また歯医者に行く話

 何故毎週歯医者に通わなければいけないのかと尋ねると、虫歯とはそう簡単に治らないものだから、らしい。

 診療室のブースに入って、椅子に腰かける。歯医者にあるもののうち、背もたれが倒れるこの椅子と自動的にうがい用の水を注いでくれる給水器の二つが魅力の面では抜き出ている。あとは削ったり磨いたり吸ったり刺したり、無粋なものばかりだ。

「馬が歯科医を開業したら《うましか》、つまり馬鹿となってしまうのだろうね」と歯科助手の女性に話しかけたところ返答はなく、椅子が倒れて治療が始まる。

 歯科助手が何かの器具を私の口内に突っ込み、突っ込まれた器具が機械音を立てる。歯医者の治療の恐ろしさは、何をされているのか確認できないことに一因があると思う。虫歯の治療と称して何か別の作業をされていたとして、私にそれを察する手段はない。知らぬ間に口内にプレハブ倉庫が建築されたりはしないだろうかと私は心配になる。

「プレハブとは略称であり、正式にはプレファブリケーションという。工場であらかじめ加工しておいた部材を建設現場で組み立てる工法のことだ」と歯科助手に話しかけたところ返答はなく、椅子が起き上がったので私は口をゆすぐ。再び椅子が倒れる。この場において私に許された行為は口をゆすぐのみである。

 ここで満を持して歯科医が登場する。歯科医は私の口内を舐めまわすように見て、「なるほど」と言った。私の口内は彼を納得させうるだけの説得力を備えていたようだ。その説得力が何に起因するものなのか、私には自身の口内を確認する術がないからわからない。

「銀歯などというありきたりなものではつまらない。もっと私にふさわしい、個性的で魅力的でユニークで奇妙奇天烈な義歯が私は欲しいのだ」

「勿論ございますよ。金属ですと金歯に銅歯に白金歯、チタン歯アルミ歯マグネシウム歯、錫歯亜鉛歯鉛歯ニッケル歯クロム歯ニオブ歯マンガンモリブデンタングステン歯、アンチモンビスマスバナジウムルビジウムイリジウムイットリウム歯などもございますし、無論単体金属のみならずステンレス歯ニレジスト歯ジュラルミン歯超ジュラルミン歯超々ジュラルミン歯青銅歯黄銅歯洋白歯キュプロニッケル歯インコネル歯ニクロム歯はんだ歯アマルガム歯など合金歯も取り揃えておりますし、金属歯のほかにもゴム歯やセラミクス歯ガラス歯カーボン歯といったジャンルもあり、ゴム歯ですと例えば」「銀歯にしてくれ」

 こんなに歯という文字が並んでいると、歯という漢字の造形に自信が持てなくなってくる。

 かくして治療は進み、その間何度も椅子が起き上がり、その度に私は口をゆすぐ。少し頻繁に過ぎると思う。こんなに私に口をゆすがせるからには、私が口をゆすぐことで何らかの利益がどこかにもたらされているに違いない。例えば砂漠のサボテンに花が咲く、などである。明日からはもっと口をゆすぐことにしよう。

「サボテンにはいくつも花言葉があり、枯れない愛、内気な心といったロマンティックなものもあるが、私が最も好きなのは《風刺》だ。風刺というには棘があからさますぎる」と歯科助手に話しかけたところ返答はなく、椅子が起き上がったのでコップに手を伸ばそうとすると「終わりです」と告げられた。今、砂漠のサボテンの花が一斉に枯れた。

「無事、右奥歯に自爆用のスイッチを設置し終えました」

「なんと、確か私は虫歯を治療をしてもらいにここに来たのではなかったか」

「何をおっしゃいますか、先週からずっと自爆用のスイッチを設置するという話をしていたでしょう」

「そんな気もする」

「では試しに一回噛んでみてください」

「噛むと死ぬではないか」

「大丈夫、死なないタイプの自爆です」

「死なないタイプの自爆か。安心した」

 私は奥歯を強く噛み締める。身体を四散させながら、やはり自爆用のスイッチではなくプレハブ倉庫の設置をお願いすればよかったと私は後悔する。

部屋の話・夢の話・コメントの話・タイトルの話・雑な話・ホームアローンの話・忘年会の話

 部屋に帰ってくると俺のものがいっぱいあって、「ああ、ここは俺の部屋だ」と思う。俺が好きなものや欲しかったものがそこら中に転がっている。まるで俺自身を切り離して部屋中にまき散らしているようだ。ここは俺の部屋だと目印をつけるために。丁度犬が電信柱に小便をひっかけるみたいに。

 いつのまにこの部屋はこんなに俺の部屋になったのだろうか、俺は考える。四月、引っ越してきた当初はまだ俺の部屋ではなかった。段ボールの積み重なる部屋に布団を敷き、「よし、これからここを俺の好きなようにしてやるぞ」と意気込みながら眠りに就いた記憶がある。その次の週、本棚とCDラックを組み立てた時に、この部屋は結構俺の部屋になった気がする。いやしかし、五月末から一か月と少し部屋を空けた期間があるから、そこでいったんこの部屋は俺の部屋でなくなったはずだ。七月に帰ってきて、それから五か月も経とうかという今、この部屋はもう信じられないくらい俺の部屋に成り果ててしまっている。俺はただ、この部屋で暮らしていただけなのに。

 そういうわけで、俺は俺の部屋に住んでいる。この部屋が何かの間違いで燃え上がってしまったとき、俺はとても辛く感じるのだろうと思う。まるで自分の半身が燃えているように。迷子の犬が夕日に向かって鳴くみたいに。

 

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 「新入職員の皆様におかれましては、就活生へと送るメッセージを執筆いただきたく」という文面とともにアンケートが送付され、その中に「仕事上の夢や抱負を聞かせてください」という項目があったのだが、何を書けばいいものかさっぱり思いつかない。あまりの思いつかなさに自分に驚いている。夢がない、夢がないとは常々思っていたけれど、こんなに夢がないとはさすがの俺も気付かなかった。

 

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 「「何かに対するコメント」に対するコメント」は基本的に薄っぺらいものになる。自分でもたまにやってしまい、薄っぺらすぎてすぐ破る。薄いので良く破れる。あんなにみっともないものもそうそうないなと思う。元のコメントよりさらに偏狭なものにしかならないし、話の本筋から外れやすい。誰も得しないものになりやすいのだけど、しかしこれは書きやすい上に言いやすいので皆やる。「何か」について抱いた感想を表現するのは結構難しいのだが、「何かに対するコメント」についての感想は表現しやすいらしい。

 「「何かに対するコメント」に対するコメント」であんなに薄っぺらいのだから、「「「何かに対するコメント」に対するコメント」に対するコメント」はさらに薄っぺらいのだろう。「「「「何かに対するコメント」に対するコメント」に対するコメント」に対するコメント」までいくと一体どうなってしまうのか。これを素材にしたコンドームでも作ってしまうと良い。ただし強度はないからすぐ破れる。

 

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 いちいちタイトルを考えるのが面倒くさくて、適当な単語に「~の話」という語尾をくっつけてずっと通してきたのだが、最近「~の話」という部分が冗長に感じられるようになってきた。取っ払いたくて仕方がない。

 適当な単語を羅列するだけのブログにしてしまえばよかった。「スマホケース」「トイレとエネルギー」「眠る前」「自転車と図書館」「想像力」「喉枯れ」「うまいコーヒー」「落ちる」「火」「偽物」「砂や岩」「古い靴」「足の爪」「植え込み」「歯医者」「チンする」。なかなか悪くない。ただ意図的に無視したタイトルの記事も結構あり、統一感を出すのは難しいものだと思う。

 単語の羅列が好きだ。単語は無機質で乾いているものであればあるほどいい。そういう単語が無作為に出てくるボタンがあったら、俺は休まず押し続けると思う。餌が出てこないサルみたいに。

 

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 「雑記」ってカテゴリ、自分でもどう扱っていいものやら分からないので、今日はメチャクチャ雑に書いてます。

 

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 ホームアローン、録画してあったのを観たんだけど、ホームアローンしている部分が覚えていたよりも短かった。

 

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 明日は忘年会がある。忘年会、忘年会と言いながら皆その年にあったことばかり話すというあの会だ。ちゃんと忘れてほしい。名が体を表さないケース。

 いつもいつもその年のことは結局忘れないのだから、もう最初から違うものを忘れるつもりでいたほうがいい。いつだったか、友人とそんな会話をしたことがある。「忘元カノ会」「忘黒歴史会」とかいろんな提案をしながら酒を飲み、寝て起きたらそいつは忘年会の内容をすっかり忘れてしまっていて、図らずしも「忘忘年会会」をした形になった、というのが今回のオチだ。お粗末。

チンする話

 今までなんとかやってはきたのだが、「電子レンジがあればウインナーをチンして食べることができる」と気付いたのでレンジをネットでショッピングしてしまった。

 おれが住んでいるのは会社の独身寮で、一階に食堂がある。食堂ではご飯を食べることができる。だけど予約が必要だ。

 最近帰りが遅くなりがちなので、職場のほうで夕飯を済ませてしまった方が楽なことが多い。そういう場合、予約制というものは実に厄介だ。キャンセルするのはもったいないが、育ち盛りでないおれは晩飯を二回も食うことはできない。

 今日のように早く帰れた場合、コンビニで弁当を買うか外食をすることになる。しかしそれだと金がかさみ、予約するにせよしないにせよ、おれの中のワンガリ・マータイさんが「MOTTAINAI」と声を上げる。

 そこでレンジだ。炊飯器はある。惣菜と米ならそれなりに安く上がり、手間もかからない。給料が入ったら検討しようか、と考えていたところで冒頭の閃きだ。

 電子レンジがあれば、ウインナーをチンして食べることができる。

 ウインナーをチンしたことくらい、誰だってあるだろう。ウインナーとチンの相性はとてもいい。中の肉が熱されて膨張し、パツンと音を立てて外皮に裂け目を作る。滴る肉汁の量を最小限にとどめ、最もジューシーな状態のウインナーを味わうことのできる優れた調理法、それがチンだ。

 焼くよりも、茹でるよりも、レンジでチンがウインナーには最適である。チンしたウインナーはほぼ無敵だ。米にも合い、つまみにもなる。つまり最強だということになる。それを思い出した瞬間、おれの指は「1-clickで注文」を押していた。

 書いているうちにおれは腹が減ってきたが、Amazonからのメールは無情にもレンジの到着予定日が明後日であることを告げている。仕方がないから、今日はすきっ腹を抱えたまま眠ろう。明日の帰りにウインナーを買って、その次の日にウインナーをチンできることだけを楽しみに明日の朝、目覚めよう。

 

P.S.

 最近のレンジは大体「チン」というより「ピー」と鳴る方が多い気がするのですが、それでもレンジは「チンする」であり「ピーする」でないのは、やっぱり「ピーする」だと少し卑猥な印象を覚えるからでしょうか。

歯医者に遅刻した話

 気付いたら10時半だったので、歯医者の予約に遅刻した。もっと早く来てくださいと受付で叱られ、ドリルを使って歯を削られ、そして二千何十円かを徴収された。金を払ってまで苦痛を味わうなど、特殊性癖を持つ人のためにある風俗店と変わりない。何だってこんな目に合わなくちゃいけないんだ。

 

 ちなみに遅刻したということは本当だが、叱られたことと歯を削られたことは完全に嘘だ。話を盛る、というやつであり、往々にして僕はこういうことをする。

 この場合は、「遅刻」と「歯医者の診療」という部分を大げさに表現している。「遅刻」と言えば叱られること、「歯医者の診療」といえば歯を削られること。それぞれの単語から最も想起されやすいイメージを付加し、僕の体験を水増しする。なぜそんなことをするのかというと、その方が伝わりやすく、分かりやすく、そして面白くなるためである。歯医者に行ったというそれだけの出来事に、そうやって物語性を持たせるのだ。

 人々が理解して記憶に残すのは、出来事ではなく物語である。なので僕は「歯医者に遅刻した」という自分の体験ではなく、「歯医者に遅刻した」という物語を語る。そうでもしないと到底ブログなんてかけるものか。そのためこの物語に僕自身の姿はなく、曖昧な世界の中で曖昧な僕っぽい姿をしたキャラクターがコミカルな動きで不平不満を喚いている。

 話を盛るという行動はいかなる時代いかなる場所にも見られるようで、大げさな逸話や伝承は基本的には鵜呑みにしない方がいい。ラスプーチンもさすがに不死身ではなかったろうし、板垣退助も暴漢に刺されたときは多分「いてぇ」っつっただろう。河童の好物がきゅうりというのも肌の色にこじつけた作り話だ。河童自体は実在する。道頓堀でよく釣れる。

 

 ここ一か月ほど歯医者に通っている理由だが、右奥歯の虫歯を治療し、ついでに自爆用のスイッチを埋め込んでもらうためだ。右奥歯に自爆用のスイッチがあると何かと捗りそうな気がする。敵に捕らわれた場合でも国家機密を聴きだされる心配がなくなるし、会社で上司に叱られたときにも自爆することで反省の意を示すことができる。飲み会で一発芸を強要されたら右奥歯を強く噛めばいいし、万が一痴漢冤罪に巻き込まれた場合なんてもはや言うのも野暮である。

 そんなわけで今日も歯医者に行ったのだが、どうやら左の奥歯にも虫歯があるらしく、こっちには毒物でも埋め込んでもらおうかと思っている。仕掛けを作動した場合の結果は右奥歯と同様であるが、自爆用のスイッチと比べ毒物は見た目が少し地味になるのが難点と言えば難点だ。一発芸に使えなくなってしまう。しかし目立たないと言い換えれば長所と捉えることもできるので、うまく右奥歯と左奥歯を使い分けていけばいいと思う。

 言うまでもなく今日のブログは嘘ばかりで、本当のことと言えば河童に関する部分くらいだ。河童は実在する。頭部の皿はノリタケカンパニーリミテドが製造している。

植込みの話

 雨が降っていたので、今朝は職場までテクテク歩いた。いつもなら自転車で5分足らず、風のように駆け抜ける道をのんびり15分。しかし心にゆとりはなく、職場に着く時間が遅れるせいで朝やらなければいけないことが溜まってしまうのが少し憂鬱だった。

 重い気分を抱えながら歩く傍ら、ふと道端の植え込みに目が留まった。なんの変哲もない、ありふれた植込み。棘のような小さい葉っぱが手を広げるように生えていて、腰くらいの高さの丸い形や四角い形に刈り込まれたり、あるいは全然刈り込まれずにぼさぼさ茂っていたりするアレ。こいつの名前、一体何だったっけな。昔は知っていた気がするんだが。

 よく見ると、うちの職場にもたくさん植えられていた。綺麗な直方体になっているものもあれば、中途半端に枝がびよびよ伸びているものもある。歩行者への配慮のためだろうか、歩道側の枝がバッサリ伐採されていて中央部の幹まですっかり見通せるようになったものもあり、それはすこしみっともない外見だった。人間の都合で勝手に植えられて邪魔な部分を勝手に切られるなんてお前も大変だなあとそういう思いを込めて少し撫でてやってみたところ、チクチクと手を刺してきた。安心した。どうやら反骨精神はまだ失ってはいないらしい。

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 帰宅してから名前を調べてみた。「植木」「植込み」「植込み 代表的」「植込み あれ」「植込み あのあれ」「植込み よく見るあれ」などで検索をかけてみたところ、なんとかそれらしいものが見つかった。コノテガシワという植物で、日本でよく見られる園芸品種はセンジュという名前がついているそうだ。

 コノテガシワ。センジュ。昔は知っていたような気がするからにはきっと昔は知っていたんだろうが、いまひとつピンと来ない。聞いたことがあるとすればコノテガシワなんて咀嚼しにくいほうではなくセンジュの方だと思うのだけれど、何度読んでみたところでピンとのピの字も来やしない。

 センジュ。センジュ。繰り返し呟いてみる。たとえ知っていたところで、特に話のネタにもならない。だけどこの名前は覚えておくべきものなんだろう、となんとなくそう思う。多分、駄菓子屋で売っている蛍光色のゼリーの商品名と同じくらいには。

足の爪の話

 足の爪を切るのは難しい。爪が厚いので刃が入りにくく、隣の指が邪魔をする。人間の身体は足の爪を切るようにはできていない。人間はもっと進化の過程で足の爪を切りやすいように体の形を変化させてもよかったのではないかと思うことがあるけれど、生き残るために上手に足の爪を切る必要がある世界というのはいまいち具体的なイメージがわきにくい。

 そんなこんなでどうにかこうにか俺は足の爪を切る。苦労して切った割には切られた後の爪は不揃いでガタガタで、まるで過去みたいだな、と俺は思う。切り捨てるのには労力が必要で、しかも上手に切り捨てるのは難しい、とかそういったことを意図したらしいが、あまり比喩の才能が俺にはない。

「適当なところで切り捨てにゃならんよ」と、足の爪おじさんが言う。足の爪おじさんは足の爪と過去を切り捨てるのが苦手だったので、信じられないくらい長く伸びてしまった足の爪と過去に埋もれながら暮らしているおじさんだ。自分自身よりも足の爪と過去のほうが肥大化しているため一体どちらが足の爪おじさんそのものなのかさっぱりわからなくなっている始末で、勿論そんなおじさんは実在しない。

「俺みたいになりたくなければな」と足の爪おじさんは続けて言うが、実在しないおじさんの小言に耳を貸すのもしんどいので先ほど切った足の爪と一緒にゴミ袋に詰めてベランダから投げ捨てた。要らないものはベランダから投げ捨てると良い。そうすると自分の部屋から要らないものがなくなるから。ベランダの下に転がるゴミ袋を見て、なんなら俺自身も投げ捨ててしまった方が本当はいいのだろうと俺は思う。

誰も知らない話

 ヘンリー・ダーガーを知っているかい? 世界一長い小説を書いた男性のことを。

 彼は幼いころ家族と生き別れたり、知的障碍者と見なされて施設に収容されたり、そこから逃げ出して何百キロも歩いて生まれ故郷に帰ったりして、その後教会で何十年も掃除人として働きながら、その傍ら、彼は書いた。19歳の若者が、80歳のおじいちゃんになるまで、たった一つの物語を書き続けた。天涯孤独で誰とも親しむことのなく、近所の人たちからは狂人だとすら思われていた一人の老人。その死の間際に、彼の住んでいたアパートの大家がそれを発見したという。

 全体で15,000ページ以上にわたるこの小説は、「非現実の王国で(In the Realms of the Unreal)」というタイトルを冠している。正式名称は、本当はもっと長いそうだが。

 話を聞いただけだと、ただの狂人の妄想の産物だ、と考える人もいるかもしれない。ちょいと頭の外側と内側がごちゃ混ぜになってしまった、かわいそうな人が残したただの落書き集だ、と。

 だけど、ヘンリー・ダーガーは現実と想像の区別がついていない精神異常者では、決してなかったんだと俺は思う。彼がその制作に没頭した小説のタイトルを見れば、それは一目瞭然だ。”Unreal”。彼は紙の向こうに広がる世界が現実ではないことを、もちろん理解していただろう。

 偏屈な老人は、誰にも読ませることのない物語を書き続けた。現実から目を背けるためだったのか、実現しえない理想を実現するためだったのか、彼の現実を支配する孤独を癒すためだったのか。その駆動力となったものは推し量ることしかできないが、ただ一つ断言できるのは、いかなる方法にせよ、この小説は彼を救うものであったのだろう。80歳を超えるまで生きていようと思える程度には。

 ただ自分を救うためだけに書かれた小説。おそらく、ある意味では最も純粋な小説。ヘンリー・ダーガーアウトサイダー・アートの第一人者と評されることがあって、彼は別にアーティストになろうとしたわけではないのだろうけれど、誰も読むことがなかったゆえに彼の作品がアートたりえてしまったというのはなんだか奇妙な話だ。

 「非現実の王国で」。別にこの小説を読んでみたいというわけではなく、多分読んだとして小説自体はそんなに面白くない。しかしこの小説に俺がやけに惹きつけられてしまうのは、「誰に知られることがなくても、その存在自体がなにか役割を果たしているから」なのだろうと思う。例えば山奥の送電塔や寂れた踏切みたいなもので、そしてそれは俺が最も好きなもののうちの一つだ。