俺の話

 身体を売ってきた。身体といっても400mlの血液で、売ったといっても対価はアクエリアスとアタックの小袋三つ分だった。痛みを我慢するには安すぎると思うべきか。あるいは、いつもただ漫然と身体を流れているだけのこいつに値段が付くだけありがたいと思うべきか。

 たとえばこんな話。俺の血液はどこまで俺なのか。俺の身体を流れてるんだから結構俺だと言っても良さそうだけれども、しかしビニール袋に包まれた赤いそれはあんまり俺には見えなかった。俺はそんなに赤くはないし、そもそも液体なんかではない。そのため血液に値段が付いたとしてもそれは俺に値段が付いたわけではなく、値段の付かなかった俺はけっこう残念な気持ちになる。

 俺と俺じゃない奴がいたとして、俺と俺じゃない奴の血液をそっくりそのまま入れ替える。この場合俺は俺でなくなるのでは、とそういった向きには俺はそれなりに懐疑的だ。俺の身体のどこかに俺が宿っているとして、それは間違いなく血液ではない。特に白血球、あいつが俺だという思いは全くしない。奴は菌を悪性菌を食うが、俺は悪性菌を食わないからだ。俺の食う菌はせいぜいシイタケくらいのものであり、そして白血球はシイタケを食わず、やはり俺は白血球には宿っていないだろう。

 俺が二人に増殖する能力をなんとかして獲得してみる。俺はもう一人増えた俺を見て、こいつも俺だ、俺そのものだと思うだろうか。それにも俺はやはり懐疑的である。俺がもう一人増えた俺を見ている時点で、今もう一人増えた俺を見ている俺が俺だ。俺は明確に増えた方を区別しており、となると新しく増えた俺のことは俺2と名付けるべきだ。

 俺は俺2を生み出したところで、きっとこれ以上俺3や俺4を作り出す気分じゃなくなると思う。彼らが俺でないことを俺は分かっているとしても、他人から見れば俺2や俺3、俺4は俺にそっくりなのだ。俺に似ている人間が増えるのは、あまり喜ばしいことではない。人違いというものは嬉しい体験ではないからだ。

 ただ、俺が俺3や俺4を生み出さないとしても、俺2は俺3を生み出すかもしれない。俺2が何を考えようが、俺とは関係がないからだ。もしかすると俺2と俺3に増えた俺2はさらに俺4俺5を生み出し、そのうえ俺2俺3俺4俺5は俺6俺7俺8俺9俺10俺11俺12俺13を生み出すかもしれない。

 俺2~13はさらに増えようとする。俺は彼らとは関係ないからその理由は推測するしかないが、もしかしたらなにか良からぬ考えを抱いたのではないだろうか。このペースで行けば俺がどれほど増えるのか、数学Ⅰが得意だった俺の頭を真似している彼らには容易く計算することができる。

 俺100,000が生まれたあたりでそろそろ日本国も彼らのことを無視できなくなってくる。彼らがまともな労働力になるならまだしも、俺のコピーだ。おそらく彼らは部屋でくつろぐことを好む。ただ資源や食料を消費するだけの怠け者が際限なく増えるのだ。

 日本国は、いや世界はこれを人類存亡の危機だと捉え、やたらと増えた彼らを虐殺しようとする。彼らを殺すのに道徳的な問題はあまり関係がない。簡単に二人に増殖できる人間がいたとして、多分そいつは人間ではない。これは新たな種による、人類の侵略なのだ。自分たちの身を守るためには多少の荒事も止むを得まい。

 ところがどっこい、俺1,000,000をどうにか殺したと思ったら、その奥では俺2,000,000が生まれているし、なんなら俺2,000,000が俺4,000,000を作っていたりする。彼らに武力は一切ないが、しかしその圧倒的な数と増殖力こそが彼らの武器だ。そのうち、誰しもがこの限りのない戦争に嫌気がさす。

 この辺りで俺2以下は交渉を持ちかけるだろう。「際限なく増えるのは止めてやろう、その代わり、我らに土地と食料を寄越せ」ついに俺国の誕生だ。

 俺国は国民全体のゴキブリの如き生命力を武器に、他国を脅迫する。言うことを聞かないなら、増えるまでだ。増えた奴らは他所で暴れ、そしてどれだけ殺そうが殺された分だけ奴らは増える。厄介な生き物になってしまったものだ、俺が適当に生み出したこいつらは。

 そうやって、俺2以下はユートピアを手に入れる。ごろごろ過ごしていても勝手に食料が届けられる。夢のような国だ。俺国の国民は、平穏かつ幸せな生活を送るだろう。最初のうちは。

 この安らかな日々は、そう長くは続かないだろうことが推測される。国を国として運営するためには、国を治める人物、あるいは機関が必要だ。その制定は一筋縄ではいかないだろう。なぜなら、国民の頭のレベルがどいつもこいつも同一だからだ。

 この期に及んで俺2が生き延びていたとして、俺2はこう言う。「最古であり原初である俺が、この国の王たるに相応しい」しかしこの俺国民の中で最も若い国民、仮に俺99,999,999だとして、俺99,999,999は「俺こそが最新の俺であり、最新の俺がそれ以前の俺より優れていることは明らかなのだから、俺こそが指導者となるべきだ」などと言うことだろう。

 それ以外の国民も黙ってはいない。自己顕示欲の強い俺国民のことだから、自分が国を仕切るために精いっぱいの知恵を巡らせる。議論は紛糾する。誰の意見も同程度に優れており、そして同程度に欠陥がある。ここで国の運営に対して正しい回答を導き出すなんてことを、俺は俺国民には全く期待していない。俺国民がそこまでの智識も見識も持ち合わせていないだろうことは、俺は身に染みて分かっている。

 俺国では内戦が勃発するだろう。血で血を洗う戦争だ。俺にそっくりな人が俺にそっくりな人を殺し、そして俺にそっくりな人が俺にそっくりな人を作る。終わるわけがない。俺はテレビでその光景を見て、まるで俺が俺を殺し続けているような感覚に襲われるわけだが、でもよく考えると俺国民は俺2以下であり俺は俺国民ではないため俺国内戦は俺に関係がなく、俺はテレビを消して寝る。

 これは無益な戦争だ、と俺国民が気付くにはある程度の期間を要すると思われる。戦争にある程度勝ち、そして同じくらい負けるのならば、俺国民は「なんとかなるんじゃないか」と思ってしまうだろう。内戦の無益さに俺国民が気付く頃には俺国民はけっこう減っているんじゃないかと思う。その頃になってくると、いちいち増殖するのも面倒くさくなってしまっている気がするからだ。

 俺国民は反省する。反省することは俺の長所の一つであると思っているので、俺国民も同じく反省してくれるだろう。俺国などというものを実現するために、どれほど多くのものを殺し、傷つけ、壊してきたのか。俺国民は猛省し、二度と同じ過ちを繰り返すまいと心に固く誓うだろう。

 ではここから、俺たちはどうするべきなのだろうか? 俺国民は考える。そして俺国民に出来ることと言えば、勿論それは一つしかありえない。

 俺国民は再び増え始める。しかし、今回の増殖は以前のように示威的なものでも、戦略的なものでもない。増えるための増殖だ。増えること、それだけが俺国民たちが有する特徴であり、そして彼らだけができる唯一のことだ。自己の存在を確かめるように、彼らはただ増え続けていく。

 そのうち、彼らに余計なものはなくなっていく。増えるだけでいいのなら例えば手も足も不要であろうし、あらゆる感覚も必要ない。増えるだけでいいのだ。ありとあらゆる器官を失っていき、彼らは小さな球体に近づいていく。

 最終的に彼らは粒子になる。小さな小さな、これ以上は分かつことのできない粒子だ。粒子は増え、世界中に散らばっていく。

 この俺粒子は非常に豊富に存在し、また量産も容易であることから、工業的な利用価値を見出されることであろう。例えば俺粒子を半導体に添加するとドーパントとして良い働きをするかもしれないし、俺粒子と銅の合金である俺銅を採用した硬貨が登場するかもしれない。俺粒子は酸化すると俺Oとなり、これを焼き固めたセラミクスは優れた耐熱性を示すのかもしれない。除湿器から発生した俺イオンは殺菌効果を有するのかもしれない。

 このようにして、俺粒子は人々の生活の一部となるわけだ。例えば熱のように、電気のように、そこにあるのが当たり前の存在になる。俺粒子が無い、なんてそんな不便な時代があったことなど、俺粒子が存在する時代に生きる若者たちには想像もつかない。携帯電話のなかった時代を俺たちがうまく想像できないのと同じように。

 かつて存在した俺国のことなど、すぐに忘れ去られてしまうだろう。俺国民のような迷惑な奴らなんて、誰も覚えていたくはないからだ。でもきっと、粒子と化した旧俺国民たちはそれを寂しいとは思わない。自分たちの存在を誰も知らなくとも、自分たちが誰かの役には立てている、その事実だけで俺国民たちは結構幸せなのに違いない。

 しかし以上のことは、やっぱり俺とは関係のないことだ。勝手に増殖し、勝手に粒子と化していった俺2以下は、どいつもこいつも俺ではない。今布団に寝転がってバナナをもさもさ食っている、この俺だけが俺なのだから。