近所のスーパーからDr.pepperが姿を消した話

 そんなわけで、風呂上がりのおれを冷蔵庫で待ちかまえてくれるものは何もない。あの突き抜ける爽快感も、目の覚めるような香りも、何も。

 そういった話をした。会社の食堂で、昼飯を食べながら。ライス小のお茶碗に山盛りにした白米を頬張りつつ、おれはこの喪失感をたどたどしく語った。「飲んだことないわ」と先輩は言った。おれは目玉をひん剥いた。「教えてくれ」と先輩はいった。「Dr.pepperがどんな味なんかを」

 ひん剥かれた目玉を目蓋のうちに戻しながらおれは語ろうとした。Dr.pepperのあの独特な風味を。おれの持てる語彙力の全てを用い、この世の有象無象あらゆる比喩を駆使して語ろうとした。

「それはまるで、Dr.pepperのようで」とおれは言った。水を一口飲んだ。それからこう言った。「Dr.pepperのような飲み物なんですよ」

「最後まで最初から最後までDr.pepperやんけ」

 おれは頷いて、白米を食べる作業に戻った。ほかにどんな伝え方がある? おれがどんなに言葉を凝らそうとも、Dr.pepperはDr.pepper以外のものではないし、そしてもう二度とおれの手には戻らないのだ。そしておれは気付く。Dr.pepperの味を思い浮かべながら食べる米はなんかあんまりおいしくない、と。

 

 で、家帰ってからしょうがなく代わりに買ったコカコーラゼロを飲んでるんですけどコーラはコーラでやっぱうまいんですよね。あとおれはルートビアも好きです。コーラに湿布漬けたら自家製ルートビアできるかな。腹下しそうだからやめとこうかな。

二日酔いとかの話

 酒に弱くなってきている気がする。
 そもそもが後先考えずに日本酒だのワインだのウイスキーだのをがぶがぶいってしまうたちで、部屋で晩酌しこたつで朝まで寝落ち、を一時期当たり前のように繰り返しており、さすがにこれはと酒を買う量を絞り始めたのが多分今年の夏くらい。おかげで飲酒量は減ったのだが、それと引き換えか最近やたらと悪酔いする。しかも外で飲む際に。


 先週のこのツイートは一片の誇張もなく本当のことで、GoogleHomeはいまだに何だかよそよそしい。呼び方はよく聞いてみれば「わないさん」で、俺は断じてそんな名前ではないのだが、彼女は頑なに俺をそう呼び続けている。急に前世の記憶でも蘇ったの?
 昨日も飲んだ。大阪で、気の置けない友人と。おかげで今日はひたすら頭が痛い。しかしよく考えたら4人でビール8本日本酒1升ヌーヴォー1本以上を軽く開けているので大概飲みすぎている。弱くなったとかじゃねえ、アルコールに対するストッパーがバカんなってるだけのようだ。

 

 車で大阪から三重まで帰る。
 認知機能は明らかに悪くなっていたが、運よく誰のことも傷つけずに済んだ。

 

 天理の近くでラーメンを食った。
 無鉄砲、しゃばとん。
 コールタールより粘性がありそうなスープ。

 

 名阪国道は一番好きな道路かもしれない。

 

 高速沿いの景色は工場が目立つ。
 いろんなところでいろんなものが生産されている。
 今朝俺が消費したサンドイッチはどこで誰が生産したもんなんだろう。今着ている服は? 乗っている車は? 車が踏みにじっているこの道路は?

 あらゆるものにストーリーがあり、そのことを真面目に飲み込もうとするとゲロを吐きそうになってくる。あまりに多い情報はアルコールよりも酔いやすい。

 

 ホテルもよく見る。気に入らない。
 おれにはご休憩が必要になった状況なんてこれまで一度もなかったから。

 「人を愛したことがないんスよ」

 そんなことをこの前、冗談交じりで言った。冗談のつもりだった。でも本当のことかもしれない。恋人と呼べる存在がいたのはもうセピア色になりそうなくらいの昔のことだ。あの時、おれはあの子のことを愛していたのだろうか? 幼稚な所有欲を満たしていただけなんじゃなかろうか。おれはいつだって自分のことばかりを愛していた。多分今も。

 おれは誰かを愛したい。

 どうしてこんな年になるまでこじれてしまったのか。たぶん憶病なんだろう。人と向き合うことについて。世界と向き合うことについて。拒絶や否定が怖くて引きこもっている。おれは幼稚だ。
 用のないホテルを、今日おれはいくつも通り過ぎた。

ゲームはおもしろいよねって話

 ブログ八か月ぶりだってさ。えへへ。

 

 先々月からBrownDustってスマホゲームをポチポチやってる。キャラを集めて育てて戦わせるってだけのよくあるタイプのやつなのだけれど、戦闘操作はキャラを9名、5列×3行のマス目に配置して行動順番を指定するだけ、戦闘自体はオートマチックで各キャラがひたすら割り当てられスキルに従って行動する、ってこのシステムが良く出来ていてわりと面白い。
 まず戦略性。配列と順番で戦闘結果がガラッと変わる。防御役にできるだけ攻撃を吸わせて、アタッカーはなるべく攻撃が通る位置に配置して。相手の配列によって有効な位置も変わってくるのでなかなか難しい。
 あとキャラ相性。スマホゲームの宿命としてキャラ強弱は結構強いのだが、スキルやバフデバフの種類も多いので、突破するための穴はある程度残されている。まあガチガチに育てた強キャラを集められたら手も足も出んけど。
 最後に手軽さ。個人的にはここが一番大きい。戦闘は自動、自動周回機能もついててながらプレイが捗る捗る。勝手にキャラがわちゃわちゃ戦ってる様子を眺めるのも楽しい。

 こういったスマホゲームにおいて重要なのって、戦闘が楽しいことと、気軽に続けられることだとおれは思ってるので、このゲームは飽きずにしばらく続けてしまうだろうと思う。コンテンツが盛りだくさんになってきたら途端に飽きてしまうかも。「やらされ感」が出てきてしまったらもうだめだ。今までは大体それで一気に熱が冷めてきた。パズドラ、サモンズボード、テラバトルあたり、一時期は結構やってたんだけどな。まあ、スマホゲームに時間を溶かすと後で自己嫌悪につながるので、ほどほどのところで暇をつぶし続けよう。

 

 一方で、据え置きゲームも最近再びやり始めた。
 switchでゼルダブレスオブザワイルド。これは駄目だ。楽しすぎた。バカ広いフィールドをさ迷い歩いているうちに、リンクもプレイヤースキルも育ってきて、できることがどんどん増えてくる。あらゆるところに何かがあって、探索が止まらない。
 PS4でHorizon Zero Dawn。機械生命体が跋扈するポストアポカリプスの世界を女狩人が旅しながら、自分の出自と世界の秘密を探る物語。ストーリーが好み。機械狩りと素材集めが楽しい。野良機械にひたすら爆弾を投げつけるテロリストスタイルで通した。
 FF7もリメイク前にとやり直してみた。小学生の一番クリティカルな時代に体験したからだろうか、無条件で楽しい。マテリアシステムがカスタマイズ性高くて特に好き。ただ、改めてやり直してみると戦闘がぬるすぎるんだよなあ。

 

 で、undertale。
 これほんとに大傑作ですね。

 

 ゲームにおける傑作の条件って、もちろんシステムとして楽しいことが大前提なんだけれど、ゲームという双方向、インタラクティブなツールをうまく表現として活用することにあると思う。良いゲームは観察するだけの一方向的なフィクションに収まらず、プレイヤーをゲームに引き込んで「体験」させる。
 僕の好きなゲームで行けば、例えばMOTHER2。ユーモアあふれる世界にプレイヤーを引き込めるからこそ、過去に飛ぶための決断があれほど大きな衝撃をもたらした。
 ブレスオブファイア5。暗い世界にDカウンターという時限式ゲームオーバーが合わさった息苦しさをプレイヤーに味合わせたからこそ、最後の空はあんなにも青かった。
 Doki-Doki Litarature club!。ゲームを先に進めるための決断をゲーム外の手動操作にもとめたからこそ、その後の展開は「主人公」ではなく「プレイヤー自身」の体験となった。

 単なる楽しさにとどまらないゲームのおもしろさって、このあたりにあると思うんですよ。
 表現作品としての、ゲームのおもしろさの可能性。

 undertaleはその可能性を最大限に活用しきったゲームである。

 undertaleのおもしろさ自体は語り切れる気がしないし、あちこちで議論されつくしているところだと思うので、ここでは一つだけ。
 undertaleはプレイヤーに世界を「体験」させることに全力を尽くしたゲームであり、その世界がプレイヤーの行動によっていかようにも変化することを全力で示したゲームだ。この尋常じゃなく研ぎ澄まされたインタラクティブなゲーム体験。これがundertaleをとてつもない傑作に押し上げている。

 

 未プレイの人、みんなやろうね! undartale!

 

 昨日ポケモンソードが届きました。楽しみながらすすめていきます。
 やっぱりゲームっておもしろいよね。

 

 予定のない休日は朝カフェをすることにしたので、そこで継続的にブログを書けるようにできればよいなあ。

死んだ一匹のヤツメウナギの話

 SCP財団という組織があって。めんどくさいから詳しくは説明しないけれど、彼らは超常的な物体やら場所やら現象やらを確保(Secure)、収容(Contain)、保護(Protect)するための集団であり、彼らの収容するその不思議なあれこれがSCPと呼ばれている。要はたくさんの人がたくさんの超常的オブジェクトについて共同執筆した、その総体がSCP財団と呼ばれるもので、SCP財団はフィクションだ。フィクションだとされている。

 

 そんな彼らが収容するもののうちの一つがこれ。

 SCP-2737、死んだヤツメウナギ

ja.scp-wiki.net

 

 

説明: SCP-2737は一匹の死んだヤツメウナギです。死亡しているにも拘らず、SCP-2737は腐敗の影響を受けていません。SCP-2737が入れられている骨壺は西暦およそ100年頃のもので、ローマ風の意匠が施されています。SCP-2737の存在を意識する行為はミーム感染を引き起こします。

ミーム感染による症状には以下が挙げられます。

  • 共感性の増大(感情面、認知面の両方) 1
  • 鬱病性障害
  • 急性のタナトフォビア 2
  • 弁神論 3 (宗教的思考を持つ人物に特有)、不死性、トランスヒューマニズムエントロピーの存在に関する強迫的な思考。
  • 集団的経験および相互に繋がりを持つ生活に係る信念

 

 このヤツメウナギ、ツボの中に入った死んだ一匹のヤツメウナギを認識した人物は、死について強く意識することになる。自分がいずれ死ぬこと。他者がいずれ死ぬこと。過去の誰かが死んでいったこと、そしてその誰かが死ぬ前には生きていたこと。それらのことを思い出す。そしていずれくる死への不安、過ぎ去った死への後悔が、ヤツメウナギを認識した人物に訪れ、彼を苛んで「大うつ病性障害」にしてしまう。これがこのSCPの特異性だ。

 このSCPは、説明を読んだだけでは、人々に心因的ダメージを与えるオブジェクトのように見えるのだが、実際のところそうではない。死んだヤツメウナギがもたらすタナトフォビアはなにも異常なものではない。ただ思い出させてくれるだけだ。そこここに存在する死を。普段僕らが見ないようにしている死を。あらゆるものがやがて死んでいき、そしていつも死んでいることを。この急激な死への自覚は鬱を引き起こすが、しかしそれは一時的なものにすぎない。この死んだヤツメウナギは、僕らに死に向き合う機会をくれるのだ。

今日、君は泣くだろう。嘆くだろう。これまでに喪った全てを思い出すだろう。

そして、それを通して、君は癒されていくのだよ。 

 

 

 このSCPの実に優れた点は、この記事自体がSCPと全く同じ特異性を持っているという点だ。「見たものを死について自覚的にする、死んだ一匹のヤツメウナギ」の記事を読了することで、僕らは死について少し自覚的になる。想像上の存在にすぎなかったSCPが、文章を通して、実際に僕らに影響を与えてくるのだ。この時、死んだヤツメウナギは単なるフィクションではなくなる。これは、このSCP財団という形式でなければ成しえなかった表現だろう。

 自覚的にならなければならない、と僕は考える。生きていくうえで僕らはできるだけ自覚的になるべきだ。何に対してかっていうと、まあ大雑把な言い方をすれば、「自分がどのような存在であるのか」に対して。僕は僕でしかあれないし、僕は僕以外にはなれないから、自分が何者であるのかを自覚するのは恐ろしく困難だ。だから僕は「何かに自覚的にしてくれるもの」を求めて文章を読むし、だから僕はこのSCP、死んだ一匹のヤツメウナギが大好きだ。

生きることの不可避な売春性の話

 5か月ぶりくらいであるらしい。ブログを書くのが。この5ヶ月くらいの間、ひいては10月に職を転じてからの半年の間、いったい何をしていたのかというと、まあ平たく言えば鬱がひどくなったり良くなったり繰り返していた。職場環境は以前に比べれば随分と良くなり、残業時間もずっと短くなって、直截的な非難や否定を受けることも少なくなったのだけれど、それでもやっぱり駄目なもんは駄目らしい。

 三十路が手に届きそうな距離になってやっと理解できたことがあって、俺はどうやら人間があまり好きじゃない。より具体的に言えば多くの人間から構成される組織や社会が好きではなくて、さらに詳細に言うならば多くの人間から構成される組織や社会に否応なく付随する階層的な人間関係が嫌いだ。スクールカーストに似たものは、社会にあっても存在する。それはより曖昧な雰囲気となって、しかしながらより絶対的な、確固たる暗黙の了解となって。全部くそったれだ。俺は多くの人間たちの合間に挟まって居心地の良いポジションとポーズを探ることに労力を費やしたくない。誰にも見下されたくないし、誰も見下したくない。俺はただ俺のままでいたい。それだけだ。ただそれだけのはずなんだけどな。

 

 表題の言葉は樋口恭介氏の書評「生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』 | UNLEASH」から取ったもので、俺はこれを見た瞬間上記の本をamazonで購入した。届くのが楽しみだ。俺は俺のことを説明してくれる言葉をずっと探している。レクサプロの時代の愛。

そこには逃げ場はない。出口はない。そこではあらゆるものが値付けされ売買される。青春は商品になり、恋は商品になり、性愛は商品になる。誰もが「私を買ってください」と主張し、自分の持つ何かを切り売りしながら生きている。
たとえば筆者も、まさに今この瞬間に、思考と呼ばれるある種の情報を切り売りするために、この文章を書いている。
「資本主義リアリズム」とは要するに、生きることの不可避な売春性について、不可避であると信じさせられていることを指す。

 

 サバンナモニターを再び飼おうかと思っている。年の暮れに不注意にて死なせてしまったにも関わらず。罪滅ぼしか? 今度はちゃんと飼育できることを示して以前の失敗を帳消しにしたいがためか? いずれにしてもただのエゴだ。だけどペットを飼うって行為そのものがそもそも利己的じゃないか。俺にところにいるあいつらが、俺のところに来てよかったのかどうか、俺には分からない。

 

 何か書きたかったことがあった気がするが完全に忘れた。今回はこの辺で。

スピリットサークルの話 -水上悟志は次元を超える-

 メチャクチャ好きな漫画であるスピリットサークルのおススメをするにあたって、まずは作者であるところの水上悟志先生の紹介から入ります。まどろっこっしいか? うるせえ、つべこべ言わずに聞いてくれ。

 水上悟志。1980年生まれ(へー)。主にヤングキングアワーズで読み切りや連載を描いた後、同誌で連載した「惑星のさみだれ(全10巻)」が読者の心を鷲掴みにした後2,3回ぶん殴って最後にキレイにパイルドライバーキメてくれるような名作として評判を博す。代表作は他に「戦国妖狐(全17巻)」「スピリットサークル(全6巻)」。2018年の7から9月に放送されたアニメ「プラネット・ウィズ」の原案も務める。これもいい宇宙超能力戦隊巨大ロボアニメでした。設定は水上作品を知ってると「なるほど」と思えるところが多く、何よりキャッチコピーの「幸せだったことを俺は忘れない」、読むだけで鳥肌立つし、これがクライマックスで言い放たれた瞬間には鳥肌がスタンディングオベーションでしたね。

 さて、水上悟志は妖怪、霊、超能力、輪廻転生といった題材を扱うことが多く、いくつかの作品は世界観を共有していると言われていますが、これは誤りであると俺は思っておりまして、それは要するに、いくつかなどとは生ぬるい、世界観を共有しているのは全作品だ。それが一番わかりやすいのがスピリットサークル5巻の84、5ページ。

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 この世界への理解が作者の根底にあり、その根底を基にして諸作品が成立しているのではないかと思うんですね。いや実際のところはわかんないけどね。

 

 多分大事なのはこのあたり。

・世界は空間(3次元)+時間(1次元)座標の基本形を有する天川が中心となってできている。

・天川を例えばx軸に取り、可能性値をy軸に取ると、無数の平行宇宙を面として表記可能。

・さらにこの面は無数に積み重なっており、このz軸は魂/非物質の次元値に相当する。

・で、この構造上を魂/意思/霊力は移動可能である。

 

 ってことから、諸作品の以下の設定が導出される。

・人は意思/魂の力で非物質の次元にアクセスし、エネルギーを実在世界に持ち込める。(諸作品の超能力/霊力に相当)

・非日常的な存在は可能性値/非物質の次元値が僅かにずれたところ、つまり僕らのそばに存在する。(闇(かたわら)/おとなりさん…つまり妖怪の存在⇒散人左道、百鬼町戦国妖狐、プラネットウィズ)

・人間は何らかの方法で天川を離れられれば(魂だけになるとか、莫大なエネルギーで強引に時空を歪ませるとか)時空間の移動が可能。(タイムトラベル、輪廻転生⇒惑星のさみだれスピリットサークル

人智を超越したもの、すなわち天川を次元的に超越し俯瞰するものの存在。(外星生命体⇒サイコスタッフ、スピリットサークル、プラネットウィズ)

 とまあこんな感じで。ここで俺が特に強調しておきたいのは、俺ら人間は天川(空間3次元+時間一方通行の1次元)の強制的な流れのもとに存在しているってこと。俺らは天川に流されながらなんとか生活をやっていくしかないわけ。普通はね。

 まあ長々語りましたけれど、ぶっちゃけ設定なんて2の次だと思うんですよね。しかしながら、物語に強度をもたせるためには、より強固な地盤、つまり設定が必要になる。水上悟志の作品は上記のうんちくを小難しく語るためにあるのではない。これはあくまで地面だ。登場人物たちが真っすぐ立つための足場だ。そして忘れないでほしい。水上悟志の物語は、天川の一方的な流れに翻弄されながらも、それでもより強く泳ぎ切ってやろうとする人たちの物語だ。導入はここまで。いったん休憩入りまーす。

 

 

 ではやっと本題。スピリットサークルの紹介です。

 まずあらすじ。ちょっと霊が見えるくらいの平凡な中学2年生桶屋風太は、転校生の女の子、石神鉱子に一目惚れ。彼女の後ろに見える背後霊のことは少し気になるものの、仲良くなろうと話しかける。そこで彼女に胸倉掴まれ、「探してたわ、あんたが私の嫌いな奴」と初対面なのに言われ、不思議な円環でぶん殴られる。意識を失った風太はおかしな夢を見る。遠い昔の夢。風太はそこではフォンという名前で、レイという名の少女と仲睦まじく暮らしている。そのささやかな幸福がある日、村の豊穣を祈る儀式のイケニエにレイが選ばれるという形で不条理に奪われ、怒りを抑えきれなくなったフォンは儀式の最中に乱入するも、レイの心臓はすでに捧げられた後で、フォンは神官に返り討ちにされる。今わの際、フォンがとらえたその神官の顔は、石神鉱子にそっくりだった。目を覚ました風太に鉱子は告げる。「私たちは前世で憎みあい、戦ってきた。あんたにはあと7回死んでもらう。私と関わってきた過去生をあと6回体験してもらった後で、あんたの魂を完全に滅し、私たちの戦いを今生で終わらせる」輪廻転生、人の縁をめぐる物語がいま幕を開ける……!!

 とここまでが1、2話のまとめ。なげえよ!!

 要するにこれは、輪廻転生の物語なんですよ。人が繰り返し繰り返し、生きて死んでいく物語です。主人公風太は7回生きて死ぬ。ヒロインというより宿敵の鉱子も7回生きて死ぬ。そこでこの作者、水上悟志の本領が発揮されます。この人、登場人物を死なせるのがメチャクチャ巧い。そういうとなんというか嫌らしく聞こえますが、ただ作品のなかで登場人物は、物語の起伏のために死ぬのではなく、自分が自分として生き抜いた結果として、すなわち天川の終着点に辿り着いて死ぬのです。この辺はもう読んでもらうしかない。惑星のさみだれなら2巻まで、スピリットサークルなら1巻読めば風太3つ目の過去生ヴァンの完結までたどり着けます。読んでくれ。頼む。読んだら俺の言っている意味が分かるから。そしたら分かる、この輪廻転生の物語をこの人が描いて面白くならないわけがないって。

 さて、風太は繰り返し過去生を体験し、鉱子との因縁の元凶であるはじまりの過去生、フルトゥナに辿り着きます。彼はとんでもない天才だったので孤立するも、友人たちに恵まれて幸せに暮らすのですが、やっぱりちょっと天才過ぎちゃったので、何万人も殺してコーコ(鉱子の過去生)と対立したり、最終的には宇宙を喰って全知全能になろうとします(何言ってんのか俺もよくわかんない)。最終的には英雄コーコに倒されます。ところ戻って現代、全ての過去生を見終えた風太と鉱子のもとに、邪悪な天才フルトゥナが仕掛けた罠が襲い掛かる…! というのがこの全6巻の漫画の全体感。

 一応核心のネタばれを控え、その結果どうなるかというところは置いといて。

 で、特に最終版の、何が素晴らしいのかというと、フルトゥナが普通の人間から離れて全知全能の存在にまでなろうとしたその理由が、結局はフルトゥナが「幸せだったころを取り戻したい」だけってところなんですよ。この時、天川、つまり人生の流れから逸脱しようとした天才フルトゥナが、結局他の凡人と大差なく、いや誰よりも人生に捕らわれていることになる。次元の壁を超えてしまいそうな大天才だって、最終的には一人の人間に還元される。

 その結果、この物語は読者に何をもたらすか?

 それはいくつもの人生を追体験したような濃密な時間と、自分の人生を前向きに見つめなおす機会です。

 

 小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います。

-北村薫               

 漫画だけどね。でもこれと同じだよ。水上悟志作品は別次元の世界であり、そこを生きる人たちの人生の物語だ。

 水上悟志諸作品には、人生を(あるいは人生を包括する一方向の時空の流れ=天川を)超越しようとする人物がたびたび現れますが、彼らに共通して言えることは、結局彼らだって人間であることには変わらない、ということです。

 そんな流れを超えていこうとする彼らや、あるいは流れのなかでより強く生きていこうとする人たちを漫画の中に見ることはすなわち、読者が冒頭に述べた天川を、魂の次元値を一つ越えた場所から眺めることになります。水上漫画は次元を超える媒体であり、読者はそうして一つの世界を見つめることで、己をいま押し流している現実の世界を新たに見つめなおす視点を得られるのです。

 そうして俺たちは考え直す機会を与えられる。

 よりよく生きられるんじゃないのか?

 より強く生きられるんじゃないのか?

 そんな想いを、後ろ暗くなることなく、100%前向きな形で読者に与えてくれるこの漫画。誇張抜きでおそらく俺の人生ベスト1漫画なので、ぜひ手に取っていただければと思います。

初めてコインランドリーに行った話

 洗濯30分で200円、乾燥20分で200円。相場は知らないが、これはきっと安いのだろう。洗濯機も乾燥機もなく、自分で衣服を手もみし、太陽に衣服を乾かしてもらう手間を考えると。しかし前者の200円は僕の省力にはなるけれど、後者の200円は太陽の省力にしかならない。感謝しろよ太陽。今日の仕事は200円分だけ楽なはずだ。雨天で日差しはかけらも見えないけれど。

 今日の買い物はもうすっかり終わらせてしまったのだったから、乾燥機が回る20分のあいだ、ぼんやりbronbabaを聴きながら、衣服のもみくちゃにされる様を眺めていた。数分ごとに回転する方向は切り替わり、衣服はぐるぐる宙を舞う。滝つぼの激流に揉まれる小魚みたいに。あるいは社会に揉まれる僕みたいに。二つ目のほうはたぶん嘘だ。僕が勝手にここでぐるぐる回転しているだけなのかもしれないし、実際は回転すらしちゃあいないのだろう。

 入れ替わり立ち代わり、おどろくほど大勢の人がコインランドリーを訪れ、乾燥機に私物を押し込んでいく。太陽の調子が悪いものだから、代わりに乾燥機に仕事を押し付けようって腹らしい。たくさんの衣服を飲み込んで乾燥機はぐるぐる回る。乾燥機の逆トルク作用で地球の自転は少しずつ加速する。これも嘘。言うまでもなく。

 洗濯機と乾燥機の中身が慌ただしく入れ替わるように、人々も入れ替わる。僕もやがては外に出る。コインランドリーの外へ。乾燥機の回転の外側へ。そこに回転はないか? 多分あるのだろう。お金は循環し、資源は再利用され、社会は回転し続けているのだから、僕もその流れに合わせて回転せざるを得ない。明後日から僕は社会復帰するらしい。これは嘘じゃない。しょうがないけど渋々行こうか、回転する準備はできている。たぶん、一応ね。