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『屍者の帝国』の話(あるいは言葉と意思と、そのついでの話)

 ”君には、僕が見えているか”

 屍者の帝国を観た。ので、感想でも書いていきたい。とりとめのない話になると思うが、同時に重要なネタバレもない話にもなると思うのでその辺はご容赦願いたい。

 

 原作未読の人には少々辛いのだろうな、とまず思った。僕もちょいと前に一気に読み飛ばしただけであるから偉そうな口は叩けないが、ハダリーの制御技術や最後のほうにでてきた緑のアレやら青いナニやらについてはかなり説明不足な部分が大きいように思う。ザ・ワンが求めるものについても最後のほうで本人が口走るまではなんの説明もなかったんじゃなかろうか? 世界中の人々を巻き込んだあの大がかりな陰謀は、結局はザ・ワンが「それ」を欲しがっただけだった、という点が僕としてはあの物語の要点になりうる部分だと考えているので、その省略に関して少し残念だ。

 また、後半は物語の主導権が行ったり来たりで、それはよく考えたら原作もそもそも同じことだし、そもそも主人公がかなり物語に流されている部分が大きいので、今何を目指して何が起こっているのか掴みづらいのはもう仕方がないことなのかもしれない。

 原作からの改変部分に関しては、まあ、あんなもんじゃないかと思う。あのお話を良くも二時間できちんとまとめたとむしろ感心した。特にハダリーについてはなるほどと膝を叩いた。確かに、あの方がかなりわかりやすい。

 省略が多かったのも同様に仕方がない。ただ、やはり何点か好きな部分や大事だと思う部分が削られていたのは少し残念だった。例えばパンチカード上のヴィクターの手記の暗号(およびそれを取り込んだフライデーへの影響)や、菌株の下りや、以下のやりとりとか。

「あんたは、生命はなんだと思う?」
「性行為で感染する致死性の病」

 

 さて、最も大きな変更点と言えばワトソンとフライデーの関係性(単なる従者から元親友へ)だが、これは映画化に当たってはかなり良い改変だったんじゃないかと思う。ただでさえ流されている感の強かった主人公に、一貫した目的があるように見えた。

 この改変に付随して「ワトソンとフライデーの友情」があたかも最も大きなテーマと見えるようになり、いわゆるSF的な要素が原作よりかなり薄れてしまったが、それも取っつきやすさの向上という意味では大きな改善点であるとすら思える。伊藤計劃作品については「技術による社会変革」を追求したSFであるから凄いのだという訳ではなく、そういった要素をエンタメに引きずり下ろしたという点が大きく評価されているポイントである(と、僕は思っている)。要するに円城塔のあのいつもの「わけのわからなさ」、僕はそれを結構愛しているのだけれど、それが薄れた分だけ「伊藤計劃が書いたであろう”屍者の帝国”」に映画は近付いているとすら言えるのかもしれない。

 さらにこの物語を失われたフライデー(伊藤計劃)の魂を追ったワトソン(円城塔)の物語であると捉えることもでき、まあ別にそれはなんならワトソンの言葉(伊藤計劃、あるいはその遺稿)によって動き出したフライデー(円城塔)と考えたっていいわけで、このような物語のバックグラウンドなんか映画を楽しむにあたっては蛇足もいいところなのかもしれないけれど、だけど面白さに寄与する部分ではあるし知ってて損はないのかな、なんて考えたりもする。

 

 こんな真面目なことを今書いている俺が数時間前は友人や先輩と一緒にアメリカンジョーク(っぽいだけの中身のない会話)を言い合って馬鹿笑いしてたってんだから、人間ってやつは心の中で何を考えているのか全くわかったもんじゃないぜ。なあジョージ?

 

「ええ、あああ、その、リベットの実験って知ってるかしら」
 -伊藤計劃 From the Nothing, With Love

 ここまで読み進められている変わり者の皆様におかれましてはもちろんご存じだろうけれどどうやら伊藤計劃はこのリベットの実験について多大な興味を持っていたらしく、そんなこの実験は「意識的に『手を動かそう』と思うその前に、脳は電気的活動を始めている」ということを明らかにしたものである(らしい)。要するに意識なんてものは現象に後付けされるものにすぎず、そうなると意識ってヤツはいったいなんだってんだい、この疑問が伊藤計劃の中に居座っていた大きな要素の一つであるようで、それに対して円城塔が『屍者の帝国』内で出した回答(の一つ)が「意思とは言葉だ」というものだ。

 穴がある。本当に穴はあるか? 穴とは何かがない状態のことを指し、何かがないことをあると表現することは一見不可解で、しかしその表現を可能としているのは「穴」という言葉があるからだ。

 多分こんな思考実験はそこら辺のスナック菓子程度にありふれているものだろうけれど、こういった屁理屈が大好きな僕にとっては情報が物質化した意思の塊や言葉を入力されて意思を獲得したフライデーの存在はとても魅力的なもので、そんな魅力が多量に詰め込まれた本作品はとにかくとても面白いものだった。他人に勧めると聞かれたら、多分あんまり勧めはしないと思うけれど。

 

 ついでの話になるのだけれど、僕が小説を好きな理由に無理矢理説明を付けるなら、「世界を拡張してくれるから」といった言葉になる。

 例えば、イルミネーションを見る。「わあ綺麗だなー」と思うか「発光ダイオード、すなわちpn接合させた半導体に電流を流してバンドギャップに相当するエネルギーを利用する光源が光っているなー」と思うかは人によって違い、いや後者がどれだけ理屈っぽくて嫌味な奴に思えたとしても、それでも見えている世界は間違いなくこいつのほうが広いのだ。

 発光ダイオードに関してなら小説なんて取り出さなくても教科書一冊読めば理解することができるが、しかしわざわざそんなことをする人は恐らく少ない。何故なら多くの人は発光ダイオードに対して興味を持っていないし、そもそもそこに原理があることなど想像もしていないからだ。

 人は見えるものしか見ることができない。

 そのことに気が付いていない人は、意外なほど多いように思える。

 僕は結構視野が狭い方の人間で、それをかなりみっともないと思っている。見えるものを増やすためには、つまり視界とか世界とかそういったものを拡張するためには「自分が見えていないもの」を教えてくれる存在が必要だ。僕はその役割を小説に求めているわけだ。

 「自分が見えていないもの」には二種類ある。見えているはずなのに見えていないもの。そして、ハナッから想像力の埒外に存在するもの。だから、僕はこういった要素を伝えてくれる小説を特に愛している。屍者の帝国が特に後者に類されることは言うまでもない。

 忘れてしまいそうな思い出を。見逃してしまいそうな無意味なものを。言葉にできない感覚を。空や地面や概念の向こう側を。壮大な屁理屈を。

 こいつらを僕は知らないままにしておきたくなくて、小説を読んでいる。

 

 気付いたらかなりの文字数を書いていた。3000文字近く。多分新記録だ。やったね。

 ブログの記事数も、やっとではあるが、40を超えた。なんというか、意外と頑張っていると思う。書く技術が上達しているとはちっとも思えないけれど、読んでくれる人や反響も少しずつ増えてきたりしていてとても嬉しい限りである。ありがとうございます。

 お話の方は、自惚れじゃなければ楽しみだと待ってくれている人が何人かはいらっしゃるようで、なんか書きたいなーと思っているしネタは何個かあるけれど全然面白く書ける気が今していないのでもう少し待ってください。とにかく、いずれは書く。何か書く。何になっているという気もしないけれど、僕は結構このブログの更新を楽しんでやっているので、これからもちょくちょく更新は続けていこうと思う。

 そのうち僕の言葉を入力され続けたこのブログが、すっくと二本足で立ちあがって、勝手に歩き出したりするかもしれない。そしてなにかアメリカンジョークっぽいだけの中身のない会話を始めたりしたら、このブログの目をのぞき込んでやってくれ。

  多分、その目の向こうに僕がいるから。