文学的ではない話

 僕が持っている文学的な思い出は、大学に入学したあたりからぷっつりと途切れている。ここで僕の言う「文学的」とは、僕の考えうる限り最も文学に失礼な意味合いしか持たない表現で、「何やら含蓄のありそうな」程度の意味しか有していない。自分にはよくわからない表現だということを上手いこと言った感じにするためだけにある言葉だ。だけど、なんとなく僕は僕の思い出をそう呼びたいのだ。ぶんがくてき、と。

 例を挙げよう。

 友人と二人で馬鹿みたいにブランコを漕いだこと。転校するあの子に思いを告げられたこと。カッチカチに凍り付いた17アイスを齧りながら父と海辺を歩いたこと。壊れたマイクと気付かずに全校生徒の前で演説をしたこと。転びかけたあの子の手をさっとつかんだこと。決勝レースが始まる前の空っぽのプールを、予選落ちしたリレーメンバー四人で独占したこと。フラれた僕を慰めるために友人が連れ出してくれたコンビニでは、涙の止まらない僕をあざ笑うかのようにD-51の「No more cry」が流れていたこと。……最後のやつなんか特に最高だ、思い出すたびに僕は笑える。

 要はそういうぶんがくてきな思い出、僕にとって何らかの含蓄を持った、僕が僕となるためのバックグラウンドを形成している思い出というのが、どうも高校の途中あたりで終わってしまっているのだ。大学時代を思い出す。良い友人にも良い集団にも出会えた、それは確かだ。しかし、圧倒的に欠落しているのだ。そこに僕がいた、という実感が。

 僕が僕の実感を失ってしまった時期は、思い返せば「客観的かつ理性的であろう」と思い始めた時期と重なる。僕が自分持ち前の滑稽さと我の強さを憎み始め、「絶対的に正しい人間であろう」と思い始めた時期と。それはこの上なく愚かなことで、自分であることを放棄することに他ならなかった。知識もなく経験もなく能力のない僕が正しくあるためには、結局のところ、何もしないでいるのが一番マシな選択肢だったのだ。

 俺は自分に対する真摯さを失った。

 

 これ以上は何を書いても駄目な方にいくのでテンションを切り替えます。

 だからここは俺の最後の砦だと思うのです。何か書こうとすること。それが俺に残された最後の真摯さなのです。じゃあ一月半もサボるなよ。はい。ごめんなさい俺。俺は俺を守ります。俺のぶんがくを忘れないために。