まぜのっけごはん朝食の話

 早起きしてすき家のまぜのっけごはん朝食を食べたから、今日は一日元気でした。

 

 まぜのっけごはん朝食。350円で牛小皿、温玉、オクラ、かつお節、ごはんに味噌汁がついてくる。紅しょうがと七味もかけ放題。完全栄養食だ。炭水化物、野菜類、タンパク質、全てがそろっている。これだけで生きている。ある国にはまぜのっけごはん朝食だけを食べて100歳を超えた老人がいた。仙人が霞だけを食って生きているのは、実は霞が混ぜのっけごはん朝食の隠語であるという説がある。無作為に選ばれた人々をまぜのっけごはん朝食だけで生活したグループと家系ラーメンだけで生活したところグループに分けたところ、後者のほうがより早く味に飽きた。エヴァ劇中でシンジ君が食っている固形物プレートは、未来のまぜのっけごはん朝食の進化系である。ほかの朝食が「納豆朝食」だの「焼き鮭朝食」だの名乗っている中、まぜのっけ朝食は「まぜてのっける」という行為を名前に冠しており、混ぜて乗っけるものをすべて包括するその概念としての位階も凡庸な朝食どもとは一線を画すといえるだろう。

 

 僕がまぜのっけごはん朝食と出会ったのは僕が学生の頃だったから、もう10年ほど前にもなるのだろうか。家から大学まで遠かった。研究室で寝ることがあった。飲み会の後に友人宅に泊まることがあった。そんな朝、僕が食べる朝食は決まっていつもまぜのっけ朝食だった。味、ボリューム、口に掻き込みやすいその特性。すべてが申し分なかった。まぜのっけごはん朝食は僕の胃を優しく満たしてくれた。

 学生を卒業してからも、たびたび僕はまぜのっけごはん朝食を食べた。例えば実家へ帰る6時間のドライブのさなか、仮眠をとったパーキングエリアでの起き抜けに。ふと思い立って朝日を見に行こうと山に登った、その帰りに。明け方に伊勢の海を見に行こうと車を走らせた、その夜明けに。僕の中でまぜのっけごはん朝食は、早朝のすがすがしい空気と密接に結びついていた。目覚め行く街と、半ばまどろんだ僕。そんな僕を起動し、街と接続するためのツールとしてまぜのっけごはん朝食は機能した。僕はまぜのっけごはん朝食を通して世界とつながり、世界を覗いていたのだ。

 久しぶりに食べたまぜのっけごはん朝食も、やはり明け方の味がした。おいしかった。結局のところ、こういうものが一番うまいのだ。良い肉や魚、高い酒、美技の限りを尽くした高級料理。もちろんそれらもうまいのだが、まぜのっけごはん朝食とはベクトルが違うのだ。生活に根差したうまさ。僕らの身体を支えるうまさ。そんな実感を伴ううまさは、まぜのっけごはん朝食が一番だ。最後の晩餐を想像する。明日死ぬ、そんな日に、何か好きなものをなんでも食べられるとして、僕はまぜのっけごはん朝食を選ぶだろう。

 

 え?

 最後の晩餐サービスで無料?

 こっちのページのやつも頼めるんすか?

 

 すみません、まぜのっけごはん朝食やめて、こっちの季節の海鮮丼(特上)お願いします。