またまた歯医者に行く話

 初診からひと月以上が経ち、年をまたいで西暦の数字が一つ増えてからも、歯医者での治療は続いている。

 いつの間にか通い慣れてしまった道を寒さに震えながら僕は歩く。歯医者への道中、目に映るのは小児科の診療所と薬局、やけに洒落たカフェ、小さな焼き鳥屋。そのいずれにもあまり人の気配はなく、この物寂しさもこの街ならではの持ち味だと、引っ越してから十か月になる今となっては愛着を感じるようになった。

 歯医者の待合室には、やはりあまり人がいなかった。受付を済ますとすぐに診療室に案内され、歯科助手の女性による診療が始まった。

 先日右奥歯に被せた銀歯の予後を一通りチェックし、左のほうにもう一つ見つかった虫歯の確認を済ませた後、「少し待っていてください」と歯科助手は席を外した。この日はここからが長かった。歯医者の椅子に寝そべりながら僕は目を閉じて静かに待っていた。診療室の中には、病院にありがちな静かなピアノのBGMと、これもありがちな子供の泣き声が響き渡っていた。

「すみません」と、僕のブースに戻ってきた歯科助手が言った。

「先生が、いま少し手が離せなくて。もう少しお待ちください」

「そうでしょうね」と、僕は言った。子供の泣き声は間断なく続いており、その対処に歯科医がかかりっきりになっているであろうことは容易に想像がついた。

「大変なお仕事ですね。子供の健康を思ってのことなのに、当の子供たちには嫌われる」

 そうですね、と歯科助手は笑った。「でも、やりがいのある仕事です」

「どうしてこの仕事を選んだのですか」僕は何気なく尋ねた。

 歯科助手は少し考え込む様子を見せてから、答えた。

「穴を埋めるような仕事をね、したかったんですよ。私は」

「穴を?」不可解な答えに、思わず僕は聞き返した。

「埋めるじゃないですか、虫歯。ああやって、穴を少しずつ埋めていくようなことを、私はしたいと思って」へへ、と少し恥ずかしそうに歯科助手は笑い、言葉を続けた。「埋めたくなりません? 穴があったら」

「ちくわの穴にきゅうりを詰めてみたくなるような?」

「ドーナツとかバームクーヘンとか見てるともやもやしますね」

「好きなスポーツは?」

「ゴルフです」

「好きなパズルは?」

 クロスワード、と彼女は笑う。「こう、目に見える穴でなくても、例えばスケジュール帳の空白もなるべく埋めたくなりますね。一人だけの時間って、人生における穴みたいなものじゃないですか」

「わかる気がします」と僕は言った。「お腹が空いたら何か食べるのも、要は穴を埋めることだ」

「そうそう、そうやって、穴を埋めながら私たちは日々を過ごしているんですよ」

 生きるとは穴を埋めることだ。過去に偉大な人物が遺した格言であるかように、そう彼女は言った。

「人が本を読んだり映画を観たりするのも、穴を埋めたがっているから、なのでしょうか」僕は言った。

「暇な時間を潰す、ということですか?」歯科助手が首を傾げた。

「いえ、時間や予定を、という意味ではなく」言葉を続けようとしたが、ブースに誰かが立ち入ってきて、僕はそこで口をつぐんだ。

 お待たせしました、と頭を掻くその男性は言うまでもなくこの病院の主だった。いつの間にか子供の泣き声は止んでいた。

 治療が再開し、僕と歯科助手の会話は中途半端に終わりを迎えた。

 

 *

 

 診療が終わり、受付で代金を支払い、来週の土曜日に僕は診療の予約を取った。

 また一つ穴が埋まった、と僕は心の中でつぶやいた。

 外に出ると、雪がちらちら舞い始めていた。一段と厳しくなった寒さに僕は身体をぎゅっと縮こまらせて、歩き始めた。

「本を読んだり映画を観たりするのは、」僕は独り言ちる。「空っぽな自分を埋めるためだ。語るべきことも、やるべきことも特に見つからないがらんどうの中に、物語を詰め込んでおきたいからだ。そこから何らかの意思や意味を、さも自分自身のものであるかのように取り出せるようにしておくために」

 そんな風に考えるのは、僕だけだろうか。

 風が強くなり、細かい雪が顔に吹き付けてきた。僕は少し俯いた。

 あの歯科助手の言うことが正しいとして、人間が穴を埋めるように生きているのだとして、穴を埋めきったその後には、その人生にはいったい何が残るのだろうか。あるいは、埋めきれない穴をひたすら埋め続けて一生を送るのだとしたら、それはこの上なく絶望的なことなのではないのだろうか。

 悲観的な自分に僕は小さく笑った。

 黒いコンクリートの上に、白い雪がぽつりぽつりと舞い落ちていく。それを踏みにじりながら、僕は家に帰った。

「廊下に立つ」

 廊下に立たされることになった。居眠りしていたせいだ。

 こんな刑罰が実在するなどとは驚きだ。のび太くん以外誰も体験しないものだと思っていた。

 とりあえずはテンプレートに則り両手に水の入ったバケツを持ってみたが、これに何の意味があるのか実行している僕にも分からない。この状態で反省がてら、さきほど追い出された物理の授業の復習を行うことにする。バケツの質量をmとして右手にかかる重力はmg、左手にかかるのも同じくmg、僕に罰としてのしかかっているこの重みは合計2mg。僕の実力で理解できるのはここまでだ。

  既に左腕がmgに耐えきれず震えてきた。一時限分の時間が経つころには僕はきっと疲れ果ててしまうだろう。そうすると次の授業で僕はより強い眠気に襲われることになり、つまり両手にバケツは居眠りをした罰としてあまり適当とは言えないのではないか。

 一度バケツを廊下に置いた。2mgがゴトリと音を立てた。置いたのは思案に集中するためだ。早くも僕の腕に限界が訪れたわけではない。

 先生が話す声と、チョークが黒板を叩く音が背中側から聴こえてくる。その物音に、僕は少し寂しくなる。

 一つ席の空いた教室では、普段と変わることなく授業が進んでいっているのだろう。あのだみ声ハゲ、いや先生が書き連ねる文字を生徒たちがせっせと写し、時々練習問題を解く。問題を前に出て解くように言われた生徒がお決まりのように「わかりません」と答え、その後ろに座る生徒も「わかりません」と言う。それが三回続いた後に仕方なく自分で解き始めるあの先生の教え方は、どちらかと言えば分かりにくい。

 なるほど、廊下に立たされるという罰は、こうやって自分の不在が他人に大した影響を及ぼさないことを思い知らせるためにあるらしい。僕がいなくとも授業は成り立つ。自らが廊下の隅に転がる埃と変わらぬ些末な存在であることを悟り、鼻の奥がツンと痛んだ。

 僕は反省した。凄まじく反省した。

 そしてこの反省の姿勢を示すためには、生半可な廊下の立ち方では力不足であるとの結論に至った。凄まじく反省しているからには、同じく凄まじい廊下の立ち方をしなければならないに決まっている。

 足元のバケツを見る。バケツを両腕に提げながら廊下に立つなんて、誰もが簡単に思いつきそうな立ち方は問題外である。もっと強烈な負荷をかけるべきなのではないか、と鉄球を両手に持つ立ち方を考案してみたが、そもそも学校の廊下に鉄球はない。

 他にも剣山の上に立つ、硫酸の海の中に立つなども考えてみたが、実行不可能なものばかり考えても仕方ないだろう。

 とりあえずはできる範囲で、片足立ちをしてみる。フラフラする。傍からみると遊んでいる様にしか見えないということに気付いたので止める。

 続いて逆立ち。腕がプルプルし、次第に頭に血が昇り、僕はバランスを崩して廊下に思い切り身体を打ち付ける。ベタン、と比較的大きな音が鳴る。僕は急いで通常の二足直立状態に戻り、すぐさま教室の扉が開いて先生が顔を出す。

「何やってんだ」

「廊下に立ってます」

「ふざけているんじゃないだろうな」

「とんでもございません、僕は真面目に廊下に立とうとしているのです」

「正しい日本語はとんでもないことです、だ」

 先生の頭が引っ込み、扉が閉まる。僕はホッとする。

 ここまでやって気付いたのだが、ただ立ち方を少々変えてみるだけではどうやっても“凄まじい立ち方”にはならないだろう。“少し変わった立ち方”になるだけだ。それでは駄目だ、求めているのは僕のこの尋常ならざる反省を伝える“尋常ではない立ち方”なのだ。

 さてどうしたものかと頭を捻り、頭が二回転半したところで唐突に天啓が訪れる。なにも難しく考える必要はない。僕は、ただ廊下に立てばよいのだ。

 無論、漫然と廊下に立ってはならない。純粋に廊下に立つ。廊下に立つ以外の行為を全て遮断し、廊下に立つことの純度と密度を高め続けるのだ。

 そうと決まればバケツなんぞ邪魔になるだけだ。手洗い場に行って中の水を流す。さよなら2mg。

 僕は教室の外の定位置に戻る。既にこの場所に立っていると安心感を覚えるようになっている。良い傾向だ。この調子で、廊下に立っているのが自然なことである状態まで持っていくのだ。

 目を閉じる。廊下に立つために、視覚は必要ない。続いて聴覚も遮断しようとするが、残念ながら僕は耳を閉じることはできない。代わりに聴覚から意識を外し、全意識を脚にのみ集中させる。

 今の僕に必要なのは、廊下に立つこの脚だけだ。他のすべてはもう不要なものだ。

 大きく深呼吸する。息を吐くごとに、一緒に体の力を抜いていく。呼吸の速度を次第に遅くしていく。呼吸しているのかどうかわからない程度まで。

 やがて、僕は何も感じなくなる。暗闇と静寂の中に僕はいる。身体の輪郭が曖昧になり、溶けて外界と混ざりあい、流れていく。他の何もない、ないことさえ存在しない虚無の中で、ただ僕の脚だけが確固たる実体を保ち、廊下に立ち続けている。

 既に僕に罰を受けているという意識はない。罪を贖うために廊下に立っているのではなく、僕は廊下に立つために廊下に立っている。廊下に立つという行為の追求。純粋な、最も純粋な“廊下に立つ”。他の何事も僕とは関係なく、もはや僕自身すら関係なく、ここには“廊下に立つ”という行為のみが存在する。

 後は僕の意識をすり替えるだけだ。意識的に廊下に立っているのでは不純物が紛れこんでしまい、真の“廊下に立つ”を体現するには至らない。意識さえも不要だ。脚と廊下のみがこの場に存在を許される。

 廊下に立つ。その行為のみで意識を満たし、他の何物も入り込む余地を消し去ってしまうのだ。

 僕は廊下に立つ。

 僕は廊下に立つ。

 僕は廊下に立つ。

 僕は廊下に立つ。

 廊下に立つ。

 廊下に立つ。

 そして、僕は廊下にーーーーーー

 

 

 突然強い衝撃を受け、僕は自分自身を思い出す。急激に世界が輪郭を取り戻し、色彩が周囲に宿り、音が空間を満たしだす。

 引きずり戻されたのだ。こちらの世界に。

 何が起こったのか分からず目を白黒させていると、目の前にはなまはげがいた。

「寝んな」

 勿論それはなまはげではなく、怒りに顔を赤くした先生だった。その手には丸めた教科書があり、どうやらそれで頭を叩かれたらしい。

「良い度胸してんな、お前」

「いえ、寝ていたわけではないのです。僕は著しく反省しております。猛省に次ぐ猛省の上、“廊下に立つ”という罰の意味を真摯に受け止め、それを忠実に実践しようとした結果……!!」

「やかましい」

 先生は数秒考え込み、言った。

「グラウンドにでも立ってろ」

 

 *

 

 力強い北風と舞い上がる砂埃に打ち付けられながら、僕はグラウンドに立っている。

 時折体育の授業を受けている下級生たちが好奇の視線をこちらにぶつけてくるが、これも罰の一部である。耐えねばなるまい。むしろ少し気持ちよくなってきた。

 さて、このような状況を鑑みれば、“グラウンドに立つ”ことを追求するのは“廊下に立つ”ことを追求するよりもいささか難易度が高いと考えるのが妥当である。しかし、先ほど“廊下に立つ”の最奥をのぞき込みかけた僕だ。成し遂げることができるに違いない。懸念されるのは達成する前に先生に見つかってしまうことだが、それは仕方ないものとして諦めるほかないだろう。

 もし僕の瞑想が、居眠りであると再び先生に見とがめられた場合、どういった処罰が下るのだろうか。次は校舎外だろうか。もしその次は町外、次は市外と追い出され続けるとしたら、最終的に僕は宇宙に立つことになってしまうだろう。まあしかし、その場合も問題はない。宇宙旅行が幼いころの夢だった。

 息抜きはこのくらいにしておこう。いつ再び先生が巡回に来るやも知れぬ。その前に僕は成し遂げなければならないのだ。

 目を閉じて大きく深呼吸する。

 そして僕は、グラウンドに立ち始めた。

帰っている話

 かつて通学に使っていた京阪電車、その始発駅である淀屋橋

 朝、大阪から京都に向かう人々は、示し合わせたように進行方向左側の座席に座る。右側の座席は南東に面しながら線路を進んでいくことになるから、朝陽が差して眩しいのだ。その光景はまるで日陰に集まる猫みたいだけど、残念ながらスーツ姿のサラリーマンやだらしなく眠る大学生は猫に例えるには愛嬌が足りない。

 

 新幹線に揺られながら、そんなことをふと思い出していた。

 

 昨晩会社のほうでトラブルがあり、夜21時に呼び出された時にはもう年末年始を諦めかけたのだが、会社に駆けつけて先輩の隣で2時間ほどわたわたしていると「お前にできることは特に何もない」と上司に言われたのですごすごと引き下がった。その後すごすごと一晩眠り、すごすごと支度を整えてすごすごと新幹線に乗り込んだ。自分が新人であることにありがたさ半分、情けなさ半分。新幹線が揺れる音も今日はなんだかすごすごとしているように感じられ、お察しの通り僕はすごすごと言いたいだけだ。

 

 窓から景色を眺めるのは好きだが大抵そのうち眠りに落ちてしまうし、プラットフォームに降りた時には見ていた景色のほとんどを忘れてしまっている。

 景色を眺めるのは難しい。これは大学生だった頃からずっと思っている。見ているようで目に入っていない細部が山ほどあり、これらを完全に把握しない限りは景色を本当に眺めたことにはならないだろう。しかし細部にばかりこだわりすぎると今度は全景が目に入らなくなり、そうこうしているうちに景色は窓の外を通り過ぎる。比喩の才能のある人ならこれを時の流れやら人との出会いなどに例えるのだろうが、生憎僕には才能がないため精々流しそうめんに例えるくらいしかできない。

 新幹線の窓から見る景色はまるで流しそうめんのようだ。掴もうとしているうちに流れ去っていくし、五分で飽きる。

 

 景色の中のどうでもいい細部というのが僕は好きで、多分これは伝わらないのだろうけれど、例えばこの前訪れた山中の公園に設えられた送電塔に、風を受けてくるくる回っているよくわからない物体がひっついていたりするのだが、まさにああいうものだ。

 僕が常に忘れないでいたいと思っているのはそういった見過ごしがちなとるに足らないものの存在だ。世の中の空白を少しずつ埋めてくれているこいつらがいなければ、世界はまるで麩菓子みたいにスカスカになってしまうんじゃないかな。

 

 新幹線はあっという間に広島を追い越して岡山に追いつこうとしている。

 大阪の実家に向かうことを僕は「帰る」と表現するが、困るのが山口の現住所に戻る方だ。前者を「帰る」と言ってしまった以上こっちは「行く」になるのかもしれないけれど、そうなると僕の部屋はいったいなんなのだ、僕の部屋は僕の居場所ではないのか。いや現在大阪のほうに僕の居場所があるのかどうかも怪しく、そもそも僕の居場所なんてものがこの世界に存在するのかと考えたところで悲しくなってきたので止めておく。とりあえず長年過ごしてきた大阪のほうに軍配が上がるとして、僕は今大阪に帰っている。

 いずれ、大阪に行って山口に帰る、と表現するのが自然になるのだろうか。

 その未来が訪れるのは当分先になりそうだが、多分その時、僕は僕の居場所を一つ失ってしまうことになるのだろう。

また歯医者に行く話

 何故毎週歯医者に通わなければいけないのかと尋ねると、虫歯とはそう簡単に治らないものだから、らしい。

 診療室のブースに入って、椅子に腰かける。歯医者にあるもののうち、背もたれが倒れるこの椅子と自動的にうがい用の水を注いでくれる給水器の二つが魅力の面では抜き出ている。あとは削ったり磨いたり吸ったり刺したり、無粋なものばかりだ。

「馬が歯科医を開業したら《うましか》、つまり馬鹿となってしまうのだろうね」と歯科助手の女性に話しかけたところ返答はなく、椅子が倒れて治療が始まる。

 歯科助手が何かの器具を私の口内に突っ込み、突っ込まれた器具が機械音を立てる。歯医者の治療の恐ろしさは、何をされているのか確認できないことに一因があると思う。虫歯の治療と称して何か別の作業をされていたとして、私にそれを察する手段はない。知らぬ間に口内にプレハブ倉庫が建築されたりはしないだろうかと私は心配になる。

「プレハブとは略称であり、正式にはプレファブリケーションという。工場であらかじめ加工しておいた部材を建設現場で組み立てる工法のことだ」と歯科助手に話しかけたところ返答はなく、椅子が起き上がったので私は口をゆすぐ。再び椅子が倒れる。この場において私に許された行為は口をゆすぐのみである。

 ここで満を持して歯科医が登場する。歯科医は私の口内を舐めまわすように見て、「なるほど」と言った。私の口内は彼を納得させうるだけの説得力を備えていたようだ。その説得力が何に起因するものなのか、私には自身の口内を確認する術がないからわからない。

「銀歯などというありきたりなものではつまらない。もっと私にふさわしい、個性的で魅力的でユニークで奇妙奇天烈な義歯が私は欲しいのだ」

「勿論ございますよ。金属ですと金歯に銅歯に白金歯、チタン歯アルミ歯マグネシウム歯、錫歯亜鉛歯鉛歯ニッケル歯クロム歯ニオブ歯マンガンモリブデンタングステン歯、アンチモンビスマスバナジウムルビジウムイリジウムイットリウム歯などもございますし、無論単体金属のみならずステンレス歯ニレジスト歯ジュラルミン歯超ジュラルミン歯超々ジュラルミン歯青銅歯黄銅歯洋白歯キュプロニッケル歯インコネル歯ニクロム歯はんだ歯アマルガム歯など合金歯も取り揃えておりますし、金属歯のほかにもゴム歯やセラミクス歯ガラス歯カーボン歯といったジャンルもあり、ゴム歯ですと例えば」「銀歯にしてくれ」

 こんなに歯という文字が並んでいると、歯という漢字の造形に自信が持てなくなってくる。

 かくして治療は進み、その間何度も椅子が起き上がり、その度に私は口をゆすぐ。少し頻繁に過ぎると思う。こんなに私に口をゆすがせるからには、私が口をゆすぐことで何らかの利益がどこかにもたらされているに違いない。例えば砂漠のサボテンに花が咲く、などである。明日からはもっと口をゆすぐことにしよう。

「サボテンにはいくつも花言葉があり、枯れない愛、内気な心といったロマンティックなものもあるが、私が最も好きなのは《風刺》だ。風刺というには棘があからさますぎる」と歯科助手に話しかけたところ返答はなく、椅子が起き上がったのでコップに手を伸ばそうとすると「終わりです」と告げられた。今、砂漠のサボテンの花が一斉に枯れた。

「無事、右奥歯に自爆用のスイッチを設置し終えました」

「なんと、確か私は虫歯を治療をしてもらいにここに来たのではなかったか」

「何をおっしゃいますか、先週からずっと自爆用のスイッチを設置するという話をしていたでしょう」

「そんな気もする」

「では試しに一回噛んでみてください」

「噛むと死ぬではないか」

「大丈夫、死なないタイプの自爆です」

「死なないタイプの自爆か。安心した」

 私は奥歯を強く噛み締める。身体を四散させながら、やはり自爆用のスイッチではなくプレハブ倉庫の設置をお願いすればよかったと私は後悔する。

部屋の話・夢の話・コメントの話・タイトルの話・雑な話・ホームアローンの話・忘年会の話

 部屋に帰ってくると俺のものがいっぱいあって、「ああ、ここは俺の部屋だ」と思う。俺が好きなものや欲しかったものがそこら中に転がっている。まるで俺自身を切り離して部屋中にまき散らしているようだ。ここは俺の部屋だと目印をつけるために。丁度犬が電信柱に小便をひっかけるみたいに。

 いつのまにこの部屋はこんなに俺の部屋になったのだろうか、俺は考える。四月、引っ越してきた当初はまだ俺の部屋ではなかった。段ボールの積み重なる部屋に布団を敷き、「よし、これからここを俺の好きなようにしてやるぞ」と意気込みながら眠りに就いた記憶がある。その次の週、本棚とCDラックを組み立てた時に、この部屋は結構俺の部屋になった気がする。いやしかし、五月末から一か月と少し部屋を空けた期間があるから、そこでいったんこの部屋は俺の部屋でなくなったはずだ。七月に帰ってきて、それから五か月も経とうかという今、この部屋はもう信じられないくらい俺の部屋に成り果ててしまっている。俺はただ、この部屋で暮らしていただけなのに。

 そういうわけで、俺は俺の部屋に住んでいる。この部屋が何かの間違いで燃え上がってしまったとき、俺はとても辛く感じるのだろうと思う。まるで自分の半身が燃えているように。迷子の犬が夕日に向かって鳴くみたいに。

 

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 「新入職員の皆様におかれましては、就活生へと送るメッセージを執筆いただきたく」という文面とともにアンケートが送付され、その中に「仕事上の夢や抱負を聞かせてください」という項目があったのだが、何を書けばいいものかさっぱり思いつかない。あまりの思いつかなさに自分に驚いている。夢がない、夢がないとは常々思っていたけれど、こんなに夢がないとはさすがの俺も気付かなかった。

 

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 「「何かに対するコメント」に対するコメント」は基本的に薄っぺらいものになる。自分でもたまにやってしまい、薄っぺらすぎてすぐ破る。薄いので良く破れる。あんなにみっともないものもそうそうないなと思う。元のコメントよりさらに偏狭なものにしかならないし、話の本筋から外れやすい。誰も得しないものになりやすいのだけど、しかしこれは書きやすい上に言いやすいので皆やる。「何か」について抱いた感想を表現するのは結構難しいのだが、「何かに対するコメント」についての感想は表現しやすいらしい。

 「「何かに対するコメント」に対するコメント」であんなに薄っぺらいのだから、「「「何かに対するコメント」に対するコメント」に対するコメント」はさらに薄っぺらいのだろう。「「「「何かに対するコメント」に対するコメント」に対するコメント」に対するコメント」までいくと一体どうなってしまうのか。これを素材にしたコンドームでも作ってしまうと良い。ただし強度はないからすぐ破れる。

 

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 いちいちタイトルを考えるのが面倒くさくて、適当な単語に「~の話」という語尾をくっつけてずっと通してきたのだが、最近「~の話」という部分が冗長に感じられるようになってきた。取っ払いたくて仕方がない。

 適当な単語を羅列するだけのブログにしてしまえばよかった。「スマホケース」「トイレとエネルギー」「眠る前」「自転車と図書館」「想像力」「喉枯れ」「うまいコーヒー」「落ちる」「火」「偽物」「砂や岩」「古い靴」「足の爪」「植え込み」「歯医者」「チンする」。なかなか悪くない。ただ意図的に無視したタイトルの記事も結構あり、統一感を出すのは難しいものだと思う。

 単語の羅列が好きだ。単語は無機質で乾いているものであればあるほどいい。そういう単語が無作為に出てくるボタンがあったら、俺は休まず押し続けると思う。餌が出てこないサルみたいに。

 

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 「雑記」ってカテゴリ、自分でもどう扱っていいものやら分からないので、今日はメチャクチャ雑に書いてます。

 

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 ホームアローン、録画してあったのを観たんだけど、ホームアローンしている部分が覚えていたよりも短かった。

 

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 明日は忘年会がある。忘年会、忘年会と言いながら皆その年にあったことばかり話すというあの会だ。ちゃんと忘れてほしい。名が体を表さないケース。

 いつもいつもその年のことは結局忘れないのだから、もう最初から違うものを忘れるつもりでいたほうがいい。いつだったか、友人とそんな会話をしたことがある。「忘元カノ会」「忘黒歴史会」とかいろんな提案をしながら酒を飲み、寝て起きたらそいつは忘年会の内容をすっかり忘れてしまっていて、図らずしも「忘忘年会会」をした形になった、というのが今回のオチだ。お粗末。

チンする話

 今までなんとかやってはきたのだが、「電子レンジがあればウインナーをチンして食べることができる」と気付いたのでレンジをネットでショッピングしてしまった。

 おれが住んでいるのは会社の独身寮で、一階に食堂がある。食堂ではご飯を食べることができる。だけど予約が必要だ。

 最近帰りが遅くなりがちなので、職場のほうで夕飯を済ませてしまった方が楽なことが多い。そういう場合、予約制というものは実に厄介だ。キャンセルするのはもったいないが、育ち盛りでないおれは晩飯を二回も食うことはできない。

 今日のように早く帰れた場合、コンビニで弁当を買うか外食をすることになる。しかしそれだと金がかさみ、予約するにせよしないにせよ、おれの中のワンガリ・マータイさんが「MOTTAINAI」と声を上げる。

 そこでレンジだ。炊飯器はある。惣菜と米ならそれなりに安く上がり、手間もかからない。給料が入ったら検討しようか、と考えていたところで冒頭の閃きだ。

 電子レンジがあれば、ウインナーをチンして食べることができる。

 ウインナーをチンしたことくらい、誰だってあるだろう。ウインナーとチンの相性はとてもいい。中の肉が熱されて膨張し、パツンと音を立てて外皮に裂け目を作る。滴る肉汁の量を最小限にとどめ、最もジューシーな状態のウインナーを味わうことのできる優れた調理法、それがチンだ。

 焼くよりも、茹でるよりも、レンジでチンがウインナーには最適である。チンしたウインナーはほぼ無敵だ。米にも合い、つまみにもなる。つまり最強だということになる。それを思い出した瞬間、おれの指は「1-clickで注文」を押していた。

 書いているうちにおれは腹が減ってきたが、Amazonからのメールは無情にもレンジの到着予定日が明後日であることを告げている。仕方がないから、今日はすきっ腹を抱えたまま眠ろう。明日の帰りにウインナーを買って、その次の日にウインナーをチンできることだけを楽しみに明日の朝、目覚めよう。

 

P.S.

 最近のレンジは大体「チン」というより「ピー」と鳴る方が多い気がするのですが、それでもレンジは「チンする」であり「ピーする」でないのは、やっぱり「ピーする」だと少し卑猥な印象を覚えるからでしょうか。

歯医者に遅刻した話

 気付いたら10時半だったので、歯医者の予約に遅刻した。もっと早く来てくださいと受付で叱られ、ドリルを使って歯を削られ、そして二千何十円かを徴収された。金を払ってまで苦痛を味わうなど、特殊性癖を持つ人のためにある風俗店と変わりない。何だってこんな目に合わなくちゃいけないんだ。

 

 ちなみに遅刻したということは本当だが、叱られたことと歯を削られたことは完全に嘘だ。話を盛る、というやつであり、往々にして僕はこういうことをする。

 この場合は、「遅刻」と「歯医者の診療」という部分を大げさに表現している。「遅刻」と言えば叱られること、「歯医者の診療」といえば歯を削られること。それぞれの単語から最も想起されやすいイメージを付加し、僕の体験を水増しする。なぜそんなことをするのかというと、その方が伝わりやすく、分かりやすく、そして面白くなるためである。歯医者に行ったというそれだけの出来事に、そうやって物語性を持たせるのだ。

 人々が理解して記憶に残すのは、出来事ではなく物語である。なので僕は「歯医者に遅刻した」という自分の体験ではなく、「歯医者に遅刻した」という物語を語る。そうでもしないと到底ブログなんてかけるものか。そのためこの物語に僕自身の姿はなく、曖昧な世界の中で曖昧な僕っぽい姿をしたキャラクターがコミカルな動きで不平不満を喚いている。

 話を盛るという行動はいかなる時代いかなる場所にも見られるようで、大げさな逸話や伝承は基本的には鵜呑みにしない方がいい。ラスプーチンもさすがに不死身ではなかったろうし、板垣退助も暴漢に刺されたときは多分「いてぇ」っつっただろう。河童の好物がきゅうりというのも肌の色にこじつけた作り話だ。河童自体は実在する。道頓堀でよく釣れる。

 

 ここ一か月ほど歯医者に通っている理由だが、右奥歯の虫歯を治療し、ついでに自爆用のスイッチを埋め込んでもらうためだ。右奥歯に自爆用のスイッチがあると何かと捗りそうな気がする。敵に捕らわれた場合でも国家機密を聴きだされる心配がなくなるし、会社で上司に叱られたときにも自爆することで反省の意を示すことができる。飲み会で一発芸を強要されたら右奥歯を強く噛めばいいし、万が一痴漢冤罪に巻き込まれた場合なんてもはや言うのも野暮である。

 そんなわけで今日も歯医者に行ったのだが、どうやら左の奥歯にも虫歯があるらしく、こっちには毒物でも埋め込んでもらおうかと思っている。仕掛けを作動した場合の結果は右奥歯と同様であるが、自爆用のスイッチと比べ毒物は見た目が少し地味になるのが難点と言えば難点だ。一発芸に使えなくなってしまう。しかし目立たないと言い換えれば長所と捉えることもできるので、うまく右奥歯と左奥歯を使い分けていけばいいと思う。

 言うまでもなく今日のブログは嘘ばかりで、本当のことと言えば河童に関する部分くらいだ。河童は実在する。頭部の皿はノリタケカンパニーリミテドが製造している。