想像力の話

 地元と大学を離れるにあたって、いろんなことをし納めている。例えばラーメンを食ったり、泳ぎに行って温泉につかったり、ラーメンを食ったり、意味もなく渡し船に乗って大正区へと渡ったり、ラーメン食ったり。半分くらいはラーメンの食べ納めだった。
 それと、これ以上ないくらい頻繁に飲みに行っている。地元の、高校の、大学の友達と、この一か月半で何度顔を合わせただろうか。そんなに遊びに行ったというのに、遠く離れる僕にまともな激励の言葉をくれたやつがどれほどいただろうか。基本的に僕の扱いはみんな悪い。まったく、実際に僕がいなくなってから存分に寂しさを噛み締めるといい。
 とは言え、僕の転居に一番実感が持てていないのは恐らく僕自身だ。社会人になるとはどういうことなのか、親元を離れるとはどういうことなのか、この期に及んで僕はこれっぽっちも見当がついていない。どちらも初めての体験だから、うまく想像できないのだ。
 修了式の前に、少しキャンパスを歩いた。それなりの期間を通い続けたこの場所とももうお別れなのだと、そう頭の中で何度繰り返しても「切なさ」や「名残惜しさ」はちっとも湧いてはこなかった。多分、実際に離れて何年か経って、何かの用事で戻ってきて、以前僕が通っていた時のキャンパスとはどこか違ってしまっていることに気付いてから、僕はようやく「名残惜しさ」を感じるのだろう。想像力がどうにもまだ足りないみたいだ。

 「3.11とSFの関係性」について書かれた本を読んでいる。全ては噛み砕けないながらも、知識人たちの言葉を借りながらどうにか自分でも小難しいことを考えようとしてみる。人間と科学と自然災害。個と全体。シンパシー(共感する″状態”)とエンパシー(共感する″能力”)。そしてフィクションと現実。
 あの日、僕はとあるバイトに初出勤だった。発生当時は地下鉄に乗っていたから、揺れになんて全く気付かなかった。バイト先では上司がラジオで災害の近況を聞いていて「大変なことになってるよ」と教えてくれた。それを聞いてさえも僕はそんなに気にもせず、ちょっとした大きな地震(というのも変な言い方だが)なんだと気楽に考えていた。
 自宅に帰ってから、はじめて映像として震災の情報を得た。「大変なことになってるなあ」と思ったが、それだけだった。燃え盛る気仙沼を映したテレビを見て、正直に言おう、少しワクワクしてさえもいた。この感覚を、僕は忘れてはならないのだと思う。あの当時、大震災は僕にとって他人事であり、映画のド派手なアクションシーンと僕の中では何ら変わるものではなかった。僕と被災地は完全に断絶されていたのだ。
 後になってから節電や原発問題、風評被害などが舞い込んできて、間接的に、情報的に被災したかのような気分になっていたけれど、それは錯覚にすぎない。僕は徹頭徹尾被災者と被災地の外側にいた。津波被害を受けた人たちを、プレハブの住宅地で過ごす人たちを、被災地にボランティアとして向かう人たちを、僕は画面を通してしか見なかった。僕は現実を、まるでフィクションのように捉えていた

「頑張ろう、日本」

 震災後に生まれたこのキャッチコピーには、日本国民を一体化させるような、ナショナリズムに向かわせるような意図が見える。(この辺ちゃんと本から引用したかったけれど、どこに書いてあったのか分からなくなってしまった) しかし、現実問題として僕のような外側にいた人間と、実際に震災を被った人間の間にはいかんともしがたい、深い断絶がある。その断絶を飛び越えるために必要なもの、それは想像力に他ならない。
 同じ境遇にある人をみて「わかる」と言うこと、それがシンパシー(共感する”状態”)である。しかし、それでは足りないのだ。僕は被災者とかけ離れた境遇に身を置いているために「わかる」ことができない。そこでより進んだ能力が必要になる。かけ離れた境遇を想像し、理解し、一体化して寄り添うことのできる、より能動的な能力。これがエンパシーと呼ばれるものだ。僕に必要なのは、この力だったのだ。
 無論、気持ちの上で寄り添えたところで、依然として僕は震災の外側に突っ立ったままである。例えば僕が実際にできたことなど、ちょっとした寄付と節電くらいのものだった。外側に立つものにできるのはそういった無責任な支援と応援だけだ。それでも出来る限り震災の内側を想像して、思いやり寄り添い、自分が無責任であることを理解しながらも、無責任なりに震災のことを考えなければならない。想像力だけが震災により生まれた断絶を飛び越えて、「ニッポン」を形作る。それが震災を他人事のままで終わらせないための方法なのだと、僕は思う。