スマホケースの話

 ブログではお久しぶりです、鰐人です。前のブログは僕の悪しき部分を煮凝りにしたような様相になっていたので、消しました。でもまたやりたくなったので再開しました。イエイ! 多少は明るく元気にやっていこうとは思っていますが、とはいえやること自体は別に変わりません。書きたいことを書きたくなった時に書きます。お付き合いいただければ幸いです。

 

 それで本題なんですけれど、僕はあまり気に入らないんですよ。スマホケース。邪道じゃないですか? スマホをわざわざケースに入れるのって、犬に服を着せる飼い主に通じるものがありますよね。犬に服を着る必要はありません。何故なら彼らは裸体のままに外の環境に適応した生き物だからです。その自然の摂理を、自分のペットを可愛く着飾らせたいがために捻じ曲げる。これはエゴですよ。醜悪な人間のエゴです。スマホにだって同じことが言えると思うわけです。せっかく薄く開発したスマートフォンにケースを付けるなんて、技術者が泣きますよ。「厚くすんのかい!」つって。「頑張って薄く作ったのに、厚くすんのかい!」つって。

 それ故に僕はスマホを裸のまま、ポケットに突っ込んで歩くのです。汚れるのも傷がつくのも厭わずに。やっぱり甘やかしてはいけないと思うんですよね。スマホを。人は誰しもが傷付きながらそれでも生きていくんです。傷を負うことはけして悪いことではありません。例え骨が折れたとしても、癒着するときには以前よりもさらに太く頑丈になります。一切の外的脅威からスマホを守ること、それはスマホの成長を妨げることにはなっていないでしょうか。そういう信条の下、僕はスマホケースレスな日常を送っていたわけです。

 

 で、スマホ落として画面がバッキーいっちゃったのが二週間前の話。

 修理代、¥16,200。

 

 以来僕は考えを改めました。人は誰だって守られているんです。例えば、着の身着のままでサバンナに放り出されたのなら大抵の人が死にます。そうならないのは、僕らが何者かによって守られているからです。それは法律や道徳などの社会規範であり、そして何よりも、親の愛。そういった陽の光のように優しく注ぎ込む暖かいものにです。僕らは深い愛に守られている。ありがとう、お父さん。ありがとう、お母さん。今まで僕を愛してくれた人たち全てに、ありがとう。

 だから僕のポケットにあるスマホは、今はケースに包まれている。それこそが、僕が愛を受けて生きてきたことの証なんだ。なんだこれ、復活早々酷い記事だな。何を目指してるんだ一体。そんな感じで、どうぞよろしくお願いします。