最近はけっこう元気ですよ~って話

 驚いたことに、近頃仕事が楽しい。前職や転職直後の自分のときには考えられなかった事態だ。あの当時は職場に身を置いていることそのものが負担になっていて、なんとかして仕事さぼりてえな、自分に全く非がなくて仕事にちょうどいけなくなるくらい適度なけがを負う程度の事故に巻き込まれないかな~と毎日思っていた。

 ところが最近は出勤が苦にならない。仕事は忙しいしだるいし頑張らないといけなくて面倒くさいが、その分きっちり成果を出している感覚がある。アウトプットが出せるから、周りからもそこそこ評価してもらえ、その分前向きに仕事にも取り組めるのでまたアウトプットも出せる。好循環である。PDCAサイクルである。インフレスパイラルである。もしかして、好循環があるということは、悪循環というものも存在するのではなかろうか。仕事がうまくいかないから叱られて委縮してまたうまくいかなくなる的な。おれは聡いのですぐ類推できてしまう。好循環が存在するということから悪循環が存在するということが直感的にわかるのだ。その昔、部活で遠征に行ったときに、乗り継ぎの駅の看板の「有人改札」という文字を眺めながら、マネージャーに「わざわざ有人改札と表記することから、この駅には無人改札も存在するということが推測できる」と話した。そのときの彼女の、何やら不可解な生き物を見るときのような眼差しが忘れられない。今でも寝苦しい夜に悪夢に見る。

 

 ものぐさな人間によくあることとして、おれは洗濯物を取り込んでも畳まずに山にしたまま、そこから次に着る服を抜き取る。これを繰り返していると衣服が整理できず、片方しか見つからない靴下が生まれたりする。それが複数たまってきたら洗濯物の山を解体しにかかる。

 片方だけしかない靴下が三つあったので、今朝は三か月ぶりくらいに山を片付けた。 

 結果、片方だけしかない靴下が四つ残った。

 なぜだろう。

 

 ーー靴下の片方だけがいつもなくなってしまうのは、

   両方を同時になくした場合はなくした事実に気づけないからである。ニーチェ(1888)

 

 

 仲の良い友人から続々と結婚の知らせが届く。喜ばしいことだ。数年前なら彼女のかの字どころかいい感じの人のいの字も存在しない自分と比較して少しは焦りも生まれたものだが、最近はもう自分の結婚をすっかり諦めているため、純粋に彼らの幸せを祈ることができる。彼らが幸せになりますように。いや、ごめん、ちょっと嘘だ。純粋には祈れていない。不幸を祈るわけではないが、幸福に満たされてはいないでほしい。すこしだけ不完全な幸福であってほしい。その微小な不満に対する愚痴を、一緒に酒でも飲みながら聞かせてほしい。つまりはかまってほしいのだ。一人で生きていくつもりではあるのだけれど、一人っきりで生きていく覚悟はちっとも固まってなくて、彼らの幸せを心から祈れるほどにはおれは強くないし、寂しがり屋なんだ。