再び仙人風呂の話

 「パワースポット」なんて言葉は、マイナスイオンや水素水と同列レベルにうさんくさくて気に入らないものではあるのだけれど、実際問題そこにいるだけで癒されるような心が洗われるような少しだけ気力を取り戻せるようなそんな場所はあるもので、それはその土地に根付いた雰囲気や歴史に起因するものだったり、あるいは単にその場所にまつわる個人的な感傷に基づくものだったりする。

 

 そんなこんなで和歌山は川湯温泉、仙人風呂に来ています。前回訪れたのが就職する直前、5年前ですね。写真を挙げるのは面倒くさいので5年前の記事を参照ください。 

 というかこのブログ5年もやってるのかよ。そりゃ飽きて更新頻度も落ちるわ。しかし5年前の記事を見ているとさすがにまだ青さが残っているような気がしますね。成長した今の自分には少し恥ずかしい。 「胸の鼓動も早くなるわ。熊野古道だけにな。ガッハッハ」とか今となってはもう絶対言わないしな。いや言うか。今でも絶対言うわ。すみません、たいして成長していません。

 

 仙人風呂は河川のそこに源泉があり、この時期は河を一部せき止めて、河川敷に巨大な浴槽を作る。これが何を意味するのかというと、まあとにかく温度が安定しないということ。石の隙間から染み出してくる川の清水は非常に冷たく、川よりの場所はかなりぬるい。かといって源泉が湧き出してくるスポット(気泡を目印に判別可能)に移動すると、熱湯が直撃して尻がゆでだこになってしまう。この温度差の間で揺れ動きながらちょうどいい場所を探すのが仙人風呂のだいご味である。居心地の良い場所を探すのが重要である、というのは、ちょうど人生と似ている。人生に似ていると言っておけばとりあえず含蓄のある感じになる。とはいえ、基本的にたいていの物事は人生に似ている。僕らは人生を通してしか物事を観察できないし、そしてなにより、たいていの物事はいつか終わる。人生と同じように。

 

 僕の悪癖として本を持ち込み長風呂するというものがあり、湯気でしなしなになるだけにとどまらず勢い余って入水自殺してしまうものがたまに現れるのだが、さきほどミシェルウェルベックの「ある島の可能性」がお亡くなりになりました。中古でも1000円したんだぞ。さすがにへこんでしまう。

 

 今日ここから何をするのかは全く決めていない。たまにはこんなのんびりとした旅があっても良い。とりあえず近くにある「たんぼ水族館」なるとてもよさそうな施設に行ってみようかな。
 今は宿も安めだし、どこも結構閑散としており人ごみの心配もないので、都会で引き込もるよりも、思い立っての遠出、皆さんもいかがでしょうか。