みんなさ、遊んでる最中に、「なんかつまんねーなー」って気持ちになったことない? 「今やってるこれ、確かに楽しいんだけれど、果たしてこれに何の意味があるんだ?」って気持ちに。
おれはあったよ。それもしょっちゅう。例えば高校の友達とシダックスでキャラメルマキアートをガッパガッパ飲みながらBUMPやRADWIMPを熱唱したり、大学んときに慣れないビール飲みながら飲み会でギャーギャーはしゃいでいたり、そんな合間合間で。トイレに立って、用を足している時に、そいつが目覚めるんだ。
「そんで?」っておれの中のクソしらけ野郎が言う。「表面上お前は楽しそうだけど、それって本当のお前は楽しいの?」
うるせーって、その言葉を振り払うようにおれはチンコをぶるんぶるん振る。なんだ本当のおれって。それはイケてもない特技もない天才でもない、ちんけな劣等感を抱えてるおれのことなんだろうけれど、そんなもん出したところで何になるんだ? おれは余分にチンコを振って、手を洗って、会場に戻る。少し、場違いな気分になる。この場所にうまく馴染めているのか不安になる。自分の正しい振る舞いかたがよくわからなくなる。
そんな感じ。
んで、こいつは厄介なことに、いつだってやって来るようになる。朝の、夜の、電車のなかで。試験勉強の合間に。本を読んでる最中に。布団のなかで。いつだって。
おれはそんな、おれの中のしらけ野郎を蹴っ飛ばして追い出したつもりだったんだよな。
だってそうだろ、しらけるのは最低の悪手だ。「意味がない、つまらない、気に入らない」の一言でなにかを切り捨てて、勝手に上から目線になって。根拠のないニヒリストはただの水差しクソ野郎だ。
つまりはこうだ。意味のないものなんてないさ、っておれは唱える。
「そんなことはねえだろ。例えば、猥雑な週刊紙の片隅に載ってるホロスコープみたいに」
それだって誰かが懸命に考えて書いたものだし、そいつをたよりに一週間の暮らしかたを決めている誰かさんだっているかもしれないだろ? その彼だか彼女だかはホロスコープに救われているはずだ。
「詭弁だろ。お前は占いを、とりわけ星座や血液型で人を判断するような輩が大嫌いなくせに」
おれがそいつを嫌いだからって、そいつ自身に意味がないとは限らないさ。いいか。おれのものの見方は、全くもって正しいとは限らない。あるものがおれにはAに見える。でも別の人にはそいつがBにもCにも見えるのかもしれない。とある物事の本質は、おれのしょっぱい見識では推し測れるものではないんだ。
「そんで?」
だからこうだ。おれたちは、あらゆるものを面白がることができる。あらゆるものに意図や意味があるんだ。コンクリートのひび割れにも、路地裏にある狭い公園にも、エアコンの室外器の並びやそこから生えるダクトにも、誰も登らない歩道橋にも、ポケットティッシュの裏側にある広告も開いたことのないプリインストールアプリにも、古本屋の平積みの下の方で折れ曲がった文庫本にも。なんにだって、それが今の状態に至るまでの背景があり、そこに意味を見出だすことが出来るんだ。
「そんで?」
だから少なくとも、おれは今、楽しむべきなんだよ。今遊んで楽しむことの意味なんてあとから勝手についてくるんだから。
「あっそ。じゃあ頑張って楽しんでね」
で、おれはおれの中のしらけ野郎を追い出した。
まあもちろん追い出したと思ったのは錯覚で、しらけ野郎はずっとおれの中にいた。いい加減な理屈はなんにも打ち負かしてなくて、そいつが明確な言葉になるのを防いだだけ。しらけ野郎は漠然とした、単なるしらけた気分に変化して、ティッシュに落とした黒いインクみたいに、じんわりとおれの中に広がってた。
ほらどうした、とおれは言う。楽しめよ。面白がれよ。
うるせえ、お前がいるからできねえんだろうが。
結局のところ、初手から間違えてんだよ。全部。全部だ。お前がなにかを楽しめなくなったのは、単にお前がそのなにかに一生懸命じゃなかっただけ。ものの考え方とか、捉え方とか、そんなもん本っ当にどうでもいいの。お前が部活に、勉強に、バイトに、研究に、趣味に、そのうちどれかひとつにでも本気で、全力で、そこにお前の全部を預けるような生活が出来てれば、お前はその場所で心底楽しめただろうに。なにが、あらゆるものを楽しむことができる、だ。お前は何を楽しむかの判断も自分でできなかっただけだろうが。
だってお前は言っただろ。おれのやることになんの意味があるんだ、おれがそれをやる意味はなんなんだ、一体お前に何が出来るんだ、って。
知らねえよ。何もやらなかったのはお前だろ。
俺にはこいつの殺し方が分からない。