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お痒いところを伝えられない話

 どこかお痒いところはございませんか、と美容師さんにそう聞かれる度に、僕は「いえ、大丈夫です」と答える。実際に大丈夫で、僕の頭に痒いところは一つもない。

 痒いところがあります、そう答える人がいるのだろうか? 頭部のどこかしらかに痒いところがあり、そこを美容師に掻いてもらいたいと願う人。僕はいまだにお目にかかったことがない。

 僕は想像する。お痒いところがある場合を。美容師の頭が僕の髪の毛を優しくはい回り、泡まみれにしている。それはとても心地が良いのだが、しかし頭の一部に妙な違和感がある。むずむずとする、小さな羽虫がそこに止まっているような、嫌な感覚。微かなものでもいいから、そこに刺激を与えたいと、僕はそう願ってしまう。刺激を欲するだけの哀れな家畜である。

 そこで折よく美容師が尋ねる。

「どこか痒いところはありませんか?」

 はい、あります。僕はそう答えようとするだろう。しかしここからが問題だ。

 僕は、自分の頭の痒む部分を、正確に相手に伝えきる自信がない。

 考えてみてほしい。僕の両手は胸の上で白いタオルに覆われており、指で場所を指し示すことはできない。美容師さんに痒い場所を伝えるために使用できる手段は言葉だけである。しかし僕に頭のとある一か所をピンポイントで描写するほどの語彙力が備わっているだろうか?

 きっとこうなってしまうことだろう。

「あの・・・・・・痒い場所があります・・・・・・」

「どこが痒いの?」

「頭の後ろの方の・・・・・・ちょっと右側の・・・・・・」

「もっとちゃんと言ってくれないとわからないよ、ここかな?」

「違います、あの、もっと右の後ろ・・・・・・!」

「ここ?」

「あっ! そこです・・・・・・!」

「こうしたら気持ちいいの?」

「気持ちいい・・・・・・!」

「ここ、なんて言うの?」

「わかりません・・・・・!!」

「わからないことはないでしょ、ちゃんと言ってみてよ」

「ほんとにわからないんです・・・・・・!!」

「右耳介部後方(みぎじかいぶこうほう)とすらも言えないなんて、恥ずかしい語彙力だな!!」

「そうです、私は恥ずかしい語彙力しか持ち合わせていない卑しい豚です~!!」

 

 はい。

 現実の僕は全然頭が痒くなかったので、さっぱりと泡を洗い流してしまって、軽やかなソフトモヒカンを頭頂に携え、2160円を払ってから店を颯爽と後にしました。

 頭が痒みにくい体質で良かったなあ。

セーブポイントでシュミテクトを補給する話

 人生におけるセーブポイントがあるとしたら、それはやはり実家なのだろうと思う。

 たまに実家に帰るたび、実感するのだ。ここ以上に僕を安心させてくれる場所は見つからない。一晩きりの滞在であったとしても、僕は実家で眠ることによって何かを補給している。日々の生活で目減りした精神的なそれを、僕は実家で回復させているのだ。

 この時のイメージとして、僕の脳内ではセーブポイントがくるくる回っている。セーブポイントセーブポイントらしくあればそれでいい。球体だったり幾何学的なオブジェだったりするが、大概の場合それはくるくる回りながら光っている。昨今の優しいゲームにありがちな、触れるだけで体力など諸々を回復してくれる親切なタイプである。僕の実家はくるくる回りながら光っている。僕はそれに軽く触れて、画面上側に表示されているゲージを満タンまで補給する。

 一体何によって僕はこうまで回復しているのだろう、その理由について考えてみたが、僕が実家に帰るたびに補給しているものは一つしかない。それがシュミテクトである。なぜかうちの洗面台にはシュミテクトが山積みになっているので、実家から自宅へと戻る際には適当な本数をわしづかんでリュックに放り込むのが恒例となっている。一応解説しておくがシュミテクトとは歯磨き粉の一種であり、知覚過敏に効果的であることから根強い人気を誇っている。その名前からも歯がしみるのをプロテクトしてくれるであろうことがありありと伝わってくる。

 思えば、いつだってシュミテクトは僕とともにいてくれた。実家から泡盛を持って帰ったことも、アマノフーズのインスタント味噌汁を持って帰ったことも、親父手作りの食べるラー油を持って帰ったこともあったが、それらは全てたった一度きりのイベントだった。そしてそんな大物がカバンのスペースを埋めている時でさえ、シュミテクトは必ず片隅に収まっていた。

 僕は実家というセーブポイントで、シュミテクトを補給していたのだ。僕がパラメーターとして備えている精神的な何かのゲージは、実のところシュミテクトで埋められている。僕の精神はシュミテクトでできている。きっと、冷たいものを浴びせられたとしてもあまりしみないのだろう。

蕁麻疹の話

 まあこれが痒いのだ。蕁麻疹。19時から20時頃になるとぽつぽつと腕や腰回り、首の裏に表れ始め、痒い。時間が経つと少しずつ増えていくために痒く、酷いときは増えた蕁麻疹が連なって巨大な蕁麻疹となり、結果痒い。

 最近これが毎晩で痒くてどうしようもないので、無理やり眠ることにしている。寝て起きたら、たいていの場合治まっている。どういうわけだか僕の蕁麻疹は夜行性だ。家で一人でいるばかりにやたらと暴れて痒い。僕はこれを「夜アレルギーになった」だの「自宅アレルギーになった」だの「生活アレルギーになった」だのと愉快がっていたのだが、周りの反応を見るにどうやらこれはあまり面白くないようであり、ただただ痒いばかりである。

 寝て起きたら治まっている。これ、本当だろうか? 身体に現れた蕁麻疹は僕が眠っている間にもその数を増やしていき、繋がっていき、僕の身体をくまなく覆っていく。僕が目を覚ました時、実は蕁麻疹は治まってなどおらず、ひとつなぎの蕁麻疹となっているかもしれない。ワンピース。全身が均一に腫れている場合、それは全身がちっとも腫れていない上体ともはや区別がつかない。どこも膨らまずどこも凹まず、僕は蕁麻疹に包まれたまま生活しているおそれがある。

 で、毎晩蕁麻疹を発症させているということは、毎晩少しずつ僕が膨張しているということになる。正しくは僕の蕁麻疹が。僕の表面を覆っていた蕁麻疹は等比級数的にその体積を増やしていき、いずれ僕は完全に包まれて、一つの巨大な蕁麻疹となってしまうのだろう。ただ痒みを感じるだけの肉塊。惨すぎる。「新世界より」のスクィーラかよ。

 肉塊になるのは嫌だ、と泣きながら風呂に入ってシーブリーズのボディーソープで身体をがっしがっし洗ったら、なんか蕁麻疹も治まってきたし痒みもなくなってきた。なのでこうして余裕をぶっこいてブログなんぞを書くことができる。つまり、シーブリーズは最高。今日の記事の概要はそういうことだ。

ゴルフに嫌々行く話

 ゴルフは社交の手段であり社会人として身に付けておいて当然の教養である、とそういった考え方は未だに深く根付いているらしく、俺も来週開催される社内ゴルフコンペへの参加が半ば強制的に決まった次第である。

 全く気乗りしていない。何を隠そう、あまりゴルフが好きではないのだ。半年くらい前に上司から頂戴したゴルフクラブ素振りトレーニング器具は玄関の片隅に鎮座している。一見暴漢が侵入したときに警棒代わりに使えそうだが、しかしこのゴルフクラブ素振りトレーニング器具、家の中で振り回しで家具やら家人やらをうっかり破壊することがないようにとの気配りにより先端が柔らかなクッションで包まれているため武器としての価値は限りなくゼロであり、現在のところ気が向いたときに握って振れるだけの奇怪なオブジェである。

 ゴルフの何が気に食わないって、まずスポーツとしてのコスパが悪い。これが気に食わなさのおよそ二割を占める。一万円近い料金を要求する割にやることといえば、棒を振って移動する、これのみである。腕と足の裏にばかり負担がかかる。水泳を見習え。身体にかかる負荷のバランスの良さから、コスパランキングは堂々の第二位だ。第一位はジョギング。無料は強い。

 残りの八割は、俺が球技が苦手であるという、それに尽きる。棒を振って球に当てて狙った方向に飛ばすなんて、奇跡が何回必要なんだよ。

 従って俺には全くやる気がなく、コンペ参戦が決まってからもちっとも練習していない。半年近くゴルフクラブを握っていない。ここまで間が空くと逆にうまくなってるんじゃないかと思う。

 そんな俺に、うちのチームリーダーが声をかけてきた。

 リーダー「○○くん、ゴルフコンペのための練習会を開催しようと思うんだけど」

 ぼく「喜んで参加します! いやちょうど練習せなあかんなと思ってたところなんですよ! まだまだ下手くそなんで迷惑かけるかもしれませんけれど、是非是非勉強させてください! 楽しみだなー!」

 権力に弱い自分が憎い。

 

 で、今朝から行ってました。ゴルフに。

 直前になってすらもやる気がない。どんだけやる気がないかって、財布の中に1200円しか入っていないことがそれを裏付けている。打ちっぱなしですら払えるか微妙な金額である。さすがにまずいので、コンビニに立ち寄ってコーヒーを買ったりお金を下したりすることにした。

 近所のコンビニに車を停め、まずコーヒーを注文しようとレジの前に立つと、真横にあるドーナツの棚が目に入った。

 ドーナツ。俺はドーナツが結構好きなのだ。学生時代はテスト勉強のためにミスドに籠り、チョコオールドファッションを食ったりしていた。テスト勉強なぞチョコオールドファッションを食うための口実に過ぎなかった。チョコオールドファッション狂いである。

 そんなファッションモンスターであった過去を思い出したので、自分を奮い立たせるためにドーナツを注文することにした。しかしここでまたチョコオールドファッションを頼むのも芸がない。俺は日々変化し成長しているのだということを、ドーナツ選びはじめとする日常の些事から、俺はもっとアピールしていかなければならない。

 他に何かないかなと視線をさまよわせたところ、ココア風の生地にシナモンがかかった美味しそうなドーナツを見つけた。こいつにしようと商品を指さそうとして俺は気付く。商品名が

 『黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)』

 これである。責任者出てこい。

 25歳男性がココアドーナツを食べたくなるケースを想像できなかったのか。黒ねこ。何故ファンシー成分を付け加えた。黒ねこである必要はなかったろうが。「ねこ」がわざわざでひらがなで書かれているところがまた腹立たしい。

 正直なところ、恥ずかしい。俺は平常心を保ったまま「黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)ください」と言うための精神訓練を受けていない。しかし口の中はもう完全にココアドーナツの味になっている。なんなら「コーヒーと、あと……」と言ってドーナツの棚を指さす段階まで既に入っている。ここから手を引っ込めるわけにはいかない。

 まったく今日は災難だ。ゴルフに行くのだけでも億劫なのに、まさかドーナツを注文する段階でこのような試練が待ち受けているとは思わなかった。世間は25歳独身男性に厳しい。

 どうする。黒ねこを省略して「ココアドーナツ」と注文すべきか。しかしその場合(うわ、この人黒ねこっていうのが恥ずかしいんだ……)と目の前に立つバイトリーダーっぽい兄ちゃんに内心見下される事態を避けては通れない。それは避けねばならない。このセブンイレブンは最寄りのコンビニであり、最寄りのコンビニのバイトリーダーに見下された場合、最寄りのコンビニに来るたびに俺はちっぽけな劣等感を抱えなければならないことになる。

 例えばちょっと切手を買いに来る。レジにいるバイトリーダーに声をかけなければ切手は買えない。もちろんバイトリーダーは終始にこやかに対応してくれるが、心の中では(こいつ黒ねこココアドーナツもまともに注文できないくせに、切手は注文するのかよ……)と嘲笑の嵐である。俺は震える手で切手を受け取り、震える足で家まで駆け戻り、布団にくるまって悔しさに震えながら泣くのだ。

 そんな未来は断ち切らねばならない。俺は決めた。俺は黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を注文するのだ。25歳男性彼女なしにだって、その権利はある。照れてはならない。堂々と注文するのだ。恥ずかしいことなど、本当は一つもないのだから。

 

 ぼく「黒ねこココアドーナツください」

 バイトリーダー「は~~~~~い!! 黒ねこ一丁~~~~~~~~~!!!!」

 

 完全に負けた。黒ねこがどうとかファンシーがどうとか悩んでいるこっちが愚かだった。バイトリーダーはあくまでも職務に忠実であった。そこには25歳男性合コン連敗中に対する侮蔑など一切なく、ただ黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を望む客に黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を届ける、正しきバイト戦士の姿があった。たかが黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)という商品名に一抹の恥ずかしさを感じていた俺のなんと矮小なことか。

 俺は平然としたふりをしながら会計を済ませ、商品を受け取り、車に戻り、悔しさに涙しながら黒ねこココアドーナツ(ホイップクリーム入り)を食べた。何故か少ししょっぱく、ほろ苦い味がした。

 

 久しぶりのゴルフは前回のスコアを一割も上回る大健闘でした。

 あとお金下ろし忘れてたので先輩に一万円借りました。

ひらがなを投げる話

 ひらがなの「く」を投げたいと考えたことの一度や二度くらい、誰にとってもあることでしょう。投げた後の軌道が簡単に想像できる。くるくると回りながら手元に戻ってきて、きっと楽しい。何故ならば「く」、見た目がほぼほぼブーメラン*1である。同様の理由で「へ」も投げたい。この二つは投げたいひらがなランキング不動のツートップだろう。
 あと「し」や「つ」も結構戻ってくるだろうし、鋭い鉤爪がついていてより殺傷力が高そうである。刃のブーメラン*2である。投げたい。「も」に至ってはもう敵をズタズタに引き裂いてしまうであろうことが想像に難くない。攻撃力は最強クラス。つまりは炎のブーメラン*3である。めっちゃ投げたい。

 *1:投擲武器の一種。アボリジニが狩猟用として用いていたことで有名。紀元前のアッシリアでは兵士の標準装備とされていた。なお、投げても戻ってこないものは「カーリー」と呼ばれており、ブーメランとは区別されるべきである。ドラクエでは敵全体にダメージを与えることができるので、強い。
 *2:どうやってキャッチしているのだろうか。
 *3:どうやってキャッチしているのだろうか。

  さてこのようにひらがな投げたい界隈の中では「く」や「へ」や「し」や「つ」ばかりがちやほやされるわけですが、実際のところブーメランが戻ってくるのに大事なのは上から見たときの形状ではなく断面の形状であることは、ブーメラン運動に必要なのが揚力であり、揚力のトルクが角運動量をなんちゃらかんちゃらして回転面が進行方向にどうにかこうにかすればよいという簡単な力学より分かります。要するに、意外や意外、別に「く」や「へ」だけではなく、投げようによっては「あ」も「ぬ」も「れ」も全部戻ってくるらしい。

 そこで魔が差した僕、おもむろに「な」を手に取る。「やめろって!」とひらがな投げ仲間の友人が制止してくる。「それに関しては戻ってくるとかこないとかじゃないって!」

 うるせーやーい、と僕は手首のスナップをきかせ、「な」を勢いよく空中に放り投げる。一瞬で「な」はバラバラになり、突如吹いた強風に煽られてどこかへと消えていく。この瞬間、「な」はこの世界から失われてしまったのだ。僕がひらがなを投げたい欲求を抑えきれなかったばかりに。

 「なんてことをしてしまったんだ……」と僕は自分のしでかした悪行を反省するがもう遅い。「な」は既に失われてしまったので、先ほどの反省も「 んてことをしてしまったんだ……」になっている。何かがおかしいことに気付いた人たちが「なんだなんだ」と騒ぎ始めるが、これも「な」が失われているせいで「 んだ んだ」となり、田舎者が大量発生する結果となる。

 慌てて僕は四散した「な」の欠片を拾い集めに駆け出すが、先ほどの強風のせいでどこへ行ったか分からない。汗まみれの泥だらけになってようやく「な」の下の部分を見つけたと思ったらそれは野生の「ょ」だったので僕は「ょ」を思い切り蹴り飛ばす。「ょ」は泣き声を上げて逃げていく。

 「な」をもう一度作り出そうとしても、もうその姿が思い出せない。僕はペンを投げ捨てて白い紙をグシャグシャに丸め、「きみのなまえは……っ!」と慟哭するが、それもやはり「な」が失われてしまっているせいで「君の前は」になっているのでさっぱり意味が通らない。

 こうして僕は「な」を探しながら生きていくことになる。「な」の面影を、僕は常に追い求めている。向かいのホーム。路地裏の窓。こんなとこにいるはずもないのに。

 「な」と再会できぬまま、僕は年老いていく。もう何を探していたのかすらもおぼろげな記憶となってしまったが、妙な空虚さが胸のうちから離れてくれないのだ。この心の穴を埋めてくれる形を、僕は死ぬまで探し続けるのだろう。

 

 それからというもの人類は「な」の無い世界の中で暮らしています。「な」は「は」や「ま」などで代用して、何とかうまくやっているそうです。

 それでも50音表の中で不自然に空いた「 にぬねの」の行を見るたびに、人々は何故だか胸が締め付けられるような気持ちがするのです。

 

 

○参考文献

1.「力学」青山秀明、2008、学術図書出版社

2.「ドラゴンクエストV 天空の花嫁 公式ガイドブック 下巻 知識編」1992、エニックス

3.「one more time, one more chance山崎まさよし、1997、ポリドール・レコード

4.


「君の名は。」予告

5.


【お笑い・コント】バカリズム「順位に関する案」

靴下の片方がどこかへ消える話

 洗濯物かごをひっくり返した僕は、やれやれ、とため息を吐く。やれやれ、まただ。靴下が片方しかない。灰と赤のストライプ、それと合同の関係にあるはずの片割れがない。これで5足目だ。ボーイング747のシートに座った「ノルウェイの森」の主人公がやれやれまたドイツかと呟くように、僕はやれやれまた靴下かと呟くのだ。驚くべき格差社会。これがせめてイタリアだったら形も靴下に似るのになと思うのだが、それで何が良くなるのかは全く分からない。

 ここは男子寮であり、ランドリールームには洗濯機とその上に乾燥機が四台ずつ、等間隔に並んでいる。その様子はなにやら結界を守る魔物のようである。全員を一気に倒さなければならないやつだ。一体だけ倒したとしてもアレイズで復活させてくる。上の乾燥機は多分魔法攻撃を主体とする。

 そのたった四台しかない洗濯機や乾燥機の中に、益荒男どもが一週間溜まりに溜まった汚れ物をこれでもかというほどぶち込んで、しかも洗いっぱなしの乾かしっぱなしにしていたりするので、もうどこの洗濯物が誰の洗濯物かも分からない。置き去りにされた洗濯物の山は日に日に大きくなっており、もはや誰のものとも知れない。巨大化した洗濯物の山はいずれランドリールームから溢れだし、廊下を埋め、寮全体を飲み込んでいく。Googleマップで探した僕の住居は「寮」と記されているのだが、これがやがては「洗濯物」に切り替わるのであろう。もしそうなったら、僕のことを洗濯物に住む男として後ろ指さして笑ってください。

 で、どこかへ行った僕の靴下。わりと最近買ったばかりの灰と赤のストライプの靴下は、寮を埋め尽くした洗濯物山のふもとをひょこひょこ飛び跳ねるように歩いている。彼は探している。いなくなった片割れが、どこかに埋もれていないだろうかと。

 心細さに涙を流しそうになりながら、彼は探している。灰と赤のストライプの靴下ー。灰と赤のストライプの靴下ー。

「灰と赤のストライプの靴下ー」

「呼び方がまどろっこしいな」

 突然の突っ込みにびくりと振り返ると、そこには黒い靴下が一つ佇んでいる。当然のようにそいつも片方だけであり、靴下本来の機能を果たすには足りない。

「そうだな、お前のことは略して【灰スト】と呼ぶことにしよう」

「そんなパンティストッキング略してパンスト、みたいな呼称は嫌です」

「ついてこい。こっちに片割れを無くした靴下たちが身を寄せ合って過ごしている村がある。お前の探し人、いや探し靴下もそこにいるかもしれない」

「ありがとうございます。あの、あなたのことはなんと呼べば……?」

「そうだな、俺のことは黒304号とでも呼んでくれ。同じ見た目がたくさんいてな」

「安直なネーミングがもたらした悲劇」

 そうして灰ストと黒304号は連れだって歩き、深い森や広大な砂漠を、要するに花壇や砂場をいくつも抜けて靴下の片割れが身を寄せ合って過ごしている街にたどり着くわけだが、

「こ、これは一体どうしたということだ!」

 と仰々しい驚き声を黒304号が上げる。目の前に広がるのは無残に破り散らかされた靴下たちの残骸。この惨状、靴下たちなら思わず嘔吐し、人間たちなら全部燃えるゴミに出してしまうほどの惨たらしさである。

「いったい、誰がこんなことを……!」そう嘆く灰スト。

「決まっているだろう!」と黒304号は怒鳴る。

「我々、片割れを失くした靴下の天敵。それは……!!」

 

 ***

 

 なんなんすかね。なんかもう思いつかなくなっちゃって急に冷めちゃったんですけれど、カラスとかっすかね。

 さてそんな片割れを失くした靴下たちの興亡はさておき、ともかく僕の部屋には片方しかない靴下が5つ転がってるんですけれど、これどうしましょうか。小石を詰めてカラスに投げつけたりすればいいっすかね。

 いけお前たち。片割れの仇だ。

海苔を食べるタイミングの話

 上手に海苔を食べられないことがコンプレックスだ。食卓によく上がる1袋5枚入りの海苔。僕が食べようとすると、大体余ってしまう。1枚目、2枚目まではいい。3枚目くらいになってくると他のおかずに気を取られすぎ、海苔の処理がおろそかになってしまう。気付いた時にはもう遅い、残ったご飯はわずか。3枚目の海苔はなけなしのホカホカご飯をくるむのに使い、最後の2枚は海苔・オン・ソロステージ。2枚まとめてポリポリ齧りながら「うん、素材の味」と呟く僕はその屈辱にちょっと涙ぐんだりしている。

 海苔を食べるタイミングを教えてくれる人。そういった職務があればいいのだと思う。わんこそばのそばを注ぐ人とポジション的には同じである。朝餉を楽しむ僕の左後方に彼女は静かに立ち、適切なタイミングで「海苔」と囁く。僕はその声に導かれるように海苔を手に取り、ご飯をくるみ、食べる。そうすることにより、ご飯がなくなるのに合わせて5枚の海苔を綺麗に使い切ることができるのだ。

 

 その日、僕はちょっとした長期出張のためホテルに宿泊している。私用の際に泊まるビジネスホテルより数ランク上のそのホテルのなかで僕は目覚め、朝の湯浴みを優雅に楽しんでから2階にあるレストランに向かう。右手にはルームキーを、左手には朝食券を握りしめている。

 レストランに着いた僕は、中を見て驚く。各テーブルの後ろに一人ずつ、厳かな和装を身にまとった人が控えているのだ。多くは3~40代程度の女性であり、ごくわずかに若い女性や、学生と思しき青年の姿が見える。

 海苔、海苔、海苔、と呟く声が聞こえる。なるほど、彼らが海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちなのだろう。

 僕は自分の部屋番号が書かれた卓に就く。後方に控えるのは同年代と思われる女性。凛とした立ち姿からは、何とも言えない気品を感じる。

 少し緊張しながら僕は朝食を取り始める。まず味噌汁をすすり、続いて米を一口食べる。次に鮭の身をほぐして一欠け口に含み、それから「海苔」ここで海苔だ。海苔の袋を開けて1枚取り出し、ご飯を包んで食べる。優しい味がして、僕はほう、とため息をつく。

 僕の食事は続く。漬物、米、ひじき、味噌汁、「海苔」、米、鮭、味噌汁、米、「海苔」、米。なるほど、少しオーバーペースであるような気もするが、実際のところこれくらいの按配がちょうどよいらしい。鈴の音のような彼女の「海苔」に従って、僕は正しく海苔を消費する。

「ありがとう」食事を終えた僕は言う。いえ、それが私の役目ですから、と彼女は答える。

 

 いつになく上手に海苔を食べることができた僕は気合十分、出張先で業務をバリバリこなす。昼になるとおなかが空くので、先輩に連れられて評判だというラーメン屋に向かうことになる。

「夏の暑い日に食うラーメンはうまいよな」と先輩は僕に言う。「ここ家系のラーメンなんだけどさ、おススメだよ」

 店の暖簾をくぐると、案の定そこにも海苔を食べるタイミングを教えてくれる人がいる。先ほどホテルにいたのと同じ人たちのようにも思える。確かにラーメンの上に乗っている海苔を食べるタイミングもかなりの難問であるから、家系ラーメン屋にも海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちは必須であろう。

 僕はラーメン並盛の食券を買い、カウンターの上に出す。程なくしてラーメンが提供される。僕は箸とレンゲを手に取って、ラーメンを手元に寄せる。

「海苔」と僕の後ろで、先ほどと同じ鈴の音のような声が囁く。僕はそれを無視して先にスープに口をつけ、麺に手を伸ばす。「海苔」。再度声がする。僕は麺を啜りあげる。

「海苔」「うるさいな!」僕は思わず声を荒げる。「いつ海苔を食べようが僕の勝手だろう!?」「しかし後になると海苔がふやけてしまい、海苔本来の味わいが……」「ほっといてくれ、僕はスープでひたひたになった海苔を食べるのが好きなんだよ!」

 僕は凄まじい勢いでラーメンを食べ、最後に海苔を口に含むと、丼と箸をテーブルの上に叩きつける。「あんたに教えてもらわなくたって、僕は一人で勝手に海苔を食べるさ」そう吐き捨てて、僕は荒々しく店を出て行く。

 そんな僕の後姿を、「すみません」と呟く彼女と、置き去りにされた先輩が寂しそうに見つめている。

 

 次の日の朝、僕の目覚めは悪い。昨日吐いてしまった彼女への悪態について、夜遅くまで考えを巡らせていたからだ。

 朝食の時に謝ろう。そう思いながらレストランに入った僕は異変に気付く。一人もいないのだ。海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちが、どこにも。

 僕は不安な気持ちになりながらテーブルにつき、一人で食事をする。周りの人たちは海苔を食べるタイミングを教えてくれる人がいないことも気にせずに平気な顔をして海苔を食べており、それが僕の不安をさらに掻き立てる。動揺のあまり僕は海苔を4枚も余らせてしまい、残った海苔を4枚一気にほおばって口の中が海苔まみれになる。

 仕事に向かうも、身が入らない。急に姿を消してしまった、海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女のことが気になって仕方がない。

「僕、ちょっと出てきます!」

「おい、どこに行くんだ!?」

 先輩の言葉も聞こえないふりをして、僕は職場を飛び出す。駆け足で駅に向かう僕は、思い出している。そうだ。彼女と出会ったのはあのホテルが初めてではない。その前から、何度も。ずっと、彼女は僕に海苔を食べるタイミングを教えてくれていたのではなかったか。汗を滴らせながら、僕は走り続ける。

 僕はもう、どこに行けばいいのかわかっている。それはつまり、海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女が待つ場所を、僕は最初から知っていたということだったのだ。

 携帯が先輩からの着信で揺れている。僕は電源を切る。

 電車に揺られて数時間、僕はたどり着く。そこは懐かしい場所だった。小学校の林間学校で訪れた、古いキャンプ場。そのシンボルである巨大なクスノキの下に、彼女はいた。木陰に隠れるように、艶やかな黒髪を風になびかせながら、彼女は僕に背を向けて立っている。

 僕は彼女の元へと向かう。

「今日はさ、4枚も残してしまったんだ」と僕は言う。

「自分一人でも海苔を食べられるなんて、あんな大見得を切っておきながらさ。僕はやっぱり、君がいないとダメみたいなんだ。君が傍に立ってくれていないと、一人で満足に海苔を食べることすらできやしない」

 戻ってきてくれないか。そう僕は言う。彼女は振り向かない。僕に背を向けたまま、彼女は答える。

「あなたは言いました。私がいなくても、自分で勝手に海苔を食べると。もっと早くそうすべきだったのです。あなたは私に甘えすぎたし、私はあなたを甘やかしすぎました。そうするのが心地よかったからという、それだけの理由で」

「ダメだ! 君がいないと、僕は……!!」「大丈夫。あなたは大丈夫ですよ。私がいなくても、あなたは自分のタイミングで海苔を食べることができる。その勇気を、あなたはもう持っているのですから」

「待ってくれ!」僕は彼女に駆け寄り、抱きしめようとする。確かに彼女を捕まえたはずの僕の両手は空を切り、僕はその場に崩れ落ちる。

 妄想に過ぎなかったのだ。海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女は、僕の弱い心が生み出した、ただの幻だった。小学生の時、周りがそうするように上手に海苔を食べることができなかった僕は、そのコンプレックスを埋めるために海苔を食べるタイミングを教えてくれる存在を頭の中だけで作り上げ、彼女にずっと頼って生きてきたのだった。

 僕は力なく身体を起こし、上体をクスノキに預ける。僕の感傷になど構うことなくセミは鳴き続け、夏の日差しは僕を焼いていく。

 大丈夫。そうどこからか声が聞こえたような気がしたが、これもきっとただの幻聴なのだろう。

 

 それから僕は先輩に謝罪の電話を入れ、急いで仕事に戻った。ありのままを話そうとしたのだが、「海苔」の時点で先輩が「海苔がなんだ!!??」と恫喝するため、正しく事情を説明することはできず、僕は平謝りを続けるばかりだった。

 次の日の朝、僕はいつものように目を覚まし、食事をとりにレストランに向かう。海苔を食べるタイミングを教えてくれる人は、当然ながらもう誰もいない。僕は一人で食卓に着く。

 味噌汁を啜り、米を一口食べる。それから「海苔」と自分で呟いて、海苔の袋を開ける。

 僕の頬を、涙が静かに流れていく。