休日の僕と時間を奪う灰色の男たちの話

 車を手に入れてからというもの船を手に入れた直後のDQ2並みに行動範囲が広がり、休みの度に島や、山や、島や、島や、山に行っている。山口県は島と山へのアクセスビリティが非常に優れている。しかし近所の島はもう行きつくしてしまったので、これからは遠くの島にも視野を広げなくはならなくなってきたが、果たして僕はそこまでして島に行きたいのだろうか。

 徳利と猪口を買ったので、今まで缶ビールとウイスキーだけだったのが日本酒にも手を出せるようになり、一人酒ビリティが実に向上した。これも、そこまでして酒が飲みたいのかというと疑問なのだが、つい夜には手を出してしまう。晩飯がほぼ寮の食堂で固定されているため、僕に残されたグルメ自由度はこの晩酌だけなのだ。束の間の贅沢を味わうため、割引シールが張られた刺身と日本酒、カントリーマアムとウイスキーを僕は口にする。

 煙草を最近吸い出すようになってしまった。なるべく本数は抑えているが、頭を空っぽにしたいときには極めて有効な手段であり、休日はつい持ち歩いて吸うタイミングを見計らってしまう。本日も朝陽を眺めながらつい何本か手を伸ばしてしまった。誰もいない山頂の公園の展望台で、柱にもたれ、明るくなりだした空に向け煙を吐き出す。言葉にすると悪くない光景のようにも思えるのだがその辺の青春は10年前くらいに消費しておくべきであり、手持無沙汰な20代男性がするにはあまりにも不毛な行為だった気がする。

 

 ミヒャエル・エンデ、「モモ」を読んだ。多分15年ぶりくらいだが、これをとても面白いと感じた小学生の自分にはなかなか物を見る目が備わっていたんじゃなかろうか。めんどうだから詳しいあらすじとかは全部端折る。時間を奪う灰色の男たちにモモという少女が立ち向かう話だ。あとは読んでくれ。

 灰色の男たちが現れだして、少しずつ人々の生活が狂いだしてきたところに、こんな描写があった。

モモのところに遊びに来る子どもの数はふえる一方でした。
 (中略)

 ところが、この子たちのほとんどは、まるっきり遊ぶということのできない子なのです。

 (中略)

 子供たちが、そんなものを使っても本当の遊びはできないような、いろいろなおもちゃを持ってくることが多くなったのです。例えば、遠隔操作で走らせることのできる戦車ーーでも、それ以上のことにはまるで役に立ちません。あるいは、細長い棒の先でぐるぐる円をかいて飛ぶ宇宙ロケットーーこれも、そのほかのことには使えません。あるいは、目から火花をちらして歩いたり頭をまわしたりする小さなロボットーーこれも、それだけのことです。

 (中略)

 とりわけこまることは、こういうものはこまかなところまでいたれりつくせりに完成されているため、子供がじぶんで空想を働かせる余地がまったくないことです。

 もう僕が子供でないことを差し引いても、思うところのある一節だった。さすがに一盛りの砂山や、一本の棒きれ、ちゃちな人形だけで長い間ごっこ遊びを楽しむことはもうできないけれど、それにしても、以前よりもはるかにできることの選択肢は増えたはずなのに、どうしてこうも暇を潰すのに必死な休日を送る羽目になっているんだろうか。

 酒を飲む。煙草を吸う。ゲームをする。観光に行く。パチンコに行く。ゴルフに行く。競馬に行く。あんまり僕がやらないことも多く含まれているけれど、まあなんだっていい。心の底から楽しめることは、以前と比べて随分減ってしまったように思う。

 最近、僕は不安になる。頭の疲れを抜くために、ポケーッと煙草を吸いながら目の前の景色を眺めている僕は、モモに登場するあの灰色の男たちに似てしまってはいないだろうか。僕の吐き出す煙が灰色に染まっていないことを願うばかりだ。