美味いコーヒーの話

 一か月ほど前にネスプレッソを買った。カプセル式のエスプレッソマシン。
 そこまで舌が肥えていないので、正直なところコーヒーの味の違いとやらは良く分かっていない。「深みのある苦味」とか「酸味の中に隠れるフルーティーな香り」とかいろんな講釈に目を通した後、実際にコーヒーを啜って抱く感想は「美味い」とシンプルな6バイト。そもそも喫茶店やカフェで飲むコーヒーに「不味い」と思った試しがない。というかコンビニで買える100円の紙コップコーヒー、あれが既に十分美味い。僕のコーヒーに関する味対値段曲線は白銅硬貨一枚より右側に上昇の気配を示さない。
 そんな味音痴でもインスタントコーヒーが美味くないことくらいはさすがにわかるので、先月、コーヒー環境を整えることにしたわけだ。僕の第二の故郷となる予定の某県はびっくりするほど近くにカフェがない。というか近くに駅すらないのだから、カフェなど望むべくもない。となると自然、自宅で美味いコーヒーを生み出さなければならないことになる。無からコーヒーを生み出すためには真理の扉を覗く必要があるので、それは諦めてちゃんと器具を買うことにした。
 ドリップやプレス、バリスタなども検討したのだけれど、どうせなら奮発するかと8000円ほど出してネスプレッソを購入。この懐の緩さも社会人となったが故の余裕の表れ。美味いものと好きなものには金を惜しまぬのが僕のポリシーだ。節約して牛乳でなく低脂肪乳を買うわりには。
 で、美味い。お試し用のカプセルが16種類ついてきたが、どれを飲んでも出てくる言葉は「美味い」とシンプルな形容詞。1カプセル100円ほどするのはネックだけれど、カプセルをセットしてボタンを押したらもう美味い。なんともお手軽。シュッ、ポチッ、美味い、のこの3コンボ、奮発して買った価値はあったといえる。毎日飲んでるとさすがに出費がかさむので、普段はインスタントコーヒー、ここぞというときにネスプレッソを発動することにしている。カプセル代も抑えられるしネスプレッソに毎回「美味い」と感動できる一石二鳥の素晴らしい作戦。もはや喫茶店もカフェもコンビニも必要ない。美味いコーヒーは完全に僕の手中に落ちた。

 と、まあ、これが二週間ほど前までの状況で、今の僕は味噌としゃちほこが有名な某県に一か月の研修に出ている。「僕もつれていってくれ」と言わんばかりに寂しげにこちらを見ていたけれど、ネスプレッソは置いてきた。会えない期間が二人の絆を強くするとどこかに書いていたので。あと段ボールのスペースが足りなかったので。

 愛を知る県について二週間、いい加減に美味いコーヒーを飲みたくなったため、アパートの裏にたまたま見つけたカフェに来た。本日のコーヒーを注文すると「二種類ありますが」と言われ、良く分からないままブラジル産のやつを指さす。「ブラジル人っぽく見えるね」と先週同僚に言われたのが決め手の一つ。
 テーブル席が埋まっていたので、僕が座るはカウンター席。店員が目の前で作業している。豆を挽き、湯を沸かし、ドリッパーに敷いたフィルターの上に粉を移して、ゆっくり、ゆっくりとコーヒーを抽出していく。その様子を僕はぼんやりと眺めていた。
 そういえば、とつい数か月前のことを思い出した。大学の研究室では僕はもっぱらドリップ党だったのだけれど、あれはインスタントと比べて味がどうとかいうよりも、湯を沸かしてからコーヒーをドリップするその作業が、あそこで一番心が落ち着く時間だったからだった。
 シュッ、ポチッ、美味い。ネスプレッソのお手軽さは確かに便利だけれど、わざわざ湯を沸かしてドリップする手間だってそう悪いものではなかった。コーヒーの滴が落ちて少しずつたまっていくのを眺める時間を一切失くしてしまったのは少しもったいなかったかな、とそんなことを僕は店員の作業を眺めながら考えていた。
 ブラジル産の何とかってコーヒーが提供された。一口啜り、僕は「美味い」と呟いた。