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誰も知らない話

 ヘンリー・ダーガーを知っているかい? 世界一長い小説を書いた男性のことを。

 彼は幼いころ家族と生き別れたり、知的障碍者と見なされて施設に収容されたり、そこから逃げ出して何百キロも歩いて生まれ故郷に帰ったりして、その後教会で何十年も掃除人として働きながら、その傍ら、彼は書いた。19歳の若者が、80歳のおじいちゃんになるまで、たった一つの物語を書き続けた。天涯孤独で誰とも親しむことのなく、近所の人たちからは狂人だとすら思われていた一人の老人。その死の間際に、彼の住んでいたアパートの大家がそれを発見したという。

 全体で15,000ページ以上にわたるこの小説は、「非現実の王国で(In the Realms of the Unreal)」というタイトルを冠している。正式名称は、本当はもっと長いそうだが。

 話を聞いただけだと、ただの狂人の妄想の産物だ、と考える人もいるかもしれない。ちょいと頭の外側と内側がごちゃ混ぜになってしまった、かわいそうな人が残したただの落書き集だ、と。

 だけど、ヘンリー・ダーガーは現実と想像の区別がついていない精神異常者では、決してなかったんだと俺は思う。彼がその制作に没頭した小説のタイトルを見れば、それは一目瞭然だ。”Unreal”。彼は紙の向こうに広がる世界が現実ではないことを、もちろん理解していただろう。

 偏屈な老人は、誰にも読ませることのない物語を書き続けた。現実から目を背けるためだったのか、実現しえない理想を実現するためだったのか、彼の現実を支配する孤独を癒すためだったのか。その駆動力となったものは推し量ることしかできないが、ただ一つ断言できるのは、いかなる方法にせよ、この小説は彼を救うものであったのだろう。80歳を超えるまで生きていようと思える程度には。

 ただ自分を救うためだけに書かれた小説。おそらく、ある意味では最も純粋な小説。ヘンリー・ダーガーアウトサイダー・アートの第一人者と評されることがあって、彼は別にアーティストになろうとしたわけではないのだろうけれど、誰も読むことがなかったゆえに彼の作品がアートたりえてしまったというのはなんだか奇妙な話だ。

 「非現実の王国で」。別にこの小説を読んでみたいというわけではなく、多分読んだとして小説自体はそんなに面白くない。しかしこの小説に俺がやけに惹きつけられてしまうのは、「誰に知られることがなくても、その存在自体がなにか役割を果たしているから」なのだろうと思う。例えば山奥の送電塔や寂れた踏切みたいなもので、そしてそれは俺が最も好きなもののうちの一つだ。