砂や岩を見た話

 友人二人と旅行に行ってきた。砂に登ったり穴に入ったりしたのがおよそ3割、車の運転が5割を占め、残りの2割は宿で酒を飲んでいた。
 道の駅で買ったそれなりに良い大吟醸をうめえうめえと言いながら飲み、飲み足りないと宿一階の自販機で買い足した第三のビールを空けたらこいつもやっぱりうまかったのでうめえうめえと言いながら飲んだ。旅行先で飲み食いするものは全てうまいと思っている、俺たちの舌はかなり頭が悪い。

 砂丘、カルスト台地、鍾乳洞。
 中国地方をレンタカーでひたすら移動しながらこれらを掻い摘むように観光していった。どいつもこいつも広い。広いということはそれだけで妙な魅力を携えており、暇を持て余した観光客が集まるのも納得できる。俺もできたら魅力ある人間になりたいのだが、どうあがいても2.4km×16kmの敷地面積を獲得するのは俺には無理なので、砂丘の魅力は俺の参考に一切ならない。
 あと納車後一か月経たないうちに車を思いっきり凹めたことで有名な僕ですが、今回はどこにもぶつけませんでした。成長した。ただ車を凹めてメチャクチャ落ち込んだ時に書いたものが今までで一番ウケたことから推測するに、この記事はきっと面白いものにはなりえない。

(これだよ)
(読んでくださったり、RTなどしてくださった皆さま、ありがとうございました)

 

 話を戻す。

 こういった雄大な自然を前にするとだいたいの人間は無条件に圧倒されてしまうもので、それは観光パンフレットにありがちな煽り文句では「大地の歴史」とかいうやつで、要するに悠久に近い時間をかけてゆっくりゆっくり形成された自然の前では、一瞬に近い命しか持たない俺たち人間はもはや沈黙するしかないらしい。かつてはサンゴ礁だった石灰岩が点在する広大な台地しかり、雨水が岩を溶かして生まれた鍾乳洞しかり、延々と続く砂場とようやく建造されたスタバしかり(これは砂場とスタバをかけたギャグです)。
 鍾乳洞に侵入してあちらこちらを眺めていると、ぶら下がる鍾乳石やら聳え立つ石筍やら皿のような形をした段差やら、自然が作り上げた不思議なモニュメントが数えきれないほどあった。このようなものが自ずから生まれるのは非常に興味深いものであるなあ、と腕を組んで俺は感心していた。

 さて、ここからは蛇足になるのだけれど、例えば大きな岩山を用意する。その岩山を重機をフル活用して掘削し、今ある鍾乳洞とまったく同じ鍾乳洞を作成する。どこまでが全く同じなのかは難しいところだが、材質から立地から全てが同じであるとするとそれはもはや元の鍾乳洞と同じものとしか言いようがなくなるため、形状と、あとはせいぜい生物の生息状況と空気と水の状態・流れくらいが同じであると考えてみる。
 この場合、オリジナル鍾乳洞と人口鍾乳洞になんの予備知識も無い人が立ち入ったとして、何か感じるものに違いが生まれるだろうか?
 結果は知らない。予想することもできない。ただ、もし違いがあるのだとすれば、そこの部分に「大地の歴史」とやらが存在するのだろうなあ、と俺は思う。
 とかまあ、そんなことを考えてみたりしたけれど、読み返してみると本当に意味のない屁理屈だ。何も得られるものがない。

 

 俺は自然を見るのが好きだ。
 自然には作為がない。それが生まれた理屈はあってもそれが生まれた理由はなく、自然を前にしてそこから何かを読み取ろうとする試みは基本的にすべて過ちに終わる。何もない部分に何かを見出せるはずもなく、ただそこにある自然を目にして俺に唯一許される行動はただその自然の中にあることだ。
 だから、余計なことは何も言わない方がいいのだと思う。
 そんなことを考えてしまったため、ここまで書いてきたこの記事はほぼ全てがナンセンスとなり、上で適当に言った予言はものの見事に成就されることになった。面白くないなこれ。話の筋を考えて書かないからだ。ごめんなさい。

 というわけで、ここから旅行の日記を仕切りなおすことにしようと思う。

 

 友達と旅行に行きました。

 旅行では、鳥取砂丘秋芳洞に行ったりして、いろんなものを食べました。

 楽しかったです。