救いを求める話

 

「何か良いことがあるといいな」

 

 おれが今日聞いた言葉だった。

 それは切実な言葉だった。

 それは短期的な、例えば一万円札拾えればいいな、みたいな即物的な欲望を満たすことを望んだ言葉ではなく、普段の生活を過ごすうえでのかすかな希望を、未確定な未来に託す言葉だった。今の生活を辛うじて続けていくための、蜘蛛の糸にすがるような言葉だった。

 おれにはよくわかる。

 おれにはよくわかってしまった。

 その言葉が浅はかであるなどおれには言えない。突発的な救いが、なにか決定的におれたちを、おれたちの周りを変えてくれるような、言ってしまえばそれは例えば彗星の衝突のような、突飛で決定的な出来事をおれは望んでいたから。

 おれもよく祈っていた。

「何かいいことがありますように」「何かがおれを救ってくれますように」「なにか決定的な救いがおれたちに訪れますように」

 

「おれに救いが訪れますように」

 

 おれが今わかっていることとしては、少なくとも外部から救いの手は差し伸べられないということだ。神の見えざる手のようには。地獄にたらされる蜘蛛の糸のようには。無償の愛なんてもの、基本的には存在しないんだ。親から子に向けられる愛であったとしても、それは不確実な存在なんだ。なあ、例えばおれはもはや可能性がすりつぶされつつあるオッサンだ。そんなおれの目の前に提示される救いの選択肢なんて、仏の御手によるものか、詐欺師の手管かのどちらかだ。無条件であることなぞありえない。そして仏の実在を妄信できるほどにはおれは純粋ではあれない。おれたちはそうだろ?

 

「救いがありますように」

 

 おれたちには外部の救いはもたらされない。「何か良いこと」なぞ起こる望みもない。誰を含めて「おれたち」なんて宣ってるのかおれ自身にもわからないけどな。いいか。おれたちを救うなんて奇特な人間は現れない。実在するとしたら、九割九分が詐欺師だ。おれたちを救う代わりに法外な利益を得る詐欺師だ。残り一分は本物の聖人かもしれないが、本物の聖人なんてなにかしら後ろ暗いものがなければ存在しない。「光ある限りまた闇もある」みたいなこと、だれか言ってたろ。ゾーマかな。ゾーマが言うことはすべて真実だ。ゾーマが言うんだから間違いない。だから大体の救いは詐欺師によるものだ。

 

「誰かが、おれを助けてくれますように」

 

 救いはない。

 例えば無条件におれたちを好いてくれる人間とか。おれたちの存在に励起される人とか。おれたちの奮迅により救われる世界とか。

 おれたちが救えるものはない。だからもちろん救いの手を差し伸べるものなんてない。おれたちには。

 社会は、システムは個人を助けないということをよくわかってしまったはずだ。このなんたら禍の環境下で。ソーシャルネットワークの発達による個人意識の希薄化によって。いや、そもそも社会的成功が人生的成功を意味しなくなった、バブル以降の価値観遷移に伴って。

 だからおれたちのような個人と社会的システムは、ほとんど関係がない。ように思える。

 おれたちとは無関係に、全ては動いていく。決定的な環境として。社会として。システムとして。規定された外部として。その環境から零れ落ちそうなものがいるとして、社会的システムの運用上からはじき出される人がいるとして。そいつらを助ける義務などどこの誰にも存在しない。

 そいつらを助ける義理などどこの誰にも存在しない。

 メリットがないからね。

 

「なにか、決定的な、いいことが、おれの人生に訪れますように」

 

「なにかいいこと」。それは外部からはもたらされない。確実にね。サンタさんはいないんだ。御仏はいないんだ。救世主はいないんだ。おれたちを無条件に救ってくれるようないいことなんて訪れないんだ。これは当たり前のことだっけ? ここが日常系マンガの世界だったらまた別だったかもしれないけれど。でも残念だったね。日常系マンガも愛されるキャラを描いているだけだから。陰に愛されないキャラも埋もれている。

 確率として、無条件に救われない人が大多数ってことだ。

 ならばおれたちは、救いを自力で求めるしかない。

 エクソダスだ。

 救いを自分の力で求めるとして、そこに必要なものは脱出だ。それは外部的なものでも内部的なものでもありうるだろう。自己を規定する外部環境の突破かもしれない。自己の価格認知の突破かもしれない。少なくともなんらかの枠組みを突き抜ける試みであることは間違いない。救いの可能性があるとしたら、おれたちの外側にしかそれは存在しない。

 なんにせよ、おれたち自身の、何かを突破しようという試みなくして、本当の救いは訪れないだろう。妥協した俺たちの前に差し出される安易な救いは、他の安易な何かへの依存に過ぎないから。それは依存の転嫁に過ぎないから。

 

 いやつーか本当の救いって何なんだろうね。

 そんなものもちろん存在しないんだろうけどね。

 安易な救いを騙るやつを、すべて疑い続けることに他ならないんだろうけどね。

 

 これはなんの話だったっけ?

 

 少なくともおれたちを直接的に救う決定的なイベントはまだまだ訪れないってことだ。人類補完計画も。スターチャイルドへの昇華も。ハーモニープログラムの人間意識統合も。あ、これはおれが好きな展開ってだけだったっけ。とりあえず、おれたちは、おれはまだおれとしての存在を義務付けられている。存在としての責任を放棄するという選択肢を除いて。まあ一応おれはまだそれを選ばないけどね。おれの絶望はまだ放棄には足りないから。

 ともかく、自分が信じられる本当の救いは自力で獲得しなければならない。

 社会的なものか。資本的なものか。家庭的なものか。宗教的なものか。ビジネス的なものか。道楽的なものか。まあ孤立的なものを個人的救いとして確立することは意外と難しかろう。外から殴られて揺るがないものってなかなかないからね。

 

「救いたまえ」

 

 救いの手を差し伸べてくれるような直截的な神なんていない。わかってんだろ。この人生は根本的に変わったりなんかしないし、ましてリセットもされやしない。おれたちは継続するしかない。この挫折に満ちた物語を。

 すみません、この話に結論はない。主張もない。なにもない。

 それでもこの、「何かいいこと」の訪れる可能性が極めて低い、おれたちの人生はまだ続いていく。

 あ、もしかしたらきみは違うのかい? そうかもしれないね。それでもいいよ。でも知っててほしい。

 突発的な物語には依存できない、日常系的な幸福にも回帰できない、そういった生活を送る人ってのはたくさんいる。実際の割合なんて知らねえけど、少なくとも俺の知る限り複数は。確実にいる。

 だからおれは言う。言うしかない。おれたちに向かって、言い聞かせるしかないんだ。おれたちに救いはないけど。希望は小さいけど。生きる目的なんて見えないけど。それでも一応言ってみるんだ。


 なにか、いいことあるのかもしれない。 

 なにか、いいことあるんでしょうね。

 

 ま、そんな感じで。