職場の更衣室には大きな風呂が備え付けており、その風呂に入って一息ついていたところ、僕の眼鏡はいなくなっていた。
何を言っているのか、よくわからないかもしれない。しかし文字通りの話だ。僕の眼鏡が姿を消してしまった。跡形もなく。一筆の手紙も残さずに。
僕は眼鏡のない、いわゆる裸眼で、眼を凝らしながら家路についた。冷たい風が直接僕の眼に吹き付けて、少し涙が滲んだ。眼鏡のない生活は久しぶりのことで、あらゆるものが霞んで見えた。今まで当然のようにともにいた眼鏡を失う、ただそれだけのことで、世界は鮮明さを失ったように見えた。
家に辿り着いてから、僕は予備の眼鏡を身に付けた。オレンジ色の弦が眩しい眼鏡だ。その眼鏡を掛けるのは、数年ぶりのことだった。数年前、今の眼鏡を手に入れてからは、久しく掛けることのなかった。
「久しぶりね」と彼女は言った。
「予想外の事態が起きてね」と僕は答えた。
彼女、予備の眼鏡は、そのレンズの隅に静かに光を湛えていた。それはレンズの隅にとりついた傷のせいだったかもしれない。しかし、その光はどこか寂し気なもののように、僕は思えた。
「予想外の事態」と彼女は言った。「それがなければ、私を再びかけることもなかったでしょうね」
「あるいは」と僕は言った。「君にとっては、非常に冷酷なことだったかもしれない。それを僕は、本当に申し訳なく思っているのだけれど」
「私に対する謝意など、どうでもいいの」眼鏡は答えた。「私たちは、ただの道具。人間に、便利に使われるための、ね。だからあなたが私のことを忘れていたとしても、それは責められるべきことではない。何故ならば、私は使われていなかったのだから」
僕は目を閉じて、今自分が掛けている眼鏡に意識を凝らした。そこには違和感があった。いつも僕が掛けていた、新眼鏡とは違う存在がある、その感覚が。この眼鏡をかつて自分が掛けていたという事実は、にわかには僕には信じがたいものだった。
「重要なのは、あなたがいつも掛けていた眼鏡。あなたがその眼鏡の存在を、さも当たり前のように思いこんでしまっていたということ。あなたの鮮明な視界が、眼鏡によりもたらされたということなど、あなたはすっかり忘れてしまっていたの。だから、あなたはうろたえてしまっている。当然のようにあったものが、失われてしまったのだから。しかし、その喪失は、ある意味ではそれは正しい。あなたの眼鏡は失われるべくして失われたの」
「失われるべくして失われた?」僕は、いま掛けている眼鏡の言葉を繰り返した。
「あなたの眼鏡が、あなたにとって当たり前になってしまった実存を回復する為には、一度失われざるえなかった」
僕は黙って、今かけている、旧眼鏡を外した。彼女はそれ以上言葉を発さず、ただ静かに室内灯の光を反射していた。
僕は新眼鏡のことを考えた。しかし上手く思い出すことができなかった。新眼鏡は僕とともにいて、当たり前のものだった。
新眼鏡を掛けた時の鼻の重み。新眼鏡を掛けている時の鮮明な視界。新眼鏡がいままでカットしてくれていたブルーライトの光。それらは全て、今では既に失われてしまったものであり、僕が今まで特別に意識しなかった事象であり、そしてもう二度と手に入れることのかなわないものであった。
「僕は、どうしたら、あの子ともう一度出会えるのだろう?」と僕は言った。
僕の質問に答えてくれるものは誰もいなかった。旧眼鏡も、ただ静かに机の上に佇んでいた。僕はぼんやりと霞んだ視界を見つめたまま、少しだけ泣いた。