生きることの不可避な売春性の話

 5か月ぶりくらいであるらしい。ブログを書くのが。この5ヶ月くらいの間、ひいては10月に職を転じてからの半年の間、いったい何をしていたのかというと、まあ平たく言えば鬱がひどくなったり良くなったり繰り返していた。職場環境は以前に比べれば随分と良くなり、残業時間もずっと短くなって、直截的な非難や否定を受けることも少なくなったのだけれど、それでもやっぱり駄目なもんは駄目らしい。

 三十路が手に届きそうな距離になってやっと理解できたことがあって、俺はどうやら人間があまり好きじゃない。より具体的に言えば多くの人間から構成される組織や社会が好きではなくて、さらに詳細に言うならば多くの人間から構成される組織や社会に否応なく付随する階層的な人間関係が嫌いだ。スクールカーストに似たものは、社会にあっても存在する。それはより曖昧な雰囲気となって、しかしながらより絶対的な、確固たる暗黙の了解となって。全部くそったれだ。俺は多くの人間たちの合間に挟まって居心地の良いポジションとポーズを探ることに労力を費やしたくない。誰にも見下されたくないし、誰も見下したくない。俺はただ俺のままでいたい。それだけだ。ただそれだけのはずなんだけどな。

 

 表題の言葉は樋口恭介氏の書評「生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』 | UNLEASH」から取ったもので、俺はこれを見た瞬間上記の本をamazonで購入した。届くのが楽しみだ。俺は俺のことを説明してくれる言葉をずっと探している。レクサプロの時代の愛。

そこには逃げ場はない。出口はない。そこではあらゆるものが値付けされ売買される。青春は商品になり、恋は商品になり、性愛は商品になる。誰もが「私を買ってください」と主張し、自分の持つ何かを切り売りしながら生きている。
たとえば筆者も、まさに今この瞬間に、思考と呼ばれるある種の情報を切り売りするために、この文章を書いている。
「資本主義リアリズム」とは要するに、生きることの不可避な売春性について、不可避であると信じさせられていることを指す。

 

 サバンナモニターを再び飼おうかと思っている。年の暮れに不注意にて死なせてしまったにも関わらず。罪滅ぼしか? 今度はちゃんと飼育できることを示して以前の失敗を帳消しにしたいがためか? いずれにしてもただのエゴだ。だけどペットを飼うって行為そのものがそもそも利己的じゃないか。俺にところにいるあいつらが、俺のところに来てよかったのかどうか、俺には分からない。

 

 何か書きたかったことがあった気がするが完全に忘れた。今回はこの辺で。