「登る」

 富士山を見て「うわぁ、高い!」と、エベレストを見て「うわぁ、もっと高い!」と、そうやって無邪気にはしゃいでいるうちはまだよかったはずなのに、そこをどうトチ狂ったのか「じゃあ富士山とエベレストの両方をマリアナ海溝に突っ込んだら丁度いい感じになるね」と誰かが思いついてしまったのが運の尽き。

 もちろんこれは比喩であり、しかし比喩でなくてもいいのだと思う。問答無用で高かっただけの場所は問答無用で低かっただけの場所と無理矢理に対消滅させられて、ただ平坦なだけの場所になったわけだ。

 水平線まで綺麗に見渡せるこの景色には、人間がびっしり並んでいる。ただそれだけの面白みのない風景だ。水平線の向こうにまで人間が並んでいるかどうか確認したいからかなのかはよく分からないが、とりあえずみんな高いところに登りたがる。

 冗談じゃないよ、と俺は良く思う。

 出発点が綺麗さっぱり均されてしまったら、自分がどれだけ低くまでしか登れないのかはっきりわかっちまうだろうが。

 そうは言ってもとりあえず登ってみるしか思いつく手段はなく、遅ればせながら俺も必死にしがみ付く。足元を見ると登ろうともせずに地面で何か穴を掘っているやつがおり、周りのやつらとせせら笑ってつばと小便をひっかけたりするのだけれど、そのつばと小便を肥料にして大きな大きな豆の木が育つ。俺たちはその豆の木に慌てて乗り移り、豆の木を育てた当の本人は目下で満足げに腕を組んでおり、妙に負けた気分になる。

 どうにかこうにか雲の上までたどり着いたとして、待っているのは荒らされ終った巨人の家と満身創痍の巨人夫婦だ。「なあ、」と巨人の夫が口を開く。「お前らがやりたかったのって、こんなことか?」隣で巨人の妻は身動ぎもしない。

 知ったこっちゃねえよ、と俺は言う。俺だって楽しくてやってるわけじゃねえよ。

「じゃあ何で」「さあ、忘れた」

 俺は雲の端まで歩いていく。飛び降りる勇気は勿論ないから、ポケットにたまたま入っていた紙くずを丸めて放り投げ、落ちていく様子を眺める。重力加速度に支配されて落下するだけのそれが妙に自由に見えて少し悔しくなる。

 宝の山はどこにもなく、仏による救済もまるで望めない。雲はマシュマロなんかではなくただの水分の塊で、ゴール地点は未だ見えない。

 行こうかと俺は呟いて、うるせえと返事が聞こえる。聞き覚えがあると思ったらそれは勿論自分の声で、俺はそれを無視する。

 ポケットに突っ込んだ両手を強く握りしめる。右手が何も掴めないことに不安を覚え、そういえばさっき放り投げた紙くずは結構大切なものだったんじゃないかと気付くがもうどうしようもない。

 俺は諦めて空を見上げる。

 行こうか。

 うるせえ。