ひらがなを投げる話

 ひらがなの「く」を投げたいと考えたことの一度や二度くらい、誰にとってもあることでしょう。投げた後の軌道が簡単に想像できる。くるくると回りながら手元に戻ってきて、きっと楽しい。何故ならば「く」、見た目がほぼほぼブーメラン*1である。同様の理由で「へ」も投げたい。この二つは投げたいひらがなランキング不動のツートップだろう。
 あと「し」や「つ」も結構戻ってくるだろうし、鋭い鉤爪がついていてより殺傷力が高そうである。刃のブーメラン*2である。投げたい。「も」に至ってはもう敵をズタズタに引き裂いてしまうであろうことが想像に難くない。攻撃力は最強クラス。つまりは炎のブーメラン*3である。めっちゃ投げたい。

 *1:投擲武器の一種。アボリジニが狩猟用として用いていたことで有名。紀元前のアッシリアでは兵士の標準装備とされていた。なお、投げても戻ってこないものは「カーリー」と呼ばれており、ブーメランとは区別されるべきである。ドラクエでは敵全体にダメージを与えることができるので、強い。
 *2:どうやってキャッチしているのだろうか。
 *3:どうやってキャッチしているのだろうか。

  さてこのようにひらがな投げたい界隈の中では「く」や「へ」や「し」や「つ」ばかりがちやほやされるわけですが、実際のところブーメランが戻ってくるのに大事なのは上から見たときの形状ではなく断面の形状であることは、ブーメラン運動に必要なのが揚力であり、揚力のトルクが角運動量をなんちゃらかんちゃらして回転面が進行方向にどうにかこうにかすればよいという簡単な力学より分かります。要するに、意外や意外、別に「く」や「へ」だけではなく、投げようによっては「あ」も「ぬ」も「れ」も全部戻ってくるらしい。

 そこで魔が差した僕、おもむろに「な」を手に取る。「やめろって!」とひらがな投げ仲間の友人が制止してくる。「それに関しては戻ってくるとかこないとかじゃないって!」

 うるせーやーい、と僕は手首のスナップをきかせ、「な」を勢いよく空中に放り投げる。一瞬で「な」はバラバラになり、突如吹いた強風に煽られてどこかへと消えていく。この瞬間、「な」はこの世界から失われてしまったのだ。僕がひらがなを投げたい欲求を抑えきれなかったばかりに。

 「なんてことをしてしまったんだ……」と僕は自分のしでかした悪行を反省するがもう遅い。「な」は既に失われてしまったので、先ほどの反省も「 んてことをしてしまったんだ……」になっている。何かがおかしいことに気付いた人たちが「なんだなんだ」と騒ぎ始めるが、これも「な」が失われているせいで「 んだ んだ」となり、田舎者が大量発生する結果となる。

 慌てて僕は四散した「な」の欠片を拾い集めに駆け出すが、先ほどの強風のせいでどこへ行ったか分からない。汗まみれの泥だらけになってようやく「な」の下の部分を見つけたと思ったらそれは野生の「ょ」だったので僕は「ょ」を思い切り蹴り飛ばす。「ょ」は泣き声を上げて逃げていく。

 「な」をもう一度作り出そうとしても、もうその姿が思い出せない。僕はペンを投げ捨てて白い紙をグシャグシャに丸め、「きみのなまえは……っ!」と慟哭するが、それもやはり「な」が失われてしまっているせいで「君の前は」になっているのでさっぱり意味が通らない。

 こうして僕は「な」を探しながら生きていくことになる。「な」の面影を、僕は常に追い求めている。向かいのホーム。路地裏の窓。こんなとこにいるはずもないのに。

 「な」と再会できぬまま、僕は年老いていく。もう何を探していたのかすらもおぼろげな記憶となってしまったが、妙な空虚さが胸のうちから離れてくれないのだ。この心の穴を埋めてくれる形を、僕は死ぬまで探し続けるのだろう。

 

 それからというもの人類は「な」の無い世界の中で暮らしています。「な」は「は」や「ま」などで代用して、何とかうまくやっているそうです。

 それでも50音表の中で不自然に空いた「 にぬねの」の行を見るたびに、人々は何故だか胸が締め付けられるような気持ちがするのです。

 

 

○参考文献

1.「力学」青山秀明、2008、学術図書出版社

2.「ドラゴンクエストV 天空の花嫁 公式ガイドブック 下巻 知識編」1992、エニックス

3.「one more time, one more chance山崎まさよし、1997、ポリドール・レコード

4.


「君の名は。」予告

5.


【お笑い・コント】バカリズム「順位に関する案」