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「手を繋ぐ」

お話

 手が生えてきた。人間の手である。誰のものとも知れぬ右手が、部屋の片隅から生えてきた。
 非は確かに俺にある。ジメジメしたこの季節に部屋の換気を怠って部屋の隅にひと月分の衣類の山を築き上げていたのだから、その下から何か生えてきくるのは想定されて必然だ。しかし生えるとしても常識的に考えればそれは精々カビかキノコ程度のものであるべきであり、通常、人間の手は壁と床の境目から生えてくるものではない。
 俺は両手いっぱいにカビ臭い洗濯物を抱えたまま、手首から先しか存在しないそれをしげしげ眺めた。衣類の山による重圧から解放された右手は外気を味わうかのように、プルプルとその身を震わせていた。動いているということは、この右手はやはり生きているのだろうか。しかし生きていても動かないものは数多く、生きていなくとも動くものもまた多い。海に佇むサンゴしかり、ぜんまいの巻かれた時計しかり。
 とりあえず俺は洗面所に行き、衣類を洗濯機の中に無理やり押し込んで液体洗剤を投入し、スイッチを入れた。洗濯機はけたたましく軋み、久しぶりにその役目を果たし出した。それを横目に俺は散らかった洗面所からハンドタオルを見つけ出して、水で少し湿らせた。それから右手の待つ部屋へと戻った。
 部屋の片隅には相変わらずあの手があった。どうやら見間違いではなかったらしい。先ほどと違って右手は動く様子は見せず、指を中途半端に曲げた状態で床に転がっていた。どことなく疲れているように見えた。疲れているとすれば、それは間違いなく今まで衣類に埋まっていたせいだろう。俺がこの右手のように衣類に埋まっていたとしたら、きっとうんざりしているだろうから。
 暫く、俺は右手をジッと観察していた。洗濯機が回る音と雨が地面を打つ音がやたらと耳についた。右手は未だにジッとしたままで、動かなければそれはただの出来のいい模型のように見えた。ただ俺に右手の模型を買った覚えは一切なく、どう考えてもこの右手は部屋の片隅から自然に発生したものとしか思えなかった。
 俺はしゃがみこんで恐る恐る手を伸ばし、横たわるその右手に触れた。右手はびくりと身じろぎし、ギュッと拳を握りしめて、俺の指から逃れるように壁のほうへと身を寄せた。その様子は怯えて物陰に隠れる猫を連想させた。
「大丈夫」と俺は声をかけた。語り掛けたところで五感のうち触覚しか持たないこの右手に僕の声が届くはずもない。当然僕の思いが右手に通じることはなく、相も変わらず右手は怯えて縮こまっている。
 俺は更に手を伸ばし、もう一度右手に触れた。右手はもう一度身じろぎするが、これ以上右手に逃れる場所はない。手首から先しか存在しない上に壁に固定されているのだから移動の自由度はないに等しい。結局、諦めて捕まるしかこの右手に選択肢はないのだ。それでも右手は拒絶の意志を示すかのように固く拳を握りしめていた。
 改めて右手を眺めると、その指がすらりと細いことに気が付いた。どちらかというと女性のもののように思える。生殖器も持たないただの右手に性別が必要なのかという疑問はさておいて。
 しかし、白魚のようなと例えるには、右手はあまりにも薄汚れすぎていた。手にも爪にもなにやら黒いものがこびりついており、至る所がガサガサと荒れている。いつ生えてきたのかはわからないが、おそらくそう最近の話ではない。随分と長く衣類に埋まったままだったのだろう。
 俺は先ほど湿らせたタオルで右手を包み、出来るだけ優しく拭き始めた。初め右手は暴れたが、数分も経たないうちに大人しくされるがままになった。手首を左右に揺するか指を曲げたり伸ばしたりするだけでは、ろくな抵抗にはなりえないことを悟ったようだった。
 指の間まで拭き終えたところで、タオルを退けた。右手は自分の無事を確かめるように何度も指を曲げ伸ばししていた。簡単に拭ってやっただけでも、右手は幾分かその清潔さを取り戻したように思えた。しかし、手自体が綺麗になると今度は爪の間に詰まってしまった黒い汚れが気になってくる。乱雑に伸びた爪も出来れば切ってやりたいし、手の荒れもケアした方が良いに違いない。女性の手は美しくあるべきだ。
 お疲れ、という気持ちを込めて俺は右手の甲を優しく叩いた。右手はまたビクリと縮こまった。
 俺は立ち上がり、身支度を整えてアパートを出た。久しぶりの外は曇り空越しでも眩しく、少し眩暈がした。ポケットに突っ込んだ財布の重みを確認し、それから俺は歩き出した。
 最寄りのドラッグストアで、俺はハンドソープとハンドクリームを買った。

 

 部屋に突然誰かの手が生えてきたとして、いったいどうするのが最も正しい反応なのだろうか?
 右手。それ自体は別に珍しいものではない。街を歩けば必ず誰かの右手が目に入る。だが明らかにこの右手はそういったありきたりな右手とは一線を画していて、それはつまりこの右手が右手単体で存在するという点だ。
 通常、人間の右手にはその持ち主がいる。手は人間の身体の一部分であり、人間の身体の一部分である以上、手は必ず人間の身体に付随する。右手がもしその持ち主と切り離されてしまった場合、右手は死ぬ。持ち主が生き延びていようがいまいが関係なく。血液の循環は止まり、神経には信号が届かなくなり、右手からは命が失われることになる。床に転がった人間の右手は何か猟奇的な、あるいは心霊的な匂いを見る者に感じさせる。
 だから、俺はきっと悲鳴を上げるべきだったのだろう。それが正しい反応だったに違いない。しかし、長らく引きこもりがちだった俺は、そのような生き生きとした反応を示すだけの元気を持ち合わせていなかった。部屋の中で淀んだ空気ばかりを吸っていると心の中まで淀んでくる。高いところで澄んだ空気と共に暮らしている人たちが羨ましい。彼らは多分心の中まで澄んでいるのだと思う。
 ともかく、そうやって無感動に俺はあの右手と出会った。猟奇的で心霊的なはずのこの右手は、冷静に見ると別に怖くもなんともなかった。だって、明らかにこいつは生きている。生きているのならそこに恐れるべきものは何も存在せず、微かに動くその様子はまるで野良猫のようで、そう認識すると途端に右手は守ってやらなくちゃならないか弱い小動物のようにしか見えなくなった。
 俺の生活に新しい習慣が追加された。朝食の後と夕食の後。この二回、右手の世話をする。濡らしたタオルを軽く電子レンジで温めて蒸しタオルのようにし、右手を優しく拭く。晩には加えてハンドソープで念入りに洗ってやる。その後はハンドクリームを全体にまんべんなく塗布する。
 三日もすると、右手もこの作業に慣れてきたようだった。蒸しタオルによるマッサージは心地良いようだった。無論、この右手が「心地良い」と言ったわけではない。あくまで俺の想像にすぎない。しかしこの日課が終わった後に、床に敷いた毛布の上でグッと指を大きく伸ばしている様子を見ると、それはやっぱり、まるで欠伸をする猫みたいに見えた。
 そのうち爪も切らせてもらえるようになった。最初のほうは指を掴むと暴れて抵抗したのだが、次第にそれもなくなった。どんどん俺に慣れてきたらしい。俺は巻き爪気味に伸びていた右手の爪を丁寧に切り、やすりで形を整えてやった。右手は綺麗になった爪をこちらに見せつけるように指を揃えてピンと伸ばし、前後に数回振った。
 どういう風にかは分からないが、こいつは自分の様子を視覚的に把握している節があった。綺麗になると喜ぶ。経験的に、俺はそれをなんとなく理解していた。
 他人の爪を切るのなんて初めてだな、と俺は思った。こんなに喜んでもらえるなら、他人の爪を切るのも悪くない、とも思った。
 右手は水々しさを取り戻した。日に当たらない場所に生えたこの右手は白く艶やかで、肌を軽く撫でると、まるで極上の絹に触れているかのような感触を俺の指に残していった。美しい手だった。美しいだけではなく、その動きにはどことなく愛嬌があり、どれほど見ても見飽きることがなかった。
 素晴らしいオブジェとペットの両方を一度に手に入れたような気分だった。この美しい右手を知っているのは世界で俺しかいない。この事実は、随分と俺を愉快にしてくれた。恐らく他の人の部屋には右手など生えていないだろうし、たとえ生えていたとしても、この右手ほど美しいことはまずあるまい。俺はそう確信を持っていた。
 俺はコンビニでアルバイトを始めた。勿論、右手のためだ。何もせずにぼんやりと暮らすだけなら親からの仕送りだけでも事足りる。しかし、右手のことを考えれば話は別だ。あの美しい右手をより美しくするためには、金が要る。金を手に入れるためには働かなくてはならない。
 生活リズムは改善され、大学にも出席できるようになった。かつてはキャンパスに行くこと自体が大変な苦痛だった。あそこには俺と関係のない人が多すぎる。その事実は俺の孤独を浮き彫りにする。しかし、今ではどうとも思わない。俺には右手がいるし、それにちゃんと大学を卒業し、就職する必要が生まれたのだ。これも勿論、右手のために。

 
 アルバイトを始めてからひと月が経った。初めての給料を財布に入れ、俺は街に出た。慣れない百貨店の一階で、しどろもどろになって店員相手に恥を掻きながらも、俺は真剣に考えた。あの右手にはどんな色が似合うだろうか。恐らく、主張しすぎるものは良くないだろう。あの右手がもともと持つ美しさを損ねてしまう。長い間悩んだ末に、俺はシンプルな革のブレスレットを購入した。昼頃には来たはずが、帰る頃には空が赤くなり始めていた。
 部屋に戻ってすぐ、俺は右手のもとへと向かった。鞄からさっき買ったばかりのブレスレットを取り出し、右手に着けてやった。右手は嬉しそうだった。手首についたブレスレットの感触を味わうように、軽く握った拳を何度も左右に揺らしていた。俺はその様子を、右手のすぐ前でじっと眺めていた。贈り物が気に入ってもらえた喜びで、口角が上がるのを抑えることができなかった。
 不意に右手はその身を揺するのを止めた。それから、全身を俺に向けてグっと伸ばした。その動きの意味するところが分からず途方に暮れていると、右手は指を、空気を仰ぐように何度も上下に動かした。
 これならわかる。「こっちに来て」だ。
 俺は右手を伸ばした。壁から生えた右手は、俺の右手をそっと掴んだ。ぎこちない握手だった。右手はとても柔らかくて暖かく、俺は自分の手が汗ばんでいないか急に気になった。右手は何度か軽く、手を上下に揺すった。おそらく、と俺は考えた。これの意味するところは、きっと「ありがとう」だろう。
 その体勢のまま、しばらく時間が経った。空腹と、腰に少しばかりの痛みを感じ始め、俺は手を離した。右手はゆっくり床に横たわった。俺の印象が正しいのなら、それは「寂しい」という感情の表れだった。
 俺は台所から買いだめしてあった菓子パンを適当に取り、それを持って部屋の隅に戻った。今度は右手の前ではなく、右手の隣の壁にもたれるようにして座った。これで姿勢はだいぶ楽になった。
 俺は左手で、右手を握った。右手も俺の左手を握り返した。俺は自分の右手で掴んでいる菓子パンをもそもそ齧った。
 その日は、そのまま眠りに就いた。壁から生えた右手と、俺の左手を繋いだまま。

 

 正直なところ、今まで俺はよく分かっていなかったのだ。
 どうして他の人たちが、平気で生活していられるのか。
 かつての俺は毎日が不安で仕方がなかった。生活、それ自体が薄氷を履むが如きものに感じられていた。金が無くなれば死ぬ、車に当たれば死ぬ、高いところから落ちれば死ぬ、何もしなくても死ぬ。なんで俺はまだ生きていられるんだろうか。なんで皆はまだ生きていられることを不思議に思いもしないんだろうか。そんなことを、俺は本気で考えていたのだ。
 右手と出会って以降、俺は変わった。ただ適当にぼんやりとやり過ごすだけのものだった人生に、確かな目的を見出した。右手の世話をし、右手を着飾らせ、そして空いた時間は右手と手を繋いで過ごす。これが俺の幸せなのだ。すると、かつての悩みが馬鹿らしいものにしか感じられなくなった。薄氷の如きだった生活に確固とした道が生まれ、俺はその上を口笛を吹きながら歩くことができるようになった。
 おそらく、誰も彼もが俺のこの右手に類するような何かを、少なからず持っているのだろう。どうやって見つけたのかは知らないが、人生の根幹になりうる何かを。だから皆、何でもないことのように日々を過ごすことができるのだ。
 アルバイトは続いている。我が家にあるブレスレットコレクションは10を超した。先月はマニキュアを買ってみたが、色が気に入らなかったらしく、右手の反応は芳しくなかった。今月は違うものでリベンジしなければならない。
 バイト先の先輩や同僚から、たまに飲み会に誘われる。俺はすべて断っている。バイクを買う資金を貯めたいから、というのが建前の理由で、本音を言うならもちろん右手のために使う金を減らしたくないからだ。部屋に生えた右手のために使う金を減らしたくないから、などとそんな酔狂なことを言ってしまわないだけの分別を俺は持ち合わせている。
 「つまらないやつだな」と言われることがある。「酒も飲まない遊びもしない、何が楽しくて生きてんだ」
 何を言われようが構うものか。
 俺にとって、この右手と手を繋いで過ごす時間以上に大切なものなど、他にないのだ。