになる。これは誰かに向けた励ましの言葉ではないんだよな。自分たちに言い聞かせてるんだよ。「俺たちがここでこうして歌っていることを、俺自身は忘れたりしないぜ」ってさ。自分を疑わないって言いきるのは、裏を返せば自分が揺るぎそうになる瞬間があるから。その迷いを内包するからこそ、自己を補強するためにさわおは言い切るのだ。「全てが変わっても、僕は変わらない」

 

 アンジェラ/山崎まさよし

 山崎まさよしの中ではトップクラスに好きなんですよね。この曲。「アンジェラ」という女性の底の知れなさが伝わってきませんか。あと色調。とことんモノクロームなんですよ。色褪せた落書き、灰色の空、そこに最後に光が差し込んで、物語が始まる。この展開がたまらない。

 

 大脱走のテーマ/fozztone

 ぱんぱん、ぱんぱーんぱぱんぱん、ぱぱーんぱぱーぱぱっぱんぱーん

 

 Maybe I cry/cool drive

 昔っから好きなんですよ。このバンド。ドマイナーだけれど。ジャズをベースに、ブルース、ポップ、ロックとジャンルを容易く越境して躍動する音楽は今聴いても存分に格好いいぜ。この曲もたたみかけてくるリズムに乗るヴォーカルとサックスが溜まんない。ライブで聞けたら最高だったろうなあ。

 

 如月/suzumoku

 そういや最近聴いてなかったなsuzumoku。力強くかつ澄んだ声を持つ王道シンガーソングライター。この曲はsuzumokuの声と抒情的な歌詞、静かに進行していく曲調が見事にマッチしていると思う。「音もなく訪れた如月」というフレーズが大変お気に入り。エレキverも格好良い。

 

 想い斬り煮っ転がし/スムルース

 曲名の変換で再生時間の半分持っていかれた。ふざけた曲かと思いきや、スムルースのコミカルさとセンチメンタルさが巧くミックスした曲だと思う。

 

 小さな光/ケイタク

 あー、高校生のときよく聞いてたなー。王道フォークデュオの王道まっすぐな曲。初期コブクロやサスケみたいな爽やかさが漂っているんだけど、しかし「小さな光」とは昔抱いていた夢のことで、それを忘れないようにひたむきに生きていきたいと願う、少し哀愁も併せ持つ曲。俺はそういうのが大好き。

 

 sunrize/ぼくのりりっくのぼうよみ

 いやこういうのもなんですけど、本当この人天才じゃないですか? 言葉の捉え方がちょっと常人のそれではない気がする。歌詞が色/触感/匂いといった具体的な感覚を以って五感に訴えかける。聞き流して心地良い、歌詞を見ながら聴けばさらに染み込む、いやなんだろ、よくわかんねえや、とにかく彼の見えている言葉は俺の言葉よりも随分と豊かなように思える。

 

 ずわい蟹/真空メロウ

 あーこれね、ぜひ聴いてみてほしい。ハマる人はとことんハマると思う。people in the boxが好きな人はぜひ。なんというかね、ジャンルで言えばたぶんポストロックあたりになるんでけれど、曲に漂う不条理、アングラ、前衛的な感じ、これが唯一無二。ぬめっとした粘液に取り巻かれているような心地良さ。それほんまに心地良いのか?

 

 Laurentech/special others

 あーこの曲を弾けるようになるためだけに子供時代に戻ってキーボードを猛練習して―。

 

 swim/04 limited sazabys

 今高校生に受けている若手バンドといえばこの辺になるのかな? my hair is bad とかKANA-BOONとか? もう俺は高校生ではないし、もう2度と高校生に戻ることもないから、わからないんだけれど。真っすぐなパンクロックですね。今時真っすぐすぎて眩しいくらい。ハイトーンのボーカルに疾走するビートが気持ち良いです。

 

 Urban Souls/Scoobie Do

 Scoobie Doの立ち位置が良くわかってないんだよな。たぶん大ベテランであることは間違いないんだけれど。pillowsよりは若いのかな? この曲はもうひたすらサビのギターが格好良い。この曲聴いているときは絶対身体揺れている。

 

 B D H M / Good Dog Happy Men

 好きなバンドベスト10には入りますね。最近Burger nudsで新譜出してましたけど、あれ別にburger nudsじゃないよなあ。門田さんのソロの曲をバンドに落とし込んだだけ、みたいな。いや、あれはあれで割と好きではあるんだけれど。Good Dog Happy Men時代の楽曲は全体に統一感があってとても好きです。とある一つの架空の街があって、各曲がその街の一部分を切り出しているような感じ。BDHMはその街の中で、たぶん最も汚い場所で生きていた男のお話。街には汚いもので溢れているし、美しいものを知るためには汚いものが必要なんだ。

 

  マストピープル/the Arrows

 なんだろう、好きなバンドなんだけどね、なんというか迷走してたなーって気がする。「さよならミュージック」がFM802ヘビーローテーションになってたから知ったんだと思うんだけど、あれが少し人気になってしまったのが当人たちにとってはどうだったのかなー。マストピープルみたいなダンサブルなナンバーこそ本領発揮のような気もするし、かといって1stの東ファウンテン鉄道はもっとメロウなナンバーが集ってるし。1stはマジで名盤です。一度そっくり聴き返してみようかな。

 

 8月、落雷のストーリー/メレンゲ

 青春の曲なんですよ。これは俺にとって。好きな子とイヤホン半分こして聴いた。メレンゲを熱心に聴いてたのはHeavenly Daysくらいまでで、なんだろう、それ以降少しJ-pop感が強くなってしまって敬遠してたんだよな。新しい曲は出たのかな? メレンゲの楽曲は、晴れた日の通り雨のようにきらめいていて、僕の青春に一つの彩を加えていてくれてました。

 

 

 疲れたのでそろそろ終わり。こうして書いていると、音楽をある種「必死に」聴いていたのは高校、大学の頃までで、最近は真剣に音楽を聴いていない気がします。もっと聞くか音楽。Turn on the radio俺!

ELLEGARDENの話

 復活するそうですね。ELLEGARDEN。いやいま話題にするのも流行にのっかってるみたいでヤなんですけれど、しかしELLEGARDENと言えば僕らの青春の一かけらではありませんか。こんなこと言うと年齢バレるな。まあ別に隠してないからいいか。当方27歳男性であり、10年前のELLEGARDEN最盛期がちょうど高校世代にドストライクしていた者であります。ELLEGARDENは知ってるけれど、the HIATUSMONOEYESを聴いてないって人、僕らの世代には特に多いんじゃないんですかね。

 僕らの世代といえば、ちょいと「音楽を聴く」と通ぶっていたやつらといえば軒並みBUMPやらRADやらアジカンやら、邦楽ロックに傾倒していたものでした。僕もそうでした。その中で、ELLEGARDEN。みんな聴いていました。みんな聴いていたけれど、なんというか僕の周りでは女子人気が高くて。Red Hot、Missing、ジターバグ。いや確かにいい曲なんだけれど、ひねた俺は「まっすぐ過ぎない?」なんて考えていまいち乗り切れないでいました。「真っ当に格好良すぎない?」なんて。だから俺は「あー、ELLEね。高架線なら好きだよ」みたいなスタンスで彼らに接していました。ダッサ。今思うとダッサ。マイナーなところを突き切れていないあたりが特に。

 それはつまり、僕には眩しかったのでしょう。真っ当に格好良いロックをやっている彼らのことが。だから僕は「弱さ・駄目さ」を曲に包括しがちなBUMPやRADばかりをカラオケで歌ったり、その後には中村一義にドはまりしたりするんですけれど、それはまた別のお話。

 で、今になって聴きなおしてみて。やっぱり格好良いんですよね。ELLEGARDENのロックは、真っ当に格好良くて、揺るがない。彼らの音楽は、例えば歌詞のエピソードや、歌う人の個性のような、「刺さる人にはとことん刺さるけれど、共感されなくなったら終わり」なものに頼ってはいない。それはかつての僕の心臓を殴り切れなかった理由でもあるけれど、だけどELLEGARDENの強さでもあったのだと思います。ELLEGARDENはまっすぐなロックを僕らに届けてくれてたんだ。

それでは最後に好きな曲を貼って終わります。みんなもELLE、聴きなおそうぜ!!


ELLEGARDEN-Mr.Feather