虚無を解体する話

 

 外の世界にそれはない。

 心の中に虚無はある。

 

 虚無は誰の心の中にも眠っている。大なり小なりの程度の差はあれど。僕の中にも。あなたの中にも。虚無は心の奥底に潜み、鎌首をもたげて狙っている。あなたが虚無に気付く瞬間を。あなたが気付いたそのときに、虚無はあなたに飛び掛かるだろう。一度あなたを捕らえた虚無は、あなたを締め付けて離さないだろう。例えばそれは、あなたが作り上げてきたものなんて一瞬で崩れ去ると気付いてしまったとき。生き物は簡単に死ぬと気付いてしまったとき。努力も才能も等しく風化すると気付いてしまったとき。社会のアルゴリズムの中では一個人の意思など何にも通じないと気付いてしまったとき。そのとき虚無はあなたを飲み込み、そしてあなたは二度と虚無の腹の中から抜け出すことは叶わないだろう。あなたのすべてが無意味なのかもしれないという恐れが、ずっとあなたを縛り続けることだろう。

 僕が虚無に食らいつかれたのは学生時代、特に大学院生のときだった。部活もちゃんとやれなかった、バイトも半端だった、院試にも失敗した、次々と転び続けていた僕に、研究の悪進捗はとどめを刺した。虚無は僕を捕らえ、たやすく無気力の沼に引きずり込んだ。僕はそこから抜け出そうと何度ももがいた。時々は息継ぎができた。しかし溺れている時間は段々長くなっていった。

 僕は虚無に対処しようとした。虚無に向き合おうとした。思えば、ブログを書き始めたのもそのころだった。「げんふうけい」や「ブーンは歩くようです」からの影響で、創作をしようと思った。それを新たな自分の立ち位置にしようと思った。虚無から抜け出して確固たる自分の足場を作るために、僕は何かを言わなければならないと思った。何かをわからなければならないと思った。何かにならなければならないと思った。そしてその何かは全く具体的なものではなかった。僕は何も目指せてはいなかった。物語を想像するのは楽しかったが、強迫的な「書かなければ」という意思は、しかし僕を虚無の中へとさらに蹴り飛ばした。いくつかの物語を思い描いた。だけどそれらはほとんどがちゃんと形にならなかった。僕の思考は稚拙だった。僕の想像は稚拙だった。僕の文章は稚拙だった。それらは決して僕の足場たりえず、僕は不安定な虚無の砂の中により深く埋まっていった。

 僕が今まで細々と書いていた物語の多くは、この時に原型を思いついたものだった。絵空事、野良兵器、天使。あとまだ書いてないけどサイクロタウンの終盤。どいつもこいつも判を押したように「虚無感、停滞感からの脱出」のモチーフを使いまわし、何年かけても上達も見られず、それらは上っ面だけが取り繕われたいびつな張りぼてみたいで、読み物として誇りをもって完成させることはちっともできなかった。

 就職した。数年たっても仕事に自信と誇りを見いだせなかった僕はなおさら広大な虚無の中で溺れた。そこから逃げ出そうとして、転職した。今度の職場は比較的温かく、僕は少しずつ、顔を出して息をする方法を思い出した。虚無の中から抜け出せると思った。だけどやっぱりまた虚無は僕を飲み込んだ。去年の春。僕は完全に虚無の中に沈んだ。仕事に行けなくなった。少しでも生きる糧を、とその少し前から飼い始めたペット達も、だけど僕の心をほぐし切らなかった。もう全てが面倒になった。全てが楽しくなくなった。酒と油を馬鹿みたいに摂取して、できるだけ早い段階でくたばろうと思っていた。この先の人生における期待値がマイナスになると理解してしまう日がそのうち訪れるだろうと思った。そしてその時に僕は自分で自分を終わりにするだろうという確信があった。もうそれでいいと思った。僕は虚無の中で目を閉じた。

 

 それから10か月ほど休み続けて、今に至る。

 この期間、僕は虚無に対処することを諦めた。

 そして皮肉なことに、その結果として僕の虚無は少し小さくなった。

 年明けから復職の支援を受け始めた。

 その助けを借りて、僕は虚無を解体し始めた。

 

 結局のところ。虚無に向き合おうとしたのがそもそもの誤りだった。それは底なし沼のようで、ブラックホールのようで、メデューサの瞳のようで、立ち向かうものを決して離さないのだ。自分から溺れに行くようなものだった、そして、事実、僕は好んでそうしていたのかもしれない。虚無的感覚はもはや僕の一部になってすらいたのだから。その一部に僕は食らいつくされそうになっていたけれど。

 虚無から離れる方法。考えてみれば単純だった。目を反らして見ないふりをすることだ。できれば他の物事を見ることに集中する。傍らにある虚無は消えないが、やがて少しずつ存在感は減る。少しずつ、でも確かに。

 僕はようやく虚無の腹から上半身を這い出せた。周囲の助けの手をやっと掴むことができた。それを支えに、僕は振り返った。虚無はまだそこにあった。だけど引きずりこまれることは、今はなかった。

 僕は虚無と改めて向き合った。だけど虚無全体と対峙することはもうしなかった。僕は虚無を少しずつ切り取った。切り離した虚無の一部分にラベルを貼った。そして傍らにそっと置いた。

 それは単なる挫折だった。

 それは単なる大きな目標の喪失だった。

 それは単なる自信の喪失だった。

 それは単なる心の閉鎖だった。

 それは単なる認識のゆがみだった。

 それは単なる拗ねだった。

 それは単なる意思発信の不足だった。

 それは単なる愛情の不足だった。

 それは単なる日光の不足だった。

 それは単なる運動の不足だった。

 それは単なる笑顔の不足だった。

 一つ一つは、対処できないほどの大きさではなかった。そいつらが全部一緒くたになって、巨大な虚無の塊を形成していただけだった。僕は虚無を解体していった。解体している途中だ。今もなお。

 虚無が消えたわけではない。まだ残っている。だけど、小さくはなっている。バラバラになって分散したそれに、僕をすっかり飲み込んでしまえるほどの大きさは、今はない。

 強迫観念は鳴りを潜めた。僕は何も書かなくていい。僕は何にもならなくていい。何にも強制されないし、そもそも強制されてなどいない。すべきことなど何もない。社会にいるために適当に税金納めりゃそれでいい。税金納めるために適当に働きゃそれでいい。地位も名誉も社会的成功も僕には必要ない。多少のお金と、暮らしを満足させる要素のいくつかが必要なだけだ。

 傍らに虚無の種がある。それも山ほど。気を抜けばそれらはすぐ融合し肥大化し成長しようとする。だけど今は大丈夫だ。虚無の種にはラベルが貼ってあり、僕はそれにより虚無の種を個別に認識できる。認識できれば再び切り離すことができる。虚無を解体する術を僕はなんとなく身に着けた。

 僕はおそらく完全に元気にはならない。虚無に気付かなかった頃にはもう戻れない。それでも、暮らしていくことはどうにかできそうだ。僕は虚無とともに生きる。そうするしかない。バラバラに解体された虚無と、どうにかうまく折り合いをつけながら、僕は日々をやり過ごしていく。