2020年とのっぺい汁と自我の芽生えた子供の話

 新年も二日が過ぎようとしている。いかがお過ごしですか? 僕は昨年末から続く飲み食い三昧でお腹周りが育っています。

 2020年。十の位が変わるともなると新しい時代を迎えたような気になり、実はちょっとだけわくわくもしている。2020年。20年前にようやく2000年になったばかりだというのに、いつの間にか2020年だ。10年前には2010年だったというのに。20年代には、車は空を飛ぶだろうか? まあ飛ばなくても自動運転くらいは普及しているかもしれない。このままいけば、きっと10年後は2030年になっているのだろう。そのころには自動車は自動飛行車になるのだろうか。

 

 雑煮のつゆは何派、なんて問答がたまに持ち出されたりするけれど、それに対して特に意見を持っていないのは、うちの家系がなぜかそもそものっぺい汁派だからだ。雑煮を食ったことがない。ちなみにのっぺい汁とは、Wikipediaによると”料理の際に残る野菜の皮やへたごま油で炒め、煮て汁にしたもの。地域によって使用する材料やとろみの加減などが大きく異なるが、主にサトイモニンジンコンニャクシイタケ油揚などを出汁で煮て、醤油食塩などで味を調え、片栗粉などでとろみをつけたものであることは共通する ”だそうです。

 1月の2日か3日には叔母夫婦の家を訪れ、叔母の手作りのっぺい汁を頂戴するのが我が家の正月のルーチンになっている。この叔母には昔からお世話になっているのだが、そのためか俺が頂戴するのっぺい汁には必ず俺の好物である鶏皮が入っている。大昔、おれと兄貴が争うように鶏皮をむさぼっていたことをいまだに覚えているらしい。年長の親せきはたいがい、子どもの頃の好物を絶対に忘れない。亡くなった祖母が毎年ブドウを俺に出してくれたことを思い出す。ありがとうなばあちゃん、でも最近のおれが一番好きな果物はパイナップルなんだよ。ブドウももちろん好きだったんだけどさ。

 

 さすがにアラサーなのでお年玉はもらえないし、むしろ奪われる側である。従兄の息子が二人、叔母の家を所狭しと暴れまわっていたので、ポチ袋でぶん殴って黙らせることにした。上の子はいつの間にかもう小6になっていた。最近まで小2くらいだった気がする。多分来年には中3くらいにはなっている。

「おっちゃん、これいくらはいってんの?」

「お前が俺をおっちゃんと呼ぶたびに、この中身が半分になっていくと思えよ」

「お兄さん」

「よろしい」

 下の子は今5歳だと言っていた。しっかりと言葉で自分の意思を伝えられるようになっていて、なんとまあ一人の人間として順当に育っていることかと涙を禁じえなかった。彼はお菓子をシェアするのがマイブームらしく、チョコレートの小包を「どうぞ」と言いながら人に投げつけて回っていた。戦後の米兵が迷惑になったバージョンかよ。

 

 際限なく飯とお菓子を食らい続ける下の子を見ながら「あのくらいの時のあんたは」と母がこぼした。「ほんまに食が細くて、バナナなんか数ミリかじったら『もういらない』って押しのけてたもんよ」

 それが今ではこの有様さ、とお腹周りのぜい肉をつまんで見せた。だから安心しなよと伝えると、母は「いまさら言われても」と嘆息した。嘆きモードの母を和ませようと、叔父が作ってくれた濃いめのハイボールを「もういらない」と押しのけてみたら母にしばかれた。

 ちなみにこの間におれの父は、「戦いごっこをしよう」と従兄の息子たちに誘われたので二階で開戦していた。幼い子供ですら戦いを求める。やはり人間には生まれついての闘争本能が備わっているのだろうか。

 

「あの時くらいの頃は、なんとなく覚えている。だから俺の自我もあのくらいの頃に芽生えたのだろう」とおれは言った。

 あの頃おれはどんなことをして過ごしていたんだっけか。なぜかよく覚えている風景は、幼稚園の遊具だ。そこでおれは、そうだ、砂を混ぜて遊んでいた。湿った砂と、よく乾いた砂を混ぜ合わせて、ちょうどいい湿り気の砂を作り出そうとしていたんだった。ちょうどいい湿り気の砂は、普通にその辺に転がっている砂とは違い、人の手を介さなければ生まれないものだから、それはもうスペシャルでグレイトでウルトラな価値のあるものだとそのころのおれは考えていたんだ。そしてその価値のあるものを作り上げることが、自分の人生における使命だと頑なに信じていたんだっけ。

 それはきっと、今の自分とそんなに変わらないのかもしれない。俺は今メーカーで仕事をしているが、その目的はつまり「ここでしか作れないちょうどいい湿り気の砂」を作ることに他ならない。それに気付いたとき、おれは5歳の頃の自我と今の自分が確実に地続きでつながっていることを実感した。そうだ、俺は作り上げたいのだ。今までも、そしてこれからだって。

「俺はちょうどいい湿り気の砂を作るために生きてきたんだね、母さん」

「はあ???????」

 

 そんなこんなで、正月恒例親戚参りは幕を閉じた。

 父は討ち死にしたので置いてきた。