炊き込みご飯に失敗した土曜日の話

 

 結局、炊き込みご飯が炊き上がることはなかった。

 再度炊飯ボタンを押して一時間弱、出来上がったのは上は半生、下はべちゃべちゃの色付き米で、残念ながら到底食えたものではなかった。僕は三合分の米と炊き込みご飯の素を全てゴミ箱の中にひっくり返した。ゴミ箱の中からは炊き込みご飯に近しい香りが未だに漂ってきており、僕をどうしようもなく不安定な気持ちにさせる。

「あらゆる失敗は、起こるべくして起こるものだ」とは確か母が言った言葉だったと思う。それは失敗してしまった原因を追究して必ず改善に繋げなさい、などといった会社の上司じみた意味合いではなく、むしろ失敗してしまったことはもう割り切りなさい。その失敗がやがて何かの糧となるかもしれないのだから、といった意味合いを持っており、幼少のころから粗忽物でミスや失敗を繰り返してばかりいた僕を慰める文脈で使われていた。

 尤も、炊き込みご飯の失敗が、どのようにして僕の糧となるのかは想像もつかない。

 

 今日を振り返る。

 昨晩の酒が残していった気怠さと一緒に布団にくるまってだらだらと眠り、その後何とか体を起こしてジムに行き、適度に距離を泳いで体を温めるようなメニューをこなした。それからはお気に入りのカフェに行き、カレーとコーヒーを注文した。セットに付くサラダに紫色のキュウリのような得体のしれない野菜が入っており、僕はそれを長らく「謎野菜」と呼んでいたのだが、昨日の飲み会でこれが赤かぶというものだということを知った。正体を知ってからも赤かぶの味は買わなかった。食後のコーヒーを飲みながら、半分ほど読み残していた筒井康隆のパプリカを読んだ。

 帰り際にスーパーに寄って、晩御飯のおかずと、炊き込みご飯のもとと、平日の朝御飯となるバナナを買った。バナナは一房49円で売られていた。余りの安さに、フィリピンの経済事情が少し心配になったが、すぐに忘れた。

 帰寮して、洗濯機を回したり、ウォークマンのプレイリストを編集したり、うたたねしたりしている間に日はすっかり暮れていた。僕は炊き込みご飯の素を混ぜた米を炊飯器に投入し、村上春樹1973年のピンボールを読んだ。3号も炊き込みご飯を炊こうとしたのは、明日ジムのプールで記録会があるからで、炭水化物を多めに補給しておきたいと思ったからだ。一度炊き込みご飯の失敗が判明し、再度炊き込みに挑戦している間に、1973年のピンボールは読み終えてしまった。炊き込みご飯は先述の通り、結局のところ失敗に終わり、僕は仕方なくレトルトのご飯を温め、インスタントの味噌汁を淹れ、興味本位で買ったナマコとめかぶを混ぜてポン酢とわさびで和え、夕飯とした。レトルトのご飯は少し味気なかった。

 今日はこれから風呂に入って、安い発泡酒を飲みながら適当に眠ることになるだろう。先日の合コンで連絡先を交換したあの子からの返信はまだ来ない。僕の土曜日は大概こうして過ぎていく。

 変化があるのは、炊き込みご飯が失敗するかどうかくらいだ。