閉じられた大戸屋の扉の前で姉を思う話

 近所の大戸屋が潰れていた。

「やる気が出ない」という正当な理由で、今日の俺は残業を早々と切り上げてそそくさと帰ることにした。そそくさとしすぎた余り、社食で夕飯を取るのを忘れてしまった。そこで俺に思い浮かんだのは、そうだ、今日は大戸屋に行こう、という優れたアイデアだった。

 大戸屋。それは落ち着いた雰囲気の漂う、全国チェーンの定食屋である。素材にも調理にも、おまけに健康にもこだわった定食を楽しむことができ、しかもドリンクバーも備え付けられているのでファミレス的にも利用することができる。しかし、この地域で幅を利かせているジョイフルと比較するとやや割高なため、普段はジョイフルを、少しのんびりとくつろぎたいときに大戸屋を利用する、というのが俺の習わしだった。

 五穀米を頼んで栄養を補給しよう、ついでにのんびり文庫本でも読もう、そんな浮きたつ心を抑えながら自転車を走らせた俺の目に飛び込んできたのは真っ暗な店内と、扉に張られた張り紙の「閉店しました」という無情な文字。俺は茫然と立ち尽くし、「嘘……だろ……?」と声を漏らす。こんな昼ドラみたいな振る舞いをしたのは生まれて初めてだ。張り紙を良く読めば「当店は2月28日をもって閉店しました」とあり、3週間も大戸屋の閉店に気づかなかったことに俺は「嘘……だろ……?」と声を漏らす。早くも二回目。

 大戸屋が潰れることはないと思っていた。大戸屋は、いつでも変わらずそこにあるのだと俺は思い込んでいた。しかし、大戸屋は潰れてしまっていた。やれジョイフルが安い、ジョイフルが美味い、と俺がジョイフルジョイフルはしゃいでいる間に。胸を引き裂くような後悔の念が押し寄せる。俺は大戸屋の苦しみに気付くことができなかったんだ。

 落ち着いた、品の良い雰囲気の漂う大戸屋は、俺にとっては理知的でしっかり者の姉のような存在だった。それと比較するならば、ジョイフルは無邪気で明るく屈託のない妹であると言える。一緒にいると楽しいけれど、少し頼りなくて目を離せない妹。最高のメニューだったタコの唐揚げをいつの間にかゴボウの唐揚げに変えてしまった妹。そんな妹と比べれば、お姉ちゃんは非の打ちどころがなくて完璧で、俺がたまに思い出すようにしか会いに行かなくっても、いつだって静かな微笑みで歓迎してくれた。そんなお姉ちゃんだから、俺なんかが気にかけなくたって、きっと大丈夫なんだと思い込んでしまったんだ。その微笑の下で、どんな苦悩と葛藤が渦巻いているかなんて気付きもせず。みなさんお気づきでしょうが、ここで俺はもう大戸屋のことを完全にお姉ちゃんであると思い込んでいます。

 閉じられた大戸屋の扉は、社会に出てしばらく経ってから突然会社を辞め、ひきこもるようになってしまった姉の部屋の扉だった。俺は扉をノックして、お姉ちゃん、と声をかける。返事はない。姉はもう心を閉ざしてしまっているのだ。自分を受け入れてくれなかった社会に。そして、自分を助けてくれなかった弟、つまりこの俺に。

 扉に両手をついて、俺は俯く。ごめん、と俺は噛みしめるように言う。お姉ちゃんを放っておいてごめん、お姉ちゃんのことを助けてあげられなくてごめん。俺はここに来るよ。明日も、明後日も、その次の日も。俺は本当は、お姉ちゃんのことが大好きなんだよ。今さらそんなこと言ったって、もう遅いのかもしれないけどさ。でも、忘れないで欲しいんだ。お姉ちゃんが扉を開けてくれるのを待っている人間が、少なくともここに一人、いるってことをさ。

 俺は顔を上げて、踵を返し、目を拭う。そして自転車に乗って走り出す。いつか姉と再び会える日が来るのを願って。あといい加減おなかが空いたので隣のはま寿司に向かって。炙りサンマがとても美味しかったです。