最近はけっこう元気ですよ~って話

 驚いたことに、近頃仕事が楽しい。前職や転職直後の自分のときには考えられなかった事態だ。あの当時は職場に身を置いていることそのものが負担になっていて、なんとかして仕事さぼりてえな、自分に全く非がなくて仕事にちょうどいけなくなるくらい適度なけがを負う程度の事故に巻き込まれないかな~と毎日思っていた。

 ところが最近は出勤が苦にならない。仕事は忙しいしだるいし頑張らないといけなくて面倒くさいが、その分きっちり成果を出している感覚がある。アウトプットが出せるから、周りからもそこそこ評価してもらえ、その分前向きに仕事にも取り組めるのでまたアウトプットも出せる。好循環である。PDCAサイクルである。インフレスパイラルである。もしかして、好循環があるということは、悪循環というものも存在するのではなかろうか。仕事がうまくいかないから叱られて委縮してまたうまくいかなくなる的な。おれは聡いのですぐ類推できてしまう。好循環が存在するということから悪循環が存在するということが直感的にわかるのだ。その昔、部活で遠征に行ったときに、乗り継ぎの駅の看板の「有人改札」という文字を眺めながら、マネージャーに「わざわざ有人改札と表記することから、この駅には無人改札も存在するということが推測できる」と話した。そのときの彼女の、何やら不可解な生き物を見るときのような眼差しが忘れられない。今でも寝苦しい夜に悪夢に見る。

 

 ものぐさな人間によくあることとして、おれは洗濯物を取り込んでも畳まずに山にしたまま、そこから次に着る服を抜き取る。これを繰り返していると衣服が整理できず、片方しか見つからない靴下が生まれたりする。それが複数たまってきたら洗濯物の山を解体しにかかる。

 片方だけしかない靴下が三つあったので、今朝は三か月ぶりくらいに山を片付けた。 

 結果、片方だけしかない靴下が四つ残った。

 なぜだろう。

 

 ーー靴下の片方だけがいつもなくなってしまうのは、

   両方を同時になくした場合はなくした事実に気づけないからである。ニーチェ(1888)

 

 

 仲の良い友人から続々と結婚の知らせが届く。喜ばしいことだ。数年前なら彼女のかの字どころかいい感じの人のいの字も存在しない自分と比較して少しは焦りも生まれたものだが、最近はもう自分の結婚をすっかり諦めているため、純粋に彼らの幸せを祈ることができる。彼らが幸せになりますように。いや、ごめん、ちょっと嘘だ。純粋には祈れていない。不幸を祈るわけではないが、幸福に満たされてはいないでほしい。すこしだけ不完全な幸福であってほしい。その微小な不満に対する愚痴を、一緒に酒でも飲みながら聞かせてほしい。つまりはかまってほしいのだ。一人で生きていくつもりではあるのだけれど、一人っきりで生きていく覚悟はちっとも固まってなくて、彼らの幸せを心から祈れるほどにはおれは強くないし、寂しがり屋なんだ。

触れることかなわない話

 ノートPCを新調しました。

 いや前の子に何か不満があったというわけではなくて、その子、去年買ったヒューレットパッカードのENVYってやつ、シックな筐体に木目のタッチパッドがスタイリッシュで、不満点はやや重たいくらいしかなくてかなり気に入ってまして、あと360度開くんですよね。ヒューレットパッカードだけに。パッカーンって。噂によるとヒューレットパッカードのノートPCは、大なり小なりパッカーンて開くらしいです。ノートPCをパッカーンて開けたい人にはお勧めですねヒューレットパッカード。これは全然関係ないけどヒューレット・パッカードハーマン・カードンがたまにごっちゃになる。ごっちゃになっても問題ないように勝手にくっつけとこ。ハーマン・ヒューレット・パッカードン。パッカードンて。ポケモンにいそうな感じになっちゃった。ワハハ。何がおもろいねん

 

 そんなお気にの子をクリボーよろしく踏みつぶしました。

 

 腹の上にのっけて動画見ながら寝落ち、これを毎日毎日繰り返していたおれが全面的に悪いです。

 いずれやるとは思ってました。

 朝になったらかなりの確率で、マットレスの傍ら、足を踏み出す部分に転がってましたから。

 

 まあさすがにへこんでしまいましたが、液晶画面の半分を暗黒領域が覆っているENVYちゃんはもうどうしようもないので、次代のPCを入手するしかありません。これまで私用ノートPCはASUS Transbook T100TA、Lenovo Yogabook、HP envyと2in的に使えるやつを渡り歩いてきたんですが、最近気づいたことがあって、特にタブレットとして使いたい場面がそんなにないんですよ。基本はスマホで事足りるし、電子書籍もそんなに読まないし、PC使うなら文字打ちたいからキーボード使うし、なんならこの前のAmazonPrimeDayの時のノリでKindleFire買っちゃったし。

 なんでもうコスパのコスに優れてそうなノートPCを適当に買えばいいんじゃね? どうせまたいずれ踏みつぶしてしまうかもしれないのだし。おれは触れるものみな傷つけてしまう哀しき巨人なのだから。

 

 ほんでAmazonでぽちりました。

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TECLAST f7 plus2

 TECLASTくんです! 誰だお前! 知らねえ~~!!

 Amazonのスポンサー枠で出てきた製品で非常に怪しんだのですが、タブレット系端末で台頭してきている中華メーカーのようですね。

 メモリ8GBのSSD256GB、CPUはCeleronですがまあゲーミングPCにするわけでもなし、文字打ち、office、ニコニコ動画RTA鑑賞くらいしかしないライトユーザーのおれにとっては特に問題ありません。14inchで1.3kgとお膝の上でも快適に使えそうで、何より値段が35,000円。やっす。二週間くらい断酒絶食すれば元取れますね。二週間霞だけで暮らそ。星になったENVYちゃんへの弔いのために。

 

 ほんで今朝届いて、試運転がてら今これを打ってます。動作はそれなりに軽快、思った以上に重量も軽い、打鍵の感覚は少し深めでかなり好み。筐体はプラですがシンプルなシルバーの仕上がりでめちゃ安っぽい感じはしない。キーボードが日本語配列でないからややわずらわしいのが難点。まあ総合的には文句ないです。ここまでは。

 最大の誤算があったことを除けば。

 

 触れません。

 

 触れられないんです

 

 要はディスプレイがタッチパネルじゃないってことで、ここについてはもう下調べしていなかった俺が悪い。今時PCはすべてタッチパネルじゃろ、なんて思いこんでしまっていたんですね、なまじ今まで2in1ばっか使っていたから。

 とりあえずBluetoothマウスは持ってたので接続して、問題なく使えてはいます。だけどふとした時、つい手を伸ばしてしまう。画面へ。画面の向こうへ。触ろうとしてしまう。何も返ってこないのに。

  液晶タッチパネル。触れたら反応を返してくれる、その相互作用を持って現実社会と情報社会を融和する、あたたかなコミュニケーションをもたらす魔法の鏡。それが今では彼我を別つ壁になってしまった。僕は手を伸ばす。壁は何も応えてはくれない。冷酷な拒絶のみがそこにある。あなたに触れたい、でも触れない。この悲しみは、ああそうだ、昔失恋した時と同じ種類の哀しみだ。もう二度とあの子の柔らかな手に触れることはできないのだろうと思うと、その喪失の大きさに僕は慟哭したものだった。今、僕の頬を同じ熱い涙が流れている。冷ややかな液晶ディスプレイは改めて僕と社会の断絶を示し、一人老いていく僕の孤独を詳らかにしてしまった。僕は泣いている。僕が失ったものすべてに。それから、僕がこれから失うであろうものすべてに。僕は慟哭し続けている。

 

 

 大きなものを買うときはきちんと下調べをしようね!

 お兄さんとの約束だぞ!!

薬味の話

 薬味が好きだ。ネギが、しょうがが、シソが、ミョウガゆず胡椒が、もみじおろしが好きだ。薬味って言葉の意味を理解していないけど好きだ。なんか薫り高くアクセントになるものとしか思っていないけど好きだ。胡椒は薬味か? 胡椒はスパイスか。パクチーは薬味か? パクチーはハーブよりな気がする。ティーになればハーブだと思うパクチーティーってあるのか? でもジンジャーティーがあるからこの理屈だとしょうがもハーブになってしまう。ダメ。あなたは薬味でいて。そんな曖昧模糊とした薬味全般が僕は好きだ。ただしパクチー、てめーはだめだ。

 薬味を乗せる。それも多めにだ。冷ややっこにたっぷりのしょうがとみょうがを。アボカドにきつめに溶いたわさび醤油を。水炊きのお椀に、ポン酢と柚子胡椒と紅葉卸を。あぶったカツオに、少しばかりのニンニクを。眠れない夜にあなたの左手の温かさを。夜明けの海にかがり火を。観客のいないコンサートに、割れんばかりの拍手を。薬味、薬味、薬味を。薬味よ、われらの世界を彩り給え。

 よく行く店。丸亀製麺と、横綱ラーメン。聡明な皆様はお気づきのことでしょう。どちらもねぎをのせ放題。トングでネギをつまみ、乗せる、乗せる、乗せる。ネギはおおむね三乗せするのが良いとされている。四では死を連想するため縁起が悪く、二じゃちょっと物足りない。
 三乗せされたネギはちょっとした小山だ。讃岐富士くらいの小山だ。それを崩す。スープ/だしに沈め、麺を引きだし、ねぎを絡めながら麺を吸う。葱の食感がアクセントとなり、うまし。また、スープ/だしを吸いこんでしなやかになじんでいくネギの経時的変化も見過ごすべきではない。当初はシャキシャキとしていたネギも、スープの手にかかればしなしなだ。入社三か月で当初のフレッシュさをもう全て奪われる新入社員のことを思わせる。へろへろの新入社員を想いながら僕は麵を吸う。葱を食う。どっちが多いのかもうよくわからん、麺を食っているのか、ねぎを食っているのか、よくわからなくなってくる。今ここで僕ははざまにいる。うどん/ネギ、ラーメン/ネギの境目に。その境界線はみなが思うほど明確なものではない。あいまいで、まじりあっている。葱とうどんが、ねぎとラーメンが混然一体となってせめぎあう領域、僕はその中に立って飯をむさぼる。葱の力場を感じ、麺のポテンシャルに足をひかれながら、その流動的な麺/ネギ界面の律動を楽しむのだ。

 食い終わってから気付く。俺が食べたのは薬味を乗っけただけのうどん/ラーメンではない。薬味とうどん/ラーメンが高度にせめぎあい交じり合う、そういった一つの領域を食べたのだ。薬味とは単なるアクセントではない。食の中に入りこみ、食のエンタメ性を呼び起こす起爆剤なのだ。薬味と食は一体なのだ。

 

 思うに人生もそうかもしれませんね。

 平常な生活=うどんに刺激ある娯楽=薬味をのせて僕らは日々をすごしていますが、この娯楽=薬味をより積極的に生活にとりこんだほうが、僕らの生活もより刺激的でおいしいものになりますものね。

 

<ドンンドンドン!! 警察だ開けろ!! いまこの部屋で、特に意味のない話を無理やり人生に結び付けて教訓を得ようとしている奴がいるという通報が入った!!

 

 警察が来ました。ぼくはここまでです。ありがとうございました。

まぜのっけごはん朝食の話

 早起きしてすき家のまぜのっけごはん朝食を食べたから、今日は一日元気でした。

 

 まぜのっけごはん朝食。350円で牛小皿、温玉、オクラ、かつお節、ごはんに味噌汁がついてくる。紅しょうがと七味もかけ放題。完全栄養食だ。炭水化物、野菜類、タンパク質、全てがそろっている。これだけで生きている。ある国にはまぜのっけごはん朝食だけを食べて100歳を超えた老人がいた。仙人が霞だけを食って生きているのは、実は霞が混ぜのっけごはん朝食の隠語であるという説がある。無作為に選ばれた人々をまぜのっけごはん朝食だけで生活したグループと家系ラーメンだけで生活したところグループに分けたところ、後者のほうがより早く味に飽きた。エヴァ劇中でシンジ君が食っている固形物プレートは、未来のまぜのっけごはん朝食の進化系である。ほかの朝食が「納豆朝食」だの「焼き鮭朝食」だの名乗っている中、まぜのっけ朝食は「まぜてのっける」という行為を名前に冠しており、混ぜて乗っけるものをすべて包括するその概念としての位階も凡庸な朝食どもとは一線を画すといえるだろう。

 

 僕がまぜのっけごはん朝食と出会ったのは僕が学生の頃だったから、もう10年ほど前にもなるのだろうか。家から大学まで遠かった。研究室で寝ることがあった。飲み会の後に友人宅に泊まることがあった。そんな朝、僕が食べる朝食は決まっていつもまぜのっけ朝食だった。味、ボリューム、口に掻き込みやすいその特性。すべてが申し分なかった。まぜのっけごはん朝食は僕の胃を優しく満たしてくれた。

 学生を卒業してからも、たびたび僕はまぜのっけごはん朝食を食べた。例えば実家へ帰る6時間のドライブのさなか、仮眠をとったパーキングエリアでの起き抜けに。ふと思い立って朝日を見に行こうと山に登った、その帰りに。明け方に伊勢の海を見に行こうと車を走らせた、その夜明けに。僕の中でまぜのっけごはん朝食は、早朝のすがすがしい空気と密接に結びついていた。目覚め行く街と、半ばまどろんだ僕。そんな僕を起動し、街と接続するためのツールとしてまぜのっけごはん朝食は機能した。僕はまぜのっけごはん朝食を通して世界とつながり、世界を覗いていたのだ。

 久しぶりに食べたまぜのっけごはん朝食も、やはり明け方の味がした。おいしかった。結局のところ、こういうものが一番うまいのだ。良い肉や魚、高い酒、美技の限りを尽くした高級料理。もちろんそれらもうまいのだが、まぜのっけごはん朝食とはベクトルが違うのだ。生活に根差したうまさ。僕らの身体を支えるうまさ。そんな実感を伴ううまさは、まぜのっけごはん朝食が一番だ。最後の晩餐を想像する。明日死ぬ、そんな日に、何か好きなものをなんでも食べられるとして、僕はまぜのっけごはん朝食を選ぶだろう。

 

 え?

 最後の晩餐サービスで無料?

 こっちのページのやつも頼めるんすか?

 

 すみません、まぜのっけごはん朝食やめて、こっちの季節の海鮮丼(特上)お願いします。

 

 

でけ~剣を振るう話

 モンハンライズを始めた。初めてのモンハンだ。
 うちのハンター、「ポンコツお凛」は大剣を主にぶん回している。
 武器種類が多すぎて操作方法も各々にあってよくわからなくて、いろいろ考え、合理的に導き出された最強の武器が大剣だったのでお凜は大剣を背負った。すなわちこういったロジックだ。

 ①小さいよりは大きいほうが強い

 ②刺す斬る殴るでいうと斬るが一番すごい

 ③遠距離からチクチクする奴は性格が悪い

 ④爆発したりするのはなんか怖い

 ⑤変形機構は武器にとって致命的な脆弱性になりかねず、
  野蛮な機能については可及的に単純で剛直な構造で実現するのが妥当な技術的判断といえよう

 ⑥笛で殴るなよ

 そういうわけで凜ちゃんは大剣をぶん回している。

 ポンコツなので回避を繰り返してはその隙を突かれぶっ飛ばされて絶命する。おれは「凜ちゃ~ん!」と悲鳴を上げる。俺きっしょ。凜ちゃんは息を吹き返す。凜ちゃんは諦めない。何度でも立ち上がる。再びモンスターに挑む。凜ちゃんは飛翔する。空中からのため攻撃を狙う。突進を合わせられてまたすっ飛ぶ。それでも目の前の強大な敵に立ち向かうことを止めない。だからこそ、お凜はポンコツでありながら、凄腕のハンターなのだ。失敗にとらわれず、歩みを止めないこと、それが頂へと至る唯一の道なのだ。がんばれ凜ちゃん。あとオトモガルクに「月に吠える」って名付けてるんだけどこれ正直めちゃくちゃ格好いいと思う。名詞で終わらない名前良いですよね。多分こいつは元々ボロボロの孤独で孤高な野良犬だったのが、何らかの恩義を凜ちゃんから受けてそれを返すためについてきてくれてるんだろう。

 

 俺も大剣を背負っている。それは心の大剣であり、実物の大剣ではない。実物の大剣は銃刀法違反で捕まるから。そのため心の大剣だけ背負っている。

 思えば俺はずっと心の大剣を振るってきた。ガノンドロフが横スマッシュをし、リンクが王家の大剣でぐるぐる回って厄災でぼこぼこにし、2Bも白の約定をぶんぶん振り回し、Enter the Gungeonではブレット君ばっか使ってきた。

 でけ~剣は強い。ただそれがでけ~剣であるが故に。

 でけ~剣はロマンだ。ただそれがでけ~剣であるが故に。

 でけ~剣は格好いい。ただそれがでけ~剣であるが故に。

 でけ~剣。それは俺の子供心の象徴であり、大人になり切れない俺の心が社会に突きつける反骨精神なのだ。

 でも思い出してほしい。あなたの心にもあったはずだ。燦然と輝くでけ~剣が。忘れないでほしい。過ぎ去りし幼年期、あなたにFF7クラウドが与えた影響を。雨の上がった帰り道、まだ水滴のついた傘を頭上で振り回し、クラウドの勝利ポーズを真似したあの時間を。え、うそ、真似したことねーの? 放課後何して生きてたの?

 そういうわけで、俺は今日も心の大剣を振るっている。もしあなたがすっかり子供心を失ってしまっているというのなら、もう一度だけ大剣を振るってみてほしい。その時、あなたの心は輝きを取り戻すだろう。あの頃のように無垢な気持ちで、この現実を覆う薄暗い靄を振り払い、明日への道を切り開くことだろう。そうして皆が大剣を恐れずに振るっていけば、いつの日か訪れることだろう。大剣が合法化され、往来で大手を振って大剣を振るえる未来が。

 

 別にそんな未来求めてなかったわ。

 モンハンフレンド募集中です。初心者ですがよろしくおねがいします。

パッツパツなジーパンを買ってしまう話

 数学の三大未解決問題は、P≠NP問題、リーマン予想、古着で買ったジーパンのサイズ外しがち問題と言われています。言われてるったら言われてます。言われてるんですよ、知らないの?

 そうなんですよ、またやってしまいました。

 フリーマーケットでノリで買ったジーパンが、パッツパツで入らないの。

 元々はmark jacobsのシャツが欲しくてですね。抱き合わせで安くならないかと左手にmark jacobs右手にジーパンで交渉してみたんですよ。安くしてくんないの。シャツ1,000円にジーパン1,500円。合計2,500円。わーお、簡単な算数だぜ。ほなシャツだけ買えば良いやんと思うやないですか。そうなんですよ。そうなんですよね。本来はそうすべきだと思います。でも人間は常に理非的であれるとは限らない。なんとなく買っちゃった。両方。理非じゃないですね。非理非ですね。でもだからこそ、人間は愛おしい。だから俺を愛してくれ。俺もあなたを愛するから。

 で、パッツパツなんですよ。

 頑張ればケツは収まるんです。でも太ももがパッツパツなの。プリップリなの。旬の寒ブリくらいプリップリ。このまま歩くと旬の寒ブリが二尾歩いてると思われちゃう。旬の寒ブリが二尾、道路を歩いてみてくださいな。スシローに狩られちゃいますよ。さばかれて挙句に今月の太鼓判行きですよ。それは嫌でしょう? そうでもないか。そうでもないな。今月の太鼓判って褒められたら、結構嬉しいかもしんないな。

 で、どうするか。

 1,500円。

 諦めるには惜しい金額じゃないですか? 寒ブリ15皿食えますもん。

 なので僕、ダイエットすることにしました。

 もともとしばらく引きこもってたせいで体重6kg激増しましたし、最近腰痛でちょっとさぼり気味だったんですけど、でもしっかり運動して元の体重に戻せば、多分普通に履けると思うんですよ。腰回りは普通に入るから、腿の肉さえ落ちればいいんです。俺は決めました。このジーパンを無駄にはしない。1,500円は、何かを始めるには十分すぎる金額だ。ダイエットするぞ。走るぞ。俺はやるぞ。

 ダイエットは思い立つまでが勝負です。

 やると決意できたならほぼ瘦せたようなもん。

 なのでほぼ痩せた自分をお祝いするために、新商品のスプリングバレーを二缶とおつまみをいろいろ買いました。

 合計だいたい1,500円。

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美味そうである

  1,500円は、何かを諦めるには十分すぎる金額だ。

虚無を解体する話

 

 外の世界にそれはない。

 心の中に虚無はある。

 

 虚無は誰の心の中にも眠っている。大なり小なりの程度の差はあれど。僕の中にも。あなたの中にも。虚無は心の奥底に潜み、鎌首をもたげて狙っている。あなたが虚無に気付く瞬間を。あなたが気付いたそのときに、虚無はあなたに飛び掛かるだろう。一度あなたを捕らえた虚無は、あなたを締め付けて離さないだろう。例えばそれは、あなたが作り上げてきたものなんて一瞬で崩れ去ると気付いてしまったとき。生き物は簡単に死ぬと気付いてしまったとき。努力も才能も等しく風化すると気付いてしまったとき。社会のアルゴリズムの中では一個人の意思など何にも通じないと気付いてしまったとき。そのとき虚無はあなたを飲み込み、そしてあなたは二度と虚無の腹の中から抜け出すことは叶わないだろう。あなたのすべてが無意味なのかもしれないという恐れが、ずっとあなたを縛り続けることだろう。

 僕が虚無に食らいつかれたのは学生時代、特に大学院生のときだった。部活もちゃんとやれなかった、バイトも半端だった、院試にも失敗した、次々と転び続けていた僕に、研究の悪進捗はとどめを刺した。虚無は僕を捕らえ、たやすく無気力の沼に引きずり込んだ。僕はそこから抜け出そうと何度ももがいた。時々は息継ぎができた。しかし溺れている時間は段々長くなっていった。

 僕は虚無に対処しようとした。虚無に向き合おうとした。思えば、ブログを書き始めたのもそのころだった。「げんふうけい」や「ブーンは歩くようです」からの影響で、創作をしようと思った。それを新たな自分の立ち位置にしようと思った。虚無から抜け出して確固たる自分の足場を作るために、僕は何かを言わなければならないと思った。何かをわからなければならないと思った。何かにならなければならないと思った。そしてその何かは全く具体的なものではなかった。僕は何も目指せてはいなかった。物語を想像するのは楽しかったが、強迫的な「書かなければ」という意思は、しかし僕を虚無の中へとさらに蹴り飛ばした。いくつかの物語を思い描いた。だけどそれらはほとんどがちゃんと形にならなかった。僕の思考は稚拙だった。僕の想像は稚拙だった。僕の文章は稚拙だった。それらは決して僕の足場たりえず、僕は不安定な虚無の砂の中により深く埋まっていった。

 僕が今まで細々と書いていた物語の多くは、この時に原型を思いついたものだった。絵空事、野良兵器、天使。あとまだ書いてないけどサイクロタウンの終盤。どいつもこいつも判を押したように「虚無感、停滞感からの脱出」のモチーフを使いまわし、何年かけても上達も見られず、それらは上っ面だけが取り繕われたいびつな張りぼてみたいで、読み物として誇りをもって完成させることはちっともできなかった。

 就職した。数年たっても仕事に自信と誇りを見いだせなかった僕はなおさら広大な虚無の中で溺れた。そこから逃げ出そうとして、転職した。今度の職場は比較的温かく、僕は少しずつ、顔を出して息をする方法を思い出した。虚無の中から抜け出せると思った。だけどやっぱりまた虚無は僕を飲み込んだ。去年の春。僕は完全に虚無の中に沈んだ。仕事に行けなくなった。少しでも生きる糧を、とその少し前から飼い始めたペット達も、だけど僕の心をほぐし切らなかった。もう全てが面倒になった。全てが楽しくなくなった。酒と油を馬鹿みたいに摂取して、できるだけ早い段階でくたばろうと思っていた。この先の人生における期待値がマイナスになると理解してしまう日がそのうち訪れるだろうと思った。そしてその時に僕は自分で自分を終わりにするだろうという確信があった。もうそれでいいと思った。僕は虚無の中で目を閉じた。

 

 それから10か月ほど休み続けて、今に至る。

 この期間、僕は虚無に対処することを諦めた。

 そして皮肉なことに、その結果として僕の虚無は少し小さくなった。

 年明けから復職の支援を受け始めた。

 その助けを借りて、僕は虚無を解体し始めた。

 

 結局のところ。虚無に向き合おうとしたのがそもそもの誤りだった。それは底なし沼のようで、ブラックホールのようで、メデューサの瞳のようで、立ち向かうものを決して離さないのだ。自分から溺れに行くようなものだった、そして、事実、僕は好んでそうしていたのかもしれない。虚無的感覚はもはや僕の一部になってすらいたのだから。その一部に僕は食らいつくされそうになっていたけれど。

 虚無から離れる方法。考えてみれば単純だった。目を反らして見ないふりをすることだ。できれば他の物事を見ることに集中する。傍らにある虚無は消えないが、やがて少しずつ存在感は減る。少しずつ、でも確かに。

 僕はようやく虚無の腹から上半身を這い出せた。周囲の助けの手をやっと掴むことができた。それを支えに、僕は振り返った。虚無はまだそこにあった。だけど引きずりこまれることは、今はなかった。

 僕は虚無と改めて向き合った。だけど虚無全体と対峙することはもうしなかった。僕は虚無を少しずつ切り取った。切り離した虚無の一部分にラベルを貼った。そして傍らにそっと置いた。

 それは単なる挫折だった。

 それは単なる大きな目標の喪失だった。

 それは単なる自信の喪失だった。

 それは単なる心の閉鎖だった。

 それは単なる認識のゆがみだった。

 それは単なる拗ねだった。

 それは単なる意思発信の不足だった。

 それは単なる愛情の不足だった。

 それは単なる日光の不足だった。

 それは単なる運動の不足だった。

 それは単なる笑顔の不足だった。

 一つ一つは、対処できないほどの大きさではなかった。そいつらが全部一緒くたになって、巨大な虚無の塊を形成していただけだった。僕は虚無を解体していった。解体している途中だ。今もなお。

 虚無が消えたわけではない。まだ残っている。だけど、小さくはなっている。バラバラになって分散したそれに、僕をすっかり飲み込んでしまえるほどの大きさは、今はない。

 強迫観念は鳴りを潜めた。僕は何も書かなくていい。僕は何にもならなくていい。何にも強制されないし、そもそも強制されてなどいない。すべきことなど何もない。社会にいるために適当に税金納めりゃそれでいい。税金納めるために適当に働きゃそれでいい。地位も名誉も社会的成功も僕には必要ない。多少のお金と、暮らしを満足させる要素のいくつかが必要なだけだ。

 傍らに虚無の種がある。それも山ほど。気を抜けばそれらはすぐ融合し肥大化し成長しようとする。だけど今は大丈夫だ。虚無の種にはラベルが貼ってあり、僕はそれにより虚無の種を個別に認識できる。認識できれば再び切り離すことができる。虚無を解体する術を僕はなんとなく身に着けた。

 僕はおそらく完全に元気にはならない。虚無に気付かなかった頃にはもう戻れない。それでも、暮らしていくことはどうにかできそうだ。僕は虚無とともに生きる。そうするしかない。バラバラに解体された虚無と、どうにかうまく折り合いをつけながら、僕は日々をやり過ごしていく。