変わるもの、変わらないもの、変えられないものの話

 緊急事態宣言の延長が決まる。自粛の余波はあらゆるところに押し寄せて、この国全体が暗澹とした停滞期に潜り込んでいる。活動は中止される。無作為に動く粒子のなかに一つだけ汚染源を放り込んで、あとは熱運動に任せていたら、互いに衝突しあって汚染が直ちに広がることは目に見えて明らかだ。感染者は指数的に増加する。抑制する方法はただ一つ、指数を1以下に低減する必要があり、そのためには熱運動を抑えなければならない。世界全体が冷却され、不活性に陥っていく。

 と、言うような状況であることは理解している。

 が、正直なところ、いまだに僕には実感がない。

 僕の住む三重のこの街ははわりあい暢気なものだ。連休前も通勤に向かう車の量はさほど変わらなかったし、スーパーの中も買い物客がひしめいている。勤務先の会社では変わらずに用務が続けられており、何人かが交代でお試しテレワークをやってみている程度。連休中は自重しようと、GW直前に入った来来亭は8割ほどの客入りでにぎわっていた。国道23号線に車は流れ続けている。ただ、多少その勢いは衰えて見えるし、線路を走る近鉄電車の窓に乗客の影はほとんど見えない。それくらいだ。諸国の厳然たるロックダウンに伴うポストアポカリプス然とした光景はここにはない。緩やかな老年期の影が、よく探せばそこかしらにちらついている程度。

 世界は変わる、という人がいた。人々の意識は刷新され、今後我々はアフターコロナの世界でサバイブしなければならないのだ、と。だけど僕は、このウイルスがもたらす絶対的な変化なんてものを信じちゃいない。生き延びなければならないのは確かにそうだが、しかしそれはCOVID-19によって世界が変わったからだろうか? アフターコロナ、そんなものはない。そもそも古くから感染症は世界のあちこちに蔓延り続けていた。移動機関の発達、ビジネスやコミュニケーションのグローバル化、医療技術の進化。それらによってド派手に登場することに成功した新規感染症、それがCOVID-19だ。こいつら自身が世界を変えたわけではない。ただ、こいつらはその堂々たる目立ち方によって、世界に混乱をもたらして、少なくない数の問題を浮き彫りにして、人々に突きつけた。

 何を浮き彫りにしたのか。政治。医療。休業。転売。マナー。思いやり。山ほどあるが、その根底にあるものを一つだけ挙げるとするならば、それは「僕らの生活は辛うじて成り立っているに過ぎない」という感覚に尽きると思う。

 少し前までに僕らが過ごしていた、何気ない日常とやらは、それに僕らが自覚的であるかどうかにかかわらず、実際に多くのものによって守られていた。教育も、福祉も、医療も、インフラも、技術も。先人たちが、「みんなが快適に清潔に安全に過ごせるようになろう」と作り上げてきてくれた制度によって、僕らは当たり前のように快適で清潔で安全な生活を享受できていた。だけどまあ、みんな気付いてしまっただろう。実際の世界には、未発達な生活が、不快で不衛生で危険な生活が満ち溢れていて、人々の善意と努力によって築き上げられた制度のバリケードがその侵攻を防いでいたにすぎない。バリケードの強度を超えられてしまったらおしまいだ。この強度とはすなわち、制度を支える人々のキャパシティを指す。医療前線に立つ医者や看護師のように。忘れてはならない。彼らは人間だ。

 僕らは辛うじて生きている。多くの人々の善意と努力によって。

 COVID-19が浮き彫りにしたのはその感覚と、その感覚が引き起こすいかんともしがたい不安感だ。

 

 ちょっとだけ話を変えよう。

 漫画版、一色登希彦版の日本沈没の話(五本の指に入るくらいに好きな漫画だ)。

 この漫画の中の沈没に至るまでのプロセスの中で、日本国民たちは、津波、大地震(そしてこの後には阿蘇噴火)といった度重なる大災害に襲われながらも、「自分たちにはどうすることもできないから」「自分に影響の及ばない他人事として認識することで」「変わりない日常を送ろうとしていた」。

f:id:wanijin:20200504113253j:plain

 恥ずかしながら率直に申し上げると、今の僕や、(おそらく)僕の同僚の感覚にそっくりだ。なんなら9.11のときも、3.11のときも、あれらは僕にとって徹底的に「他人事」だった。

 大変な状況なのは理解している。要請された自粛にも対応している。それでいても、どこか実感を持ってこのパンデミックに向き合えているのかというと、僕には自信がない。僕の最大の困りごとは、家にこもりっぱなしで気が滅入ること、毎年の生きがいだったファンキーマーケットが中止になったこと。そして、前述のただ漠然とした不安。いずれもきわめて個人的で浅い事象だ。毎日増加する感染者の棒グラフを見て、なんならクリッカーゲームのスコアの増加に似たような感覚さえ抱いてしまう。不謹慎極まりない。僕には想像力が足りないのだろう。周りの人が感染してしまうこと。自分が感染源になってしまうこと。活動停止による副次的な被害を被ること。それらに対して実際的な脅威を感じることができない。この状態に適用するように変化でいていないのだ。そしてこれは断言してもいい、少なくない数の人が同じように感じてしまっているはずだ。変わることはストレスだから。

 COVID-19は全世界に甚大な被害を与えるだろう。

 僕の周りにも多大な影響があるだろう。

 それでも僕は(あるいは僕らは)何も変わらず、生活を続けようとするのだろう。

 ただ強まっていく不安感に苛まれながら。