休みと、ペットショップの動物と、走り回る子どもの話

 あまり正当とは言えない理由で今日もお休みを頂いた。要するに体調不良です。

 職場に休みの連絡を入れ、「生活リズムは崩さないように」とのお言葉を頂いたその体で二度寝に入り、目を覚ますと12時だった。部屋に食料はなかった。溶けた鉛のように重たい頭と身体を引きずって風呂に入り、着替え、車のキーを手に取り、外に出ることにした。一先ずは昼食を取らないと、凝固した鉛の塊になってしまうような気がした。

 うどん屋で、うどんよりも多くのネギと天カスを摂り、ついでに頭と体のリハビリがてら近くのショッピングモールへと向かうことにした。アクセルを踏む。ガソリンを燃料にして動く車が、ネギと天カスを燃料にして動く僕を運んでいった。

 何も考えずにふらふら歩いた。時折、胸ポケットに放り込んでいた電子煙草を吸った。思い付きで買ったものだが、ニコチンが苦手なくせにたまに吸いたくなる僕には重宝している。

 息を吸う。吐く。水蒸気の煙の行方を目で追う。一連の動作は、僕に空白の時間をもたらしてくれる。

 適度な空白は良いものだ。空白がなければ、僕は空白以外のものが有する圧倒的質量に押しつぶされてしまいそうな気がする。現に押しつぶされているのかもしれないけれど。なお、空白は適度な量に留めておくべきで、巨大な空白は虚無となって僕を飲み込んでしまうことだろう。分かっている。分かってはいるんだけどな、と僕は思う。

 ふらりとペットショップに寄り、買う予定もない動物を冷やかした。眠り続けていたアメショ。僕を不機嫌そうな目で一瞥し、ガラスケースの前を何回か行ったり来たりして背中を向けたスコティッシュフォールドポメラニアンは、僕が目の前で立ち止まると、狭いケースの中を走り回ったり、縦横無尽に跳び回ったりした。隣の豆柴もつられて跳んでいた。反対側のトイプードルは気だるげに壁をパンチしていた。それぞれの性格というか、性質が表れるものだなと思う。

 寮住まいではペットは難しい。可能性があるとして爬虫類か、とコーンスネークやレオパルドゲッコーを冷やかしてみる。コーンスネークはケース内の自分の部屋に籠ってしまっていて、姿かたちも見えなかった。レオパはいろんな種類がいた。眠るトカゲ、何かを見つめて微動だにしないトカゲ。目と口の愛らしさは小動物系と比べても引けを取らない。静かで飼いやすく、おまけに少し懐きもするとなれば興味も出てくる。が、お値段、19,800円。思い付きで飼うにはハードルが高い。

 店内の散歩で身体も少しほぐれたので、TSUTAYAへと移動し、店内カフェで時間をつぶした。未購入の本を持ち込んで読んでも良いという優れた暇つぶしスポットだが、今日は持参した本を読んだ。佐藤友哉「灰色のダイエットコカコーラ」。大人になりきれない19歳のフリーターが、町内の支配者であり絶大な力を持っていた祖父に憧れ、祖父のような「覇王」になるべく、ごく普通の一般人である「肉のカタマリ」を軽蔑し、侮蔑し、罵倒し、成り上がりを目指す物語。「覇王」を目指すというものの、主人公自身はいまだ何も成していない「肉のカタマリ」未満であることを自覚しており、そこから醸し出される切迫感、焦燥感は凄まじいものがあった。特に自虐を形容する言葉の羅列が素晴らしい。「まるでテーブルの下に落ちたたべかすだ。病気の猿が振りまく糞臭だ。アルコール中毒者の一瞬の夢だ。告白したがっているウジ虫だ。生真面目な喜劇役者がひそかに愛する注射器だ。豚の吐しゃ物で作られたハンバーグだ。交通事故で死んだ少女の破られなかった処女膜だ。」思春期の頃に読んでいたら受け付けなかっただろうが、今読むとなると少し遅すぎたのかもしれないとも思う。26歳の僕。僕は肉のカタマリでいることに精いっぱいだ。

 本を読んでいる僕の傍を、時折3,4歳頃の子どもが二人、駆け抜けていった。男の子が一人、女の子が一人。近くでは、おんぶひもで赤子を前にぶら下げた母親が二人立ち話をしていた。座ればいいのに、と浅はかに僕は思った。彼女らは時折子どもに注意を投げた。彼女らの声が僕には区別できず、どっちの母親が子どものなのかもすっかり判別できなかった。子どもたちは注意をほとんど聞き入れず、棒の先に恐竜をぶら下げたおもちゃを振り回していた。子犬と同じだな、と先ほどのペットショップを僕は思いだしていた。

 何回か、子どもが僕の顔を遠巻きに覗き込んだ。僕はその度にいびつな笑みを返した。僕には彼らが無邪気に跳ね回る小動物のように見えていたが、彼らには僕がどんなふうに見えていたのだろうか? 動物園の水槽で身じろぎしないカバのように見えていたのかもしれない。カバならいいな、と僕は思う。カバは強いんだ。

 子どもたちの話す言葉はほとんどが聞き取れなかったけれど、たまに「悪い人」「悪い子」という単語だけが僕の耳に飛び込んできた。僕のことか、と身構えたけれど、どうやら僕は関係なく、彼らのお遊びにおける架空の相手らしかった。彼らの持つ恐竜が「良いもの」なのだろうな、と思った。

「良い」「悪い」

 そんな風な二元化が出来ていたのはいつのころまでだったっけな、と思う。少なくとも、小学生ぐらいの時には架空の悪役を叩きのめす空想に思いを馳せていたとは思う。だけど、いつからか良い悪いの二つだけじゃなく、徐々に良いものも徐々に悪いものもあるんだということを知り、しまいには良い悪いで語れることなんてそうそうにないんだということも知り、善悪の二点から、善悪の有限な数直線上から、無限に広がる平面上に僕は自分が放り出されていることに気付く。

 ここには敵はどこにもいない。張り合う相手も誰もいない。

 さてさて困ったな、まずは自分の立っている場所を定めなくちゃいけないんだけど、そうだそこの子どもたち、僕がどんな人間か教えてくれないか? と脳内からカフェ内へと視線を上げると、いつの間にか子どもたちは母親もろとも消えていた。彼らの痕跡は何も残されていなかった。

 僕も読み終えた本を畳んで、家へ帰ることにした。

 あの子たちには、僕が「良く」見えていたのか、「悪く」見えていたのかが、今でもどうにも気にかかっている。