帰っている話

 かつて通学に使っていた京阪電車、その始発駅である淀屋橋

 朝、大阪から京都に向かう人々は、示し合わせたように進行方向左側の座席に座る。右側の座席は南東に面しながら線路を進んでいくことになるから、朝陽が差して眩しいのだ。その光景はまるで日陰に集まる猫みたいだけど、残念ながらスーツ姿のサラリーマンやだらしなく眠る大学生は猫に例えるには愛嬌が足りない。

 

 新幹線に揺られながら、そんなことをふと思い出していた。

 

 昨晩会社のほうでトラブルがあり、夜21時に呼び出された時にはもう年末年始を諦めかけたのだが、会社に駆けつけて先輩の隣で2時間ほどわたわたしていると「お前にできることは特に何もない」と上司に言われたのですごすごと引き下がった。その後すごすごと一晩眠り、すごすごと支度を整えてすごすごと新幹線に乗り込んだ。自分が新人であることにありがたさ半分、情けなさ半分。新幹線が揺れる音も今日はなんだかすごすごとしているように感じられ、お察しの通り僕はすごすごと言いたいだけだ。

 

 窓から景色を眺めるのは好きだが大抵そのうち眠りに落ちてしまうし、プラットフォームに降りた時には見ていた景色のほとんどを忘れてしまっている。

 景色を眺めるのは難しい。これは大学生だった頃からずっと思っている。見ているようで目に入っていない細部が山ほどあり、これらを完全に把握しない限りは景色を本当に眺めたことにはならないだろう。しかし細部にばかりこだわりすぎると今度は全景が目に入らなくなり、そうこうしているうちに景色は窓の外を通り過ぎる。比喩の才能のある人ならこれを時の流れやら人との出会いなどに例えるのだろうが、生憎僕には才能がないため精々流しそうめんに例えるくらいしかできない。

 新幹線の窓から見る景色はまるで流しそうめんのようだ。掴もうとしているうちに流れ去っていくし、五分で飽きる。

 

 景色の中のどうでもいい細部というのが僕は好きで、多分これは伝わらないのだろうけれど、例えばこの前訪れた山中の公園に設えられた送電塔に、風を受けてくるくる回っているよくわからない物体がひっついていたりするのだが、まさにああいうものだ。

 僕が常に忘れないでいたいと思っているのはそういった見過ごしがちなとるに足らないものの存在だ。世の中の空白を少しずつ埋めてくれているこいつらがいなければ、世界はまるで麩菓子みたいにスカスカになってしまうんじゃないかな。

 

 新幹線はあっという間に広島を追い越して岡山に追いつこうとしている。

 大阪の実家に向かうことを僕は「帰る」と表現するが、困るのが山口の現住所に戻る方だ。前者を「帰る」と言ってしまった以上こっちは「行く」になるのかもしれないけれど、そうなると僕の部屋はいったいなんなのだ、僕の部屋は僕の居場所ではないのか。いや現在大阪のほうに僕の居場所があるのかどうかも怪しく、そもそも僕の居場所なんてものがこの世界に存在するのかと考えたところで悲しくなってきたので止めておく。とりあえず長年過ごしてきた大阪のほうに軍配が上がるとして、僕は今大阪に帰っている。

 いずれ、大阪に行って山口に帰る、と表現するのが自然になるのだろうか。

 その未来が訪れるのは当分先になりそうだが、多分その時、僕は僕の居場所を一つ失ってしまうことになるのだろう。