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健全な話

 ミドルネームとして「クリーン」がついた。同期の間で、僕はそういうことになった。あまりにも清廉潔白すぎるためである。主にギャンブル関係と、異性関係の辺りが。
 そんなクリーン・鰐人、名に恥じぬ行動を取ろうと思い仕事終わりに十五分ほど歩いて近所の温水プールまで向かった。泳ぐためである。帰路へと着く前にひと泳ぎ、昔思い描いた最高に健全な社会人生活だ。このような暮らしの何よりの利点は、まるで自分が素晴らしく生産的で文化的な人間であるかのように思いこめることである。最高に気分がいい。たどたどしい電話応対もただポケッと口を開けて話を聞いているだけだった会議も記憶の遥か遠く、気分だけなら今僕は村上春樹の小説にも登場することすらできそうだ。ついでにウィスキーでも飲んで更に自分の格を上げんと試みる。ジャックダニエル。僕が飲むならそれはもはやジャック・クリーン・ダニエル。つまみになりそうなのは近所のコンビニで安売りしていた森永ダースくらいしかなく、残念ながら僕の格はここらあたりがストップ高みたいだ。

 健全な僕はニキビに悩むお年頃なので「アクネ・ケア」と声高々に謳う洗顔フォームや男性用化粧水を利用しているのだけれど、これがまあちっとも効かない。僕の肌はさっぱりさらさらになる様子を一切見せず、相変わらずのニキビ面である。もしかすると僕のこれは、アクネ菌のせいではないのかもしれない。そうだとすると、僕はこれまでどれほどのアクネ菌を無益に殺害してきたのだろうか。なんたることだ。僕の両手はアクネ菌の血で汚れている。その罪の意識に僕は挫けてしまいそうになる。しかし、僕はこの両の脚を屈しはしない。ここで僕が立ち止まることは、今まで犠牲になってきた何万何億というアクネ菌の遺志を無為にしてしまうことと同じなのだ。僕には彼らを背負う義務がある。彼らの分まで僕は生き続けよう。そしていつか僕が土に還ったその時は、墓標に刻んでほしい。僕のそれに加えて、アクネ菌の名を。

 

 ついでの話だ。プールでの話。
 僕が水着に着替えようと更衣室を入ったのは子供の水泳教室が終了したタイミングとちょうど重なっていたらしく、小学生くらいの子供たちで更衣室内はごった返していた。少年たちはゴム付きのタオルを巻き、楽しそうに友人たちと喋りながら着替えていた。混雑した更衣室は塩素とカビが混ざったような、あの特有の蒸れた匂いがした。
 その匂いを嗅いで、僕はなんだか泣きそうになった。
 懐かしさというよりも、疎外感なのだと思う。もう自分があの匂いの中心に立つことがないと、まざまざと思い知らされたような気分になったのだ。
 小学生を終えてから何年が経つ? 当時のことなどもはや何も鮮明には覚えていない。それでも、かつてはあの少年たちと同じように楽しく笑っていたことを僕は何となく思い出した。それと同時に、一人で着替えてプールに向かうしかない自分がどうしようもなくつまらない存在になってしまったように、あの瞬間の僕には思えた。