泳ぐこととリズムの話

 ひと月に一回は泳ぎに行っている。現役から長く離れ、意図通りの泳ぎができなくなって久しいが、それでも一応。

 クロールを泳ぐとき、僕は二掻きに一回呼吸をする。その間に四回キックを打つ。おおよそのところ。左右の偏りを調整したいときには三掻きに一回の呼吸にしたり、もっとゆったり泳ぎたいときはキックは二回になったりする。水泳用語では左右二掻きの一連の動きをストロークと呼び、一ストロークの間に何回キックを打つのかをツービート、フォービート、シックスビートと呼んだりする。エイトビートで泳ぐ人は寡聞にして聞いたことがない。つまるところ、僕の動きはフォービートだ。

 フォービートといっても、均一なペースで四回キックを打つわけじゃない。そこには強弱が存在する。水泳では息継ぎの瞬間、ここでスピードを殺さないことが一番重要なので、息継ぎの手前でキックを強く打つ。たっ、たっ、たっ、だん(息継ぎ)。たっ、たっ、たっ、だん(息継ぎ)。だん、の強いキックで、腰を浮かせ、抵抗を受けないようにしながら呼吸する。これがフォービートのコツ。これができなくなったら体力か筋力が限界なのでもう退場する。僕には身体能力も努力の才能もなかったため、水泳成績は中の下くらいのものだったが、このリズムを語る資格くらいはあるだろう。これは関係のない一文だが、プールを退場するときに僕はプールに向かって一礼する。ありがとうございました(関係のない二文目)。

 

 リズムは大事だ。心地よいのが好きだ。水泳しかり、音楽しかり、そして文章しかり。書くときに何に一番気を付けてるかと言ったら、リズム以外の何物でもない。文章のリズム。テンポよく句読点が継がれ、そして話が進んでいくこと。かなり感覚的な話だけれど。一文の長さは40文字くらいが適当、みたいな話をどこかで聞いたことがあるが、たぶん僕の文はそれよりも圧倒的に短い。前の文を数えてみたら55文字だったのでやっぱり嘘かもしれない。文字数に囚われて書かれた文章がいいものになるとも思えないけれど。

 その昔、ブログに書いた文章の中身がまるまるパクられたことがある。文章は丸コピにはならないように適度にアレンジされていた(何対策だよ)。この件については僕は「パクられるほど面白いと思ってもらえるなんてヤッピー」程度にしか思っていなかったのだけれど、パクり先の文章を読むと、それはもう恐ろしくつまんなかった。僕が好きなリズム、それが完膚なきまでにぶっ壊されていた。それ以来、リズムって大事なんだなーって自覚的になった。気付かせてくれてありがとう、あのパクリって何がしたかったの??

 泳ぎと一緒なんですよね、要するに言いたかったのは。キックを打つように単語を打って、息継ぎするみたいに句点を打つ。ついでにいうなら、クイックターンみたいに話題を変える。文章を書くリズムは泳ぎのリズムと一緒。少なくとも僕にとっては。それだけは忘れないようにしていきたい。

 

 文章の情報量、みたいなことをサウナに入りながら考えてたことがあって。サウナはこの先関係ありません。より短い文章でより情報を伝えるためにはどうしたらいいか。一時期、優れた文章はより多くの情報を伝えうる、みたいに考えてたんですよね。例えば以下の文章を比べてみる。
「水はH2Oだ」
「水は命だ」
 この時どっちのほうが情報量が多いですかね。水の分子構造を伝える端的な文章と、水を(おそらく何らかの意図をもって)命に比喩する文章。僕は下かと思っていたこともあったんですが、たぶんそれは誤りで。下は文章から読み取れる何らかの意図、文章の及ぶ「意味空間」みたいなものが広い代わりに、伝達効率が圧倒的に悪い。範囲が広いだけで、何が言いたいのかよくわからないからね。上は分子構造を伝える意図しか持たない分、伝達効率が非常に良い。つまりはこの「意味空間」×「伝達効率」=「情報量」みたいな公式が成り立つとすると、同程度の長さの文章が有する情報量って結局同じなんじゃない? みたいなことを考えてました。

 もちろんこの公式は明らかに正しくなく、文章の長さが情報量を左右することも自明です。「意味空間」の定義とは? 伝達効率をいかに定量化する? サウナに入ったって文章、明らかに無駄だし省いたほうがいいんじゃない?

 個人的には僕、たぶん伝達効率を上げる書き方のほうが得意なんですよ。でも憧れるのはその及ぶ空間を広げるような文章であって。ここに妙なジレンマがある。反比例の関係が成り立つとは思わないけれど、ある種のトレードオフみたいな部分はあると思うんですよね。ビジネス的な文章と随筆的な文章の両立は難しいだろうし。あと「伝達効率を上げる」って、ビジネス自己啓発染みててすごいヤダ。無駄があったっていいと思うんですよ。サウナの情報があったほうがリズムが良くなってない? 別になってないかな。

 

 ちょっと前にthe pillowsのライブに行ったが、ギリ半分くらいしかわからなかったのがショックだったので今聞きこんでる。please, Mr. lostmanとか死ぬ前に一度は生で聞きたいな。一度は生で聞きたいと言えば、推しバンドのpeople in the box。頼むからライブで親愛なるニュートン街のを演ってくれ。一度でいいから頼むから。

 

Dig that groovy! Mr.Droopy
Can you dig more deeply?
Dig that groovy! Mr.Droopy
By the way, why is it dug?

                                          Mr. Droopy/the pillows

 

 リズムが狂ってきたので退場のタイミングです。ありがとうございました。

振り出しに戻る話

 はい出ました。休職です。2月の中頃から。いったい何回目で、どれだけの期間こうなってんだ? 社会人失格の烙印を押されても仕方がない。シャチハタで用意しておいてほしい。そこら中に押すからさ。落伍者の認め印を。

 うつ病だと心療内科医は言った。うつ病ですと僕は連絡した。だけどこれが本当にうつ病なのかどうか、僕にはわからない。今の会社は嫌いじゃない。人にも環境にも恵まれているといっていい。なのに何にそんなに気が滅入ることがある? A.会社は生活の大部分であっても、生活の全てではないから。答えは分かっていた。僕は生活に滅入っている。

 体が震える。めまいがする。トンネルの中を走り続けているような耳鳴りが聞こえる。脳の配管に汚泥が詰まっていて、ジェネリックになったレクサプロで流しきれないほどにこびりついている。「頭に鉛が詰まっているような気分だ」と僕は言う。実際これが一番的を射た比喩だと思っている。

 休職して何をしているか、もちろん、何もしていない。なぜって、生活に滅入っているから。特にやりたいことがないから、ただひたすら眠っている。面白くねーもん。テレビも動画もゲームも漫画も小説も、全部。面白さを感じるアンテナがへし折れているといったほうが正しい。頭に何も入ってこない。だから眠る。昨日は何時間寝たっけ、0時から朝の11時まで寝て、昼間も意識があることに飽きたから13時から15時まで寝て、何かへの言い訳のように10分だけ散歩して、そして20時から12時間眠った。ヘドロになったような気分で、僕はひたすら惰眠をむさぼり続ける。ヘドロに気分があるのかどうかは別として。この眠りがうつ病のせいなのか、処方されている薬の副作用のせいなのか、僕には何もわからない。「全部つまんね~!」と叫びながら僕は布団と毛布にくるまったが、つまらないのが全部ではなく僕のほうだということだけがわかっている。

 

 買ったんですよ、ほしくなって。まだもう少し正常だった1月に、ワイヤレスヘッドホンと、ハンドベルトゲーミングPC(スイッチみたいな形状しているポータブルPC)。より正確に記すならBowers & WilkinsのPx7 S2と、ASUSのROG Ally。なーんかほしくなってね。購入しました。特にRog Allyはね、その時Skulにはまってましたから。似たようなゲームをもっとやりてーってなって。
 今全然使ってない。音楽を聴くのもゲームをやるのも面倒くさいので。
 ガジェットってほしくなって情報調べてる時が一番楽しいんだよな。

 

「出かけたほうがいいと思う」とここに至っても親切にしてくれる上司はありがたく助言してくれる。わかっている。家にいたってマシな気分にならないのは。でもさ、外に出る気持ちにすらなれないんですよ。これがうつのせいなのか、ただ自堕落なだけなのか、やっぱりぼくにはわからない。

 

 残念ながらまだ僕には責任があり、生活を捨てることにはリスクとダメージがあるので、生活をする。

 

 久しぶりに更新したと思ったらこんな内容ですよ。脳のリハビリのためにたまに書こうと思います、何日坊主になるかな、明日書かないことは確定している。

許さないラスボスの話

 友人に借りていたRPGをクリアした。よくわからないがかつて人間で今は憎悪のみを宿すバケモノになったそのラスボスはひたすらに「許さない……滅ぼす……許さない……ユルサナイ……!!」と繰り返していて、その憎む対象は「ジンルイを……!」とかで広すぎて、いや何をそんなに許さないんだよお前は過激派環境活動家かよ、とか思いながら僕は、クリア前にあんまりこなすべきではなかったらしいサブイベントを経てバキバキに成長していたパーティーメンバーでそいつをぶち転がした。なんか、かつて自分を封印した人類とか全体を憎んでいたらしい。全部をぼんやり憎んでたらそりゃそんなふわふわした許さない感になっちゃうわな、と思いながらカンストダメージ叩き込まれて闇に飲まれていくそいつを見ていた。最後まで全部許せなかったらしい。

 とはいえあれですよ、みんな、なんとなく許さないぞ~って思うことくらいあるでしょ?? 例えば汁っぽいおかずを同梱しててご飯がべちゃべちゃになっているタイプのお弁当とかさ。いやこれはただの俺の好き嫌いなんですけど、まあそんな些細なこの野郎~という思いが積み重なってもう全部ぶっ転がしてやるからな、くらいまで昇華しちゃうことってないですかね。
 まあ俺にはあるんですよ。本当に特にこれといって具体的な憎しみの対象があるとかいやなことがあるとかじゃないんだけどさ。なんかもう、全部ぶっ飛ばねえかな~って思うタイミングが。
 能動的にぶっ飛ばしたりはしないけど、目の前に偶然核のボタンが落ちてたら押しちゃおっかな、くらいには思う。無辜の人たちをぶっ飛ばすのはちょっと申し訳ないけど、まあ誰も彼もが吹き飛んじゃうならもうそれは相対的な幸も不幸もないし、究極的な平和ってそうやって実現するしかねえと思うんだよ。だからもし吹っ飛ばしちゃっても俺のことを許してくれよな。

 俺は全部許さないけどさ。

 

 

 仕事の功罪。

 端的な報連相を心がけるせいで、文章に無駄がなくなっていく。文章に無駄がなくなっていくってことは、思考に無駄がなくなっていくってことだ。効率化。タスクをこなすための処理装置として最適化されていく俺の脳。デフラグされ、断片として頭に浮かんでいた千々のひらめきはゴミ箱に突っ込まれて消去される。さよなら、俺の心の無駄。余裕。猶予。余白。ユーモア。

 おかげでブログもカクヨムもおざなりだ。なおざり? どっちだったっけ。まあいいや。仕事が順調であればあるほど、俺の思考はコンパクトにまとめられ、放出される+αが少なくなっていく。考える量は学生の時より新卒の時より仮ニートってたときより多くなっているのにね。かろうじて日常の会話ににじませるユーモアで俺は俺の感受性を保っている。「ご協力助かります、アライグマタスカル」とかをメール文末に潜ませることで。いや、これ誰かほかの人がつぶやいたやつだろ。借り物のユーモアに頼っている時点で俺はもうおしまいなのではないか。

 音楽を聴く。まだ音楽を心地よいと思えて、それに俺は安心する。

 音楽が染み込める隙間。それが心から失われたとき、俺はもう終わりなのだと思う。そうなったら君が俺を殺してくれ。俺に感性が残されているうちに。政治と芸能ニュースへの文句しか言わないようなおっさんになる前に。

 明かりもテレビも点けたまんまで  疲れて眠ってしまった
 行けもしない旅行の計画を    浮かべながら
 月でも城崎でも何処へでも   飛び交うトラベルプランは
 寝て起きたらいつもの朝が来て    忘れちゃったよ

 

       トラベルプランナー/ハヌマーン

 

最近はけっこう元気ですよ~って話

 驚いたことに、近頃仕事が楽しい。前職や転職直後の自分のときには考えられなかった事態だ。あの当時は職場に身を置いていることそのものが負担になっていて、なんとかして仕事さぼりてえな、自分に全く非がなくて仕事にちょうどいけなくなるくらい適度なけがを負う程度の事故に巻き込まれないかな~と毎日思っていた。

 ところが最近は出勤が苦にならない。仕事は忙しいしだるいし頑張らないといけなくて面倒くさいが、その分きっちり成果を出している感覚がある。アウトプットが出せるから、周りからもそこそこ評価してもらえ、その分前向きに仕事にも取り組めるのでまたアウトプットも出せる。好循環である。PDCAサイクルである。インフレスパイラルである。もしかして、好循環があるということは、悪循環というものも存在するのではなかろうか。仕事がうまくいかないから叱られて委縮してまたうまくいかなくなる的な。おれは聡いのですぐ類推できてしまう。好循環が存在するということから悪循環が存在するということが直感的にわかるのだ。その昔、部活で遠征に行ったときに、乗り継ぎの駅の看板の「有人改札」という文字を眺めながら、マネージャーに「わざわざ有人改札と表記することから、この駅には無人改札も存在するということが推測できる」と話した。そのときの彼女の、何やら不可解な生き物を見るときのような眼差しが忘れられない。今でも寝苦しい夜に悪夢に見る。

 

 ものぐさな人間によくあることとして、おれは洗濯物を取り込んでも畳まずに山にしたまま、そこから次に着る服を抜き取る。これを繰り返していると衣服が整理できず、片方しか見つからない靴下が生まれたりする。それが複数たまってきたら洗濯物の山を解体しにかかる。

 片方だけしかない靴下が三つあったので、今朝は三か月ぶりくらいに山を片付けた。 

 結果、片方だけしかない靴下が四つ残った。

 なぜだろう。

 

 ーー靴下の片方だけがいつもなくなってしまうのは、

   両方を同時になくした場合はなくした事実に気づけないからである。ニーチェ(1888)

 

 

 仲の良い友人から続々と結婚の知らせが届く。喜ばしいことだ。数年前なら彼女のかの字どころかいい感じの人のいの字も存在しない自分と比較して少しは焦りも生まれたものだが、最近はもう自分の結婚をすっかり諦めているため、純粋に彼らの幸せを祈ることができる。彼らが幸せになりますように。いや、ごめん、ちょっと嘘だ。純粋には祈れていない。不幸を祈るわけではないが、幸福に満たされてはいないでほしい。すこしだけ不完全な幸福であってほしい。その微小な不満に対する愚痴を、一緒に酒でも飲みながら聞かせてほしい。つまりはかまってほしいのだ。一人で生きていくつもりではあるのだけれど、一人っきりで生きていく覚悟はちっとも固まってなくて、彼らの幸せを心から祈れるほどにはおれは強くないし、寂しがり屋なんだ。

触れることかなわない話

 ノートPCを新調しました。

 いや前の子に何か不満があったというわけではなくて、その子、去年買ったヒューレットパッカードのENVYってやつ、シックな筐体に木目のタッチパッドがスタイリッシュで、不満点はやや重たいくらいしかなくてかなり気に入ってまして、あと360度開くんですよね。ヒューレットパッカードだけに。パッカーンって。噂によるとヒューレットパッカードのノートPCは、大なり小なりパッカーンて開くらしいです。ノートPCをパッカーンて開けたい人にはお勧めですねヒューレットパッカード。これは全然関係ないけどヒューレット・パッカードハーマン・カードンがたまにごっちゃになる。ごっちゃになっても問題ないように勝手にくっつけとこ。ハーマン・ヒューレット・パッカードン。パッカードンて。ポケモンにいそうな感じになっちゃった。ワハハ。何がおもろいねん

 

 そんなお気にの子をクリボーよろしく踏みつぶしました。

 

 腹の上にのっけて動画見ながら寝落ち、これを毎日毎日繰り返していたおれが全面的に悪いです。

 いずれやるとは思ってました。

 朝になったらかなりの確率で、マットレスの傍ら、足を踏み出す部分に転がってましたから。

 

 まあさすがにへこんでしまいましたが、液晶画面の半分を暗黒領域が覆っているENVYちゃんはもうどうしようもないので、次代のPCを入手するしかありません。これまで私用ノートPCはASUS Transbook T100TA、Lenovo Yogabook、HP envyと2in的に使えるやつを渡り歩いてきたんですが、最近気づいたことがあって、特にタブレットとして使いたい場面がそんなにないんですよ。基本はスマホで事足りるし、電子書籍もそんなに読まないし、PC使うなら文字打ちたいからキーボード使うし、なんならこの前のAmazonPrimeDayの時のノリでKindleFire買っちゃったし。

 なんでもうコスパのコスに優れてそうなノートPCを適当に買えばいいんじゃね? どうせまたいずれ踏みつぶしてしまうかもしれないのだし。おれは触れるものみな傷つけてしまう哀しき巨人なのだから。

 

 ほんでAmazonでぽちりました。

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TECLAST f7 plus2

 TECLASTくんです! 誰だお前! 知らねえ~~!!

 Amazonのスポンサー枠で出てきた製品で非常に怪しんだのですが、タブレット系端末で台頭してきている中華メーカーのようですね。

 メモリ8GBのSSD256GB、CPUはCeleronですがまあゲーミングPCにするわけでもなし、文字打ち、office、ニコニコ動画RTA鑑賞くらいしかしないライトユーザーのおれにとっては特に問題ありません。14inchで1.3kgとお膝の上でも快適に使えそうで、何より値段が35,000円。やっす。二週間くらい断酒絶食すれば元取れますね。二週間霞だけで暮らそ。星になったENVYちゃんへの弔いのために。

 

 ほんで今朝届いて、試運転がてら今これを打ってます。動作はそれなりに軽快、思った以上に重量も軽い、打鍵の感覚は少し深めでかなり好み。筐体はプラですがシンプルなシルバーの仕上がりでめちゃ安っぽい感じはしない。キーボードが日本語配列でないからややわずらわしいのが難点。まあ総合的には文句ないです。ここまでは。

 最大の誤算があったことを除けば。

 

 触れません。

 

 触れられないんです

 

 要はディスプレイがタッチパネルじゃないってことで、ここについてはもう下調べしていなかった俺が悪い。今時PCはすべてタッチパネルじゃろ、なんて思いこんでしまっていたんですね、なまじ今まで2in1ばっか使っていたから。

 とりあえずBluetoothマウスは持ってたので接続して、問題なく使えてはいます。だけどふとした時、つい手を伸ばしてしまう。画面へ。画面の向こうへ。触ろうとしてしまう。何も返ってこないのに。

  液晶タッチパネル。触れたら反応を返してくれる、その相互作用を持って現実社会と情報社会を融和する、あたたかなコミュニケーションをもたらす魔法の鏡。それが今では彼我を別つ壁になってしまった。僕は手を伸ばす。壁は何も応えてはくれない。冷酷な拒絶のみがそこにある。あなたに触れたい、でも触れない。この悲しみは、ああそうだ、昔失恋した時と同じ種類の哀しみだ。もう二度とあの子の柔らかな手に触れることはできないのだろうと思うと、その喪失の大きさに僕は慟哭したものだった。今、僕の頬を同じ熱い涙が流れている。冷ややかな液晶ディスプレイは改めて僕と社会の断絶を示し、一人老いていく僕の孤独を詳らかにしてしまった。僕は泣いている。僕が失ったものすべてに。それから、僕がこれから失うであろうものすべてに。僕は慟哭し続けている。

 

 

 大きなものを買うときはきちんと下調べをしようね!

 お兄さんとの約束だぞ!!

薬味の話

 薬味が好きだ。ネギが、しょうがが、シソが、ミョウガゆず胡椒が、もみじおろしが好きだ。薬味って言葉の意味を理解していないけど好きだ。なんか薫り高くアクセントになるものとしか思っていないけど好きだ。胡椒は薬味か? 胡椒はスパイスか。パクチーは薬味か? パクチーはハーブよりな気がする。ティーになればハーブだと思うパクチーティーってあるのか? でもジンジャーティーがあるからこの理屈だとしょうがもハーブになってしまう。ダメ。あなたは薬味でいて。そんな曖昧模糊とした薬味全般が僕は好きだ。ただしパクチー、てめーはだめだ。

 薬味を乗せる。それも多めにだ。冷ややっこにたっぷりのしょうがとみょうがを。アボカドにきつめに溶いたわさび醤油を。水炊きのお椀に、ポン酢と柚子胡椒と紅葉卸を。あぶったカツオに、少しばかりのニンニクを。眠れない夜にあなたの左手の温かさを。夜明けの海にかがり火を。観客のいないコンサートに、割れんばかりの拍手を。薬味、薬味、薬味を。薬味よ、われらの世界を彩り給え。

 よく行く店。丸亀製麺と、横綱ラーメン。聡明な皆様はお気づきのことでしょう。どちらもねぎをのせ放題。トングでネギをつまみ、乗せる、乗せる、乗せる。ネギはおおむね三乗せするのが良いとされている。四では死を連想するため縁起が悪く、二じゃちょっと物足りない。
 三乗せされたネギはちょっとした小山だ。讃岐富士くらいの小山だ。それを崩す。スープ/だしに沈め、麺を引きだし、ねぎを絡めながら麺を吸う。葱の食感がアクセントとなり、うまし。また、スープ/だしを吸いこんでしなやかになじんでいくネギの経時的変化も見過ごすべきではない。当初はシャキシャキとしていたネギも、スープの手にかかればしなしなだ。入社三か月で当初のフレッシュさをもう全て奪われる新入社員のことを思わせる。へろへろの新入社員を想いながら僕は麵を吸う。葱を食う。どっちが多いのかもうよくわからん、麺を食っているのか、ねぎを食っているのか、よくわからなくなってくる。今ここで僕ははざまにいる。うどん/ネギ、ラーメン/ネギの境目に。その境界線はみなが思うほど明確なものではない。あいまいで、まじりあっている。葱とうどんが、ねぎとラーメンが混然一体となってせめぎあう領域、僕はその中に立って飯をむさぼる。葱の力場を感じ、麺のポテンシャルに足をひかれながら、その流動的な麺/ネギ界面の律動を楽しむのだ。

 食い終わってから気付く。俺が食べたのは薬味を乗っけただけのうどん/ラーメンではない。薬味とうどん/ラーメンが高度にせめぎあい交じり合う、そういった一つの領域を食べたのだ。薬味とは単なるアクセントではない。食の中に入りこみ、食のエンタメ性を呼び起こす起爆剤なのだ。薬味と食は一体なのだ。

 

 思うに人生もそうかもしれませんね。

 平常な生活=うどんに刺激ある娯楽=薬味をのせて僕らは日々をすごしていますが、この娯楽=薬味をより積極的に生活にとりこんだほうが、僕らの生活もより刺激的でおいしいものになりますものね。

 

<ドンンドンドン!! 警察だ開けろ!! いまこの部屋で、特に意味のない話を無理やり人生に結び付けて教訓を得ようとしている奴がいるという通報が入った!!

 

 警察が来ました。ぼくはここまでです。ありがとうございました。

まぜのっけごはん朝食の話

 早起きしてすき家のまぜのっけごはん朝食を食べたから、今日は一日元気でした。

 

 まぜのっけごはん朝食。350円で牛小皿、温玉、オクラ、かつお節、ごはんに味噌汁がついてくる。紅しょうがと七味もかけ放題。完全栄養食だ。炭水化物、野菜類、タンパク質、全てがそろっている。これだけで生きている。ある国にはまぜのっけごはん朝食だけを食べて100歳を超えた老人がいた。仙人が霞だけを食って生きているのは、実は霞が混ぜのっけごはん朝食の隠語であるという説がある。無作為に選ばれた人々をまぜのっけごはん朝食だけで生活したグループと家系ラーメンだけで生活したところグループに分けたところ、後者のほうがより早く味に飽きた。エヴァ劇中でシンジ君が食っている固形物プレートは、未来のまぜのっけごはん朝食の進化系である。ほかの朝食が「納豆朝食」だの「焼き鮭朝食」だの名乗っている中、まぜのっけ朝食は「まぜてのっける」という行為を名前に冠しており、混ぜて乗っけるものをすべて包括するその概念としての位階も凡庸な朝食どもとは一線を画すといえるだろう。

 

 僕がまぜのっけごはん朝食と出会ったのは僕が学生の頃だったから、もう10年ほど前にもなるのだろうか。家から大学まで遠かった。研究室で寝ることがあった。飲み会の後に友人宅に泊まることがあった。そんな朝、僕が食べる朝食は決まっていつもまぜのっけ朝食だった。味、ボリューム、口に掻き込みやすいその特性。すべてが申し分なかった。まぜのっけごはん朝食は僕の胃を優しく満たしてくれた。

 学生を卒業してからも、たびたび僕はまぜのっけごはん朝食を食べた。例えば実家へ帰る6時間のドライブのさなか、仮眠をとったパーキングエリアでの起き抜けに。ふと思い立って朝日を見に行こうと山に登った、その帰りに。明け方に伊勢の海を見に行こうと車を走らせた、その夜明けに。僕の中でまぜのっけごはん朝食は、早朝のすがすがしい空気と密接に結びついていた。目覚め行く街と、半ばまどろんだ僕。そんな僕を起動し、街と接続するためのツールとしてまぜのっけごはん朝食は機能した。僕はまぜのっけごはん朝食を通して世界とつながり、世界を覗いていたのだ。

 久しぶりに食べたまぜのっけごはん朝食も、やはり明け方の味がした。おいしかった。結局のところ、こういうものが一番うまいのだ。良い肉や魚、高い酒、美技の限りを尽くした高級料理。もちろんそれらもうまいのだが、まぜのっけごはん朝食とはベクトルが違うのだ。生活に根差したうまさ。僕らの身体を支えるうまさ。そんな実感を伴ううまさは、まぜのっけごはん朝食が一番だ。最後の晩餐を想像する。明日死ぬ、そんな日に、何か好きなものをなんでも食べられるとして、僕はまぜのっけごはん朝食を選ぶだろう。

 

 え?

 最後の晩餐サービスで無料?

 こっちのページのやつも頼めるんすか?

 

 すみません、まぜのっけごはん朝食やめて、こっちの季節の海鮮丼(特上)お願いします。