「ノットコーヒー」ホットを頼もうとして、僕は噛んだ。「はいノット一つ!」注文が通ってしまった。数分後、僕の前にコップが差し出された。その中には奇妙な水音を立てる真っ黒なゼリーのような何かが蠢いていた。「飲めるんですか、これ?」意外と美味いもんですよ、とマスターは僕の質問に応えた。
— 鰐人 (@wani_jin) February 11, 2015
「ソットコーヒー」ホットコーヒーを頼もうとして僕は噛んだ。注文を聞いたマスターはしめやかに豆を挽き、粛々とドリップし、カップの中に厳かにコーヒーを注ぎ、あたかも皇帝陛下に献上するかのように恭しく僕の前に置いた。僕はコーヒーをズズズッと音を立て勢い良く啜った。マスターは僕を殴った。
— 鰐人 (@wani_jin) February 28, 2015
「ギョットコーヒー」ホットを頼もうとして、僕は噛んだ。だけど出てきたのは普通のコーヒーだった。安心して手を伸ばしたところ、カップが突然パンと破裂して、中身が勢い良く飛び散った。ギョッとしたでしょ? とマスターは笑い、クリーニング代を寄越せ、と僕は怒鳴った。彼は店の奥に逃げ込んだ。
— 鰐人 (@wani_jin) March 5, 2015
「ズットコーヒー」ホットを頼もうとして、僕は噛んだ。マスターはカウンターから出てきておもむろに店の出入り口に鍵をかけ、高らかに笑った。「貴様はこれからずっと、この店でコーヒーを飲み続けることになるのだ!」注文をキャンセルしますと僕が告げると、マスターはシュンとした顔で鍵を開けた。
— 鰐人 (@wani_jin) March 5, 2015
「モットコーヒー」ホットを頼もうとして、僕は噛んだ。マスターが提供したお皿の上には、赤黒い粒が一つ。「豆じゃん」「ええ。単なるコーヒーよりももっとコーヒーであること、それはコーヒーの源流を遡っていくことに他なりません。即ち豆です」釈然としないまま、僕は豆を齧った。とても苦かった。
— 鰐人 (@wani_jin) March 6, 2015
「ドットコーヒー」ホットを頼もうとして、僕は噛んだ。マスターは懐からタブレットを取り出した。画面に映るコーヒーは、輝く液面や立ち上る湯気までもが精緻なドットにより表現されており、その芳しい香りが想起される程の出来だった。「でも飲めませんよね、絵だし」「まあ飲めませんね、絵ですし」
— 鰐人 (@wani_jin) March 7, 2015
「オットコーヒー」ホットを頼もうとして、僕は噛んだ。「夫……」そう呟いたマスターは、遠い目をして語り出した。お前は夫失格だと、父親失格だと出て行った妻には言われました。その通りです。私は家族より自「マスター、その話長くなる?」「長くなります」「コーヒーは?」「そんな暇ありません」
— 鰐人 (@wani_jin) March 13, 2015
「ゴッドコーヒー」ホットを頼もうとして、僕は噛んだ。マスターは祈りを捧げた。すると神々しい光とともに、翼の生えた美女が何処からともなく現れた。『貴方が望むのならば、コーヒーを与えましょう。但し、対価として私にその魂を捧げるのです』「嫌です」神々しい光とともに、女神は消えていった。
— 鰐人 (@wani_jin) March 13, 2015
登場人物紹介
マスター:38歳。ジャズが好き。客の注文にはなんとしても応えるナイスガイ。喫茶店はシックで落ち着いた雰囲気でありコーヒーも美味いのだが、近くにスタバがあるのでみんなそっちに行く。かつてはメガバンクに勤めるエリート銀行マンだったが、長年の夢である喫茶店を開くために家族に相談もなく仕事を辞めたところ妻に三下り半を突き付けられた。数か月に一度、10歳になる娘と会えることが彼の人生を支えている。
僕:23歳。地方国立大学法学部の三年生。二浪。滑舌が悪い。注文の仕方が分からなくて怖いので、スタバに行けない。浪人コンプレックスのせいでうまく大学で友達が作れなかった。この前奮発して買ったアコースティックギターはFコードが弾けずに挫折したため、部屋の片隅で埃をかぶっている。ホットコーヒーをちゃんと飲めたことはまだない。