喉が枯れた話

 喉が枯れた。慣れないところに来ると僕の喉はたちどころにやられる。ガラガラヘビすら裸足で逃げ出さんばかりのガラガラっぷりである。引っ越してきた初日は部屋の外のベランダに立ち、真下を走る線路と遠くに数本立ち昇る工場の煙を見ながら「ふむ、なかなか悪くはないところだ」などと鷹揚に頷いたりしていたがもはやそんな場合ではない。喉枯れを何とかしない限り僕に安息は訪れない。工場の煙突から吹き上げる白い煙、あれは僕と喉枯れとの開戦を告げる狼煙だ。歴史に残る一戦が今幕を上げる。

 「喉が枯れるのならば、それは空気が乾燥しているのであるから、湿度を上げればよいのだ」という極めてロジカルな思考の下、インスタントコーヒーを淹れるために購入した電気ケトルの蓋を開け、ひたすら湯を沸かさせ続けている。電気ケトルから上がる湯気は工場の煙と比べて非常に薄く、頼りない。しかしこの湯気が僕の喉枯れを討ち取ってくれるのであろうと思うと非常に心強いもののように見えてくるのだから不思議だ。そう考えつつ電気ケトルをじっと見つめていると、湯の沸騰に合わせて小刻みに身体を揺するその様が「私は加湿器じゃないのに……」と泣いているように見えてきた。無論その訴えは無視する。役目のために用があるのではなく、用があるから役目が出来る。今君に求められているのはコーヒーを沸かすことではなく、部屋の湿度を上げることなのだ。社会の人事は非情である。

 さて、そうやってゴポゴポ泣き声を上げる電気ケトルを尻目に、朝風呂を浴びて飯を食べ、荷物の整理をしていたら段ボールの片隅からカイゲンの喉スプレーが出土した。おもむろに蓋を開け、喉の奥に向けて一吹きする。最先端の技術の粋を集めた薬液が僕の喉に塗布される。技術の進歩万歳。かくして喉枯れは退治され、僕の新生活には安寧が訪れた。今日は家具でも買いに行こうかな、出来ればプールも探したいな。窓の外の景色を見つめながら僕は電気ケトルの蓋を閉め、インスタントコーヒーを淹れた。本来の役割を果たす電気ケトルのその姿は、僕と同じようにどこか安らいでいるようにも見えた。