「30歳問題」の話

 ウェルベックの新刊「セロトニン」を読んでいる。46歳のアッパーミドル階級の男が、人生をやっていくのをいったん中断して、あとに残された虚無と人間関係を辿っていく、今のところはそんな話。セロトニンは一種の神経伝達物質で、欠乏した際に不安症、抑うつ症を引き起こすとされている。僕のブログを読むような人たちは、なんだかみんなそのくらいは当たり前に知っているような気がするけれど。

 「服従」「素粒子」「プラットフォーム」あたりしか抑えていない浅い知識で話すが、ウェルベックが主人公として選定するのはおおむね中年インテリ富裕層男性で、要は「一定の成功を収めてきた男」だ。それは社会においても、個人的な人間関係、言ってしまえば性的な関係においても。僕自身は彼らが滔々と語る社会や人間の捉え方および対処の仕方、そしてそこに否応なく付随する過度の内省を伴う虚無感……「常に後ろを付いて回るやるせなさ」のようなものをおもしろく読む一方で、共感ができるかと言えばそれは一切ない。(共感がフィクションを楽しむうえでの重要なファクターである、との一般的な見方に対しては、断固として僕は抵抗するが、)彼らの抱く虚無は、僕自身が抱く虚無とはあまりにもかけ離れている。

 僕は(辛うじて)20代の若造で、今のところなんの成功も収めておらず、僕の抱く無力感は「影響を与えたり結果を残したりすることを何も為せそうにない」ということに由来するものだ。ウェルベックの主人公が抱くような「社会にも人にもたくさん関わってきたが、それがいまさら何になる?」のようなものではなく。

 

 村上春樹の「35歳問題」を思い出す。「プールサイド」って短編の、”35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した”

ってやつ。人生の過程において自分が選択により得てきたものと、そして選択により失ってきた”あり得た可能性”とのバランスの逆転」に涙する、成功者の男。彼の喪失感もまた、ウェルベックが語るものと同質だ。その喪失感を僕は理解する。しかしそれはやはり僕自身のものとはならない。

 

 あと一年で僕は30歳になるらしい。一般的にもう成熟した大人とみなされる年齢。出世だの結婚だのマイホームだの、人生の転機が訪れるとされる年代。そういったものが近づいてきている。翻って、僕の現状は? 一般的な30歳男性像と、僕自身の乖離。この無力感に立ち向かうすべを僕はここから見つけていかなければならない。ウェルベック村上春樹が語る虚無とは別種の虚無を、僕は言葉にして対処していく必要がある。これが僕の30歳問題。僕はきっとどうにもならないながらも、どうにかやっていくのだろう。