またまた歯医者に行く話

 初診からひと月以上が経ち、年をまたいで西暦の数字が一つ増えてからも、歯医者での治療は続いている。

 いつの間にか通い慣れてしまった道を寒さに震えながら僕は歩く。歯医者への道中、目に映るのは小児科の診療所と薬局、やけに洒落たカフェ、小さな焼き鳥屋。そのいずれにもあまり人の気配はなく、この物寂しさもこの街ならではの持ち味だと、引っ越してから十か月になる今となっては愛着を感じるようになった。

 歯医者の待合室には、やはりあまり人がいなかった。受付を済ますとすぐに診療室に案内され、歯科助手の女性による診療が始まった。

 先日右奥歯に被せた銀歯の予後を一通りチェックし、左のほうにもう一つ見つかった虫歯の確認を済ませた後、「少し待っていてください」と歯科助手は席を外した。この日はここからが長かった。歯医者の椅子に寝そべりながら僕は目を閉じて静かに待っていた。診療室の中には、病院にありがちな静かなピアノのBGMと、これもありがちな子供の泣き声が響き渡っていた。

「すみません」と、僕のブースに戻ってきた歯科助手が言った。

「先生が、いま少し手が離せなくて。もう少しお待ちください」

「そうでしょうね」と、僕は言った。子供の泣き声は間断なく続いており、その対処に歯科医がかかりっきりになっているであろうことは容易に想像がついた。

「大変なお仕事ですね。子供の健康を思ってのことなのに、当の子供たちには嫌われる」

 そうですね、と歯科助手は笑った。「でも、やりがいのある仕事です」

「どうしてこの仕事を選んだのですか」僕は何気なく尋ねた。

 歯科助手は少し考え込む様子を見せてから、答えた。

「穴を埋めるような仕事をね、したかったんですよ。私は」

「穴を?」不可解な答えに、思わず僕は聞き返した。

「埋めるじゃないですか、虫歯。ああやって、穴を少しずつ埋めていくようなことを、私はしたいと思って」へへ、と少し恥ずかしそうに歯科助手は笑い、言葉を続けた。「埋めたくなりません? 穴があったら」

「ちくわの穴にきゅうりを詰めてみたくなるような?」

「ドーナツとかバームクーヘンとか見てるともやもやしますね」

「好きなスポーツは?」

「ゴルフです」

「好きなパズルは?」

 クロスワード、と彼女は笑う。「こう、目に見える穴でなくても、例えばスケジュール帳の空白もなるべく埋めたくなりますね。一人だけの時間って、人生における穴みたいなものじゃないですか」

「わかる気がします」と僕は言った。「お腹が空いたら何か食べるのも、要は穴を埋めることだ」

「そうそう、そうやって、穴を埋めながら私たちは日々を過ごしているんですよ」

 生きるとは穴を埋めることだ。過去に偉大な人物が遺した格言であるかように、そう彼女は言った。

「人が本を読んだり映画を観たりするのも、穴を埋めたがっているから、なのでしょうか」僕は言った。

「暇な時間を潰す、ということですか?」歯科助手が首を傾げた。

「いえ、時間や予定を、という意味ではなく」言葉を続けようとしたが、ブースに誰かが立ち入ってきて、僕はそこで口をつぐんだ。

 お待たせしました、と頭を掻くその男性は言うまでもなくこの病院の主だった。いつの間にか子供の泣き声は止んでいた。

 治療が再開し、僕と歯科助手の会話は中途半端に終わりを迎えた。

 

 *

 

 診療が終わり、受付で代金を支払い、来週の土曜日に僕は診療の予約を取った。

 また一つ穴が埋まった、と僕は心の中でつぶやいた。

 外に出ると、雪がちらちら舞い始めていた。一段と厳しくなった寒さに僕は身体をぎゅっと縮こまらせて、歩き始めた。

「本を読んだり映画を観たりするのは、」僕は独り言ちる。「空っぽな自分を埋めるためだ。語るべきことも、やるべきことも特に見つからないがらんどうの中に、物語を詰め込んでおきたいからだ。そこから何らかの意思や意味を、さも自分自身のものであるかのように取り出せるようにしておくために」

 そんな風に考えるのは、僕だけだろうか。

 風が強くなり、細かい雪が顔に吹き付けてきた。僕は少し俯いた。

 あの歯科助手の言うことが正しいとして、人間が穴を埋めるように生きているのだとして、穴を埋めきったその後には、その人生にはいったい何が残るのだろうか。あるいは、埋めきれない穴をひたすら埋め続けて一生を送るのだとしたら、それはこの上なく絶望的なことなのではないのだろうか。

 悲観的な自分に僕は小さく笑った。

 黒いコンクリートの上に、白い雪がぽつりぽつりと舞い落ちていく。それを踏みにじりながら、僕は家に帰った。