煙突の話

 おもしろいことが特に起こらないし、さりとて捏造できる気もしないといった理由で近頃ブログをさぼっていたわけだが、考えてみれば元々は「ありふれた、どうでもいいことを面白がってやろう」というのが俺の流儀ではなかったか。そう考えて昔を思い返してみるとそんな大層な志を持ってこのブログを始めたという事実は全くもって無かったような気もするが、折角今思いついたのだからこれを俺の流儀とし、手始めに身近にあるものを面白がってやることにする。

 例えば煙突だ。工場やら銭湯やらからにょっきり生えている煙突。俺は工業地帯の近くに住処を構えているものだから、外に出れば煙突が目に入るし、道を歩けば煙突にぶつかる。もう近所の煙突はすっかり顔馴染みであるし、なんなら幼馴染であるといってもいい。煙突とすれ違うときには「よう!」と気さくに声をかけるし、それに対して煙突はなんら反応を返さない。お高く止まってやがるのだ。

 さて煙突と言うからには、それは煙を吐き出すためにあり、煙突の根元には煙の発生源があるのが常である。ここでもし、煙突がそれ単体で存在したとしたら俺はもうそれだけで少し面白い。何もないところにぶっ刺さった煙突が、何もないところからもく、もく、もくと煙を吐き出している。おいおいそれは何の煙だよと突っ込む者も誰もおらず、虚無の中にただただ煙突と煙だけがある。

 煙突あれ、と手始めに神が言ったのだった。神が言うなら仕方がないと、煙突の方もあってみせた。煙突なのでそれは煙を吐き出し始める。煙を吐かない煙突なぞただの棒であり管であり、煙を吐かなくてよいのならば神だって「棒あれ」とか「管あれ」とか言ったはずだ。実際のところ神が言ったのは「煙突あれ」だったのでそれは煙突として存在し、煙突として存在する以上やはり煙はつきものだった。

 さすがに煙突だけじゃなー、と神も感じてはいたのだろう、後から後から大地だの空だの海だのを付け足して、空に月と星を浮かべたり、海に炭水化物を流し込んだりしてみた。月と星がぐるぐるぐるぐる空を回る間に何の冗談か炭水化物は命を宿し、やがて進化して陸上へと進出した。

 陸に上がった生命たちは、煙突をみて首を傾げる。はて、このおかしな物体はなんじゃろな。よくわからないなりに根元に集ってみるけれど、そこには煙突の根元しかない。登ってみようにも梯子がなく、煙突の先端は頭上の遥か彼方である。

 なんじゃろな、なんじゃろな、と誰も彼もが首を傾げ続ける中で、何匹か賢い生命体がいた。彼らは理解していた。分からないことを分からないままにしておくのは愚か者のやることで、分からないことを分かることにするためには一歩先に進むしかない。彼らは一歩進むため、自分たちの能力を磨き始めた。

 例えば、ある者は「煙の発生源を突き止めてやろう」と鋭い鉤爪を手に生やし、地中を掘り進んでいった。またある者は「煙を直接観察しよう」と首をだんだん長くしていった。他にも「どんな壁でも登っていけるようになろう」と手の表面を変化させたり、「煙突の高さまで行ってみたい」と翼を生やしたりした。ご存知の通り、彼らがのちに言うモグラであり、キリンであり、トカゲであり、鳥であり、その他諸々である。

 さあここまで来たら一気呵成だ。モグラが掘り返した土に植物が生え、その植物に釣られて虫が増え、虫を食う鳥が増えて鳥を食うために猫が生まれた。虫に食われたくない植物は高く伸びて木となって、その葉っぱをキリンが食った。煙突の先端が見たかったキリンは首を長く伸ばしすぎ、頭の重さに耐えかねて圧し折れ始め、最終的に適度な長さに落ち着いた。そんなキリンを襲うためにチーターやライオンが生まれた。あとなんかカバとかも生まれた。鶏が先か卵が先か、そんな因果関係は全部後付設定であり、どいつもこいつも好き放題に進化して、どうにか辻褄が合うようにといろんなものが生まれたり滅んだりした。

 そんな中で「これは神聖なものであるのに違いないのだ」と、煙突の前に平伏して崇め始めた変な奴らもおり、勿論こいつらが人間の原点である。偉大そうな何かを偉大そうであるというだけの理由で盲信するなど、人間以外のものにはできない。

 当の煙突はそんな下界のすったもんだなどどこ吹く風、相も変わらず何もないところからもく、もく、もくと煙を吐き出している。

 こうしてうっかり生まれてしまった人間であるが、如何せんこいつら意外と強く、「信じる者は救われる」を地でいくのだ。同じ信教を持つものは仲間である。裏を返せば、違う奴らは全員敵だということでもあり、団結力を武器にして周囲の生き物を駆逐していく。

 そんな感じで人間文明は発展していく。やがて煙草のプロトタイプが生まれ、細長い上に煙を吐くこいつが「まるであの神聖な煙突のようだ」と大ブームとなる。大ブームとなったので大量生産が必要となり、煙草の工場が建設される。人々に遍く煙草が行き渡るようになったところで大量に生み出される吸い殻が社会問題となってしまい、吸い殻を燃やすための焼却所が建設される。焼却所を建設するにあたってゴミを燃やす際に発生する煙が問題となり、この煙を一所にまとめて管理するためにはどうすればよいのだろうか、考えあぐねた人々は「そういえば便利そうな形がある」とここで気づき、煙突を発明する。

 煙突は量産されていく。文明の発展に伴ってあちらこちらに工場やら焼却所が建設されるようになり、それらにとって煙突は必要不可欠な設備だ。外に出れば煙突が目に入るようになり、道を歩けば煙突にぶつかるようになる。煙突がありふれたものとなり、原初の煙突がさて一体どこに生えているそれだったのか、誰にもわからなくなってしまう。

 かくして煙突の神聖さは失われる。正しくは失われたわけではなく、煙突の宿す神聖さを人々が認識できなくなったわけであるが。

 とはいえ煙突が神聖視できなくなったところで人々に特に不都合はなく、その他の適当な人や物を神と崇め奉ることとして、問題なく生活を送っている。

 当の煙突、原初の煙突はといえば、こちらにとってもやはり不都合はなく、今日もどこかの煙突に紛れ、相も変わらず何もないところからもく、もく、もくと煙を吐き出している。

半円の重心を求める話

 時間があったらそういう計算をしておいてくれ、と先輩に頼まれたので、ぱぱっと解いてやろうと思い紙とペンを取り出した。

 わからない。ちっともわからない。

 大学生時代初期ならばこんな問題赤子の手をねじり切るくらいに造作のないことだっただろうが、いかんせんすっかり衰えた俺の頭、何かを積分したもので何かを積分したものを割ることくらいしか思い出せない。

 試しに(何かを積分したもの)/(何かを積分したもの)という数式を書いてみて、それを約分して答えは1と求まったのだが、これが正しくないことくらいはさすがの俺も承知している。分子と分母が同じ値なわけがなかろうが、と式を(何かを積分したものその1)/(何かを積分したものその2)と訂正し、それを約分して答えは1/2と求まったのだが、これが正しくないことくらいはさしもの俺も承知している。

 で、あきらめてググった。「半円 重心」で。

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t040029/parts/lectures/jushin.pdf  (pdf注意)

 あっさり答えが見つかった。顔も存じ上げませんが、心より御礼申し上げます関西大学工学部の斎藤氏。

 これを印刷し、さも自力で解いたかのような面を引っ提げつつ先輩の机の上にしれっと置いておいたはいいものの、しかし癪だ。昔なら(多分)解けたであろう計算問題が解けなくなっているのは、日々より良い人間となるべく高みを目指している俺にとっては無視しかねる問題である。なので、ちゃんと復習することにした。

 解答を見ながら、式を書いていく。あー、密度×位置ベクトル。そんなんあったな。ベクトルとか久しぶりに書いたな。大学ではベクトルは上に矢印じゃなくて、太字で表してたっけな。rdrdθとかもうどこで区切ればいい式なのかもわかんねえや。そんなことを呟きながら、単純な計算ぐらいは自分の頭で考えて、問題を解いていく。

 答えを出す。4a/3π

 急に、晴れ晴れとした気分になった。

 そういえば、と自分で書いた計算式を眺めながら思う。昔の俺は、こんな計算問題を解くのが結構好きだったんじゃないかな。ごちゃごちゃした数式を計算して変形して何らかの値を導き出すのが昔は得意だったし、好きだったはずなのだ。ここ数年間、「答えのある計算問題」になんて触れてこなかったから、それをすっかり忘れてしまっていた。

 週末から持ち越していた鬱屈とした気分が信じられないくらいに晴れていくのを感じながら、なるほど、俺はこういったものを求めていたのかと合点した。明確な問題設定。着実に前進していくプロセス。思考が整理されていく感覚。唯一の正しい答え。日常生活上では縁遠いこれらをこんなに簡単に味わえるなんて、数学はなんと手軽な娯楽だろうか。

 家に帰るとすぐ、本棚の奥から学生時代に買った物理数学の参考書を取り出した。いつまで続くかわからないけれど、久しぶりに勉強を始めることにしよう。数学なんて何の役に立つんですか、などとほざくガキはいるけれど、少なくとも俺の気晴らしとしては役立っている。

這い寄るネスカフェ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歯医者再通院、の話

 前回の治療の際には見過ごされていた虫歯が痛み出したので歯医者に行ったところ、これは歯を抜くしかないですね、と言われた。

「ああ、FF5の主人公ですか」

「それはバッツ、今からするのは抜歯」

 これで続けざまに三本の歯が虫に食われてしまったことになる。いくら何でも食われすぎだと思う。ミュータンス菌界隈のネット掲示板で俺の歯の味が評判になっているのではないだろうか。このままのペースでいけば世界三大珍味に名を連ねるのもそう遠い日ではない。即ちキャビア、フォアグラ、俺の歯である。

 少し待ってくれ、と俺の歯を掘り出さんと鼻を近付けてくる汚い豚を払いのけながら、俺は苦情を申し立てる。俺の歯は20数本しか現存しておらず、しかも再生されない。そんな限られたものを珍味に数え上げてしまうのはいかがなものであろうか、それに歯がなくなると実生活上において俺が困る。

「そんなことを言うならさ」とは、いつの間にやら俺の隣に現れたブクブク肥えたガチョウの言である。「俺の肝臓なんか一つしかないうえに、取られたら死んじまうんだぜ。それに比べたらお前の歯なんて、大した犠牲でもなんでもねえよ」

 ガチョウに言われたらおしまいだ。俺は俺の歯の収穫を甘んじて受けなければならない。俺は俺農家の俺小屋に飼われ、俺の歯が食用に値するまで大切に育て上げられた挙句、全ての歯を抜かれてしまうのであろう。大切に育て上げてもらえるのはありがたいことだが、その対価が歯全部であることを考えると、天秤がどちらに触れるのかは現時点では判断しかねる。

 天井を見上げながらそんな空想に浸る俺に、「じゃあ抜きますね」と歯科医が繰り出したのは巨大なペンチ。「おかしくはないですか」と俺は言う。「コップを置けば水が注がれる無駄ハイテク装置が跳梁跋扈するこの院内にて、治療の重要なステップである抜歯がこの期に及んで力技。全自動歯抜きマシーン(無痛ver.)などは存在しないのですか。まずその無骨なペンチを人に向けるのをやめていただきたい、工業用具が人を対象として振舞われるのは拷問時を除いて他にない。あと歯医者の天井というものは患者に見上げられる時間が非常に長く、そのため他の天井と比べてエンターテイメント性が要求されると思うので、全面をディスプレイ張りにしてカートゥーンネットワークで放映されていたデクスターズ・ラボを一挙放送するというのはどうであろうか、今一度ご検討願いたい」

「しゃらくせえ」

 歯科医はペンチを俺の口内に突っ込む。怖い。ただひたすら怖い。なんだこの威圧感。これほどの恐怖を感じるのは、桃鉄で貧乏神がキングボンビーに変身するのを見て以来である。しかしその恐怖は意外なことに長くは続かず、数度の揺さぶりを加えられたのち、歯はタケノコよりもあっさり抜けた。俺は安堵の涙を流す。

 抜かれた歯は側面に大きな穴が空いており、なるほど痛むのも納得である。しかしこんなになるまでミュータンス菌が俺の歯を味わい、腹を満たしたのであると思うと、俺は少し優しい気持ちになれる。何もできない俺にも、ミュータンス菌を救うことはできるのだ。

「いえ、ミュータンス菌は歯垢を酸に変える働きを持っており、結果として酸で歯に穴が空くだけで、ミュータンス菌が歯を直接食らっているわけではないですよ」

「俺の感傷を台無しにして楽しいですか、先生」

 上の歯は下に向かって投げ込むと良い、そういう日本の言い伝えがあるので、あとで802号室に投げ込んでおくことにしようと思ったが、アメリカの伝承曰く、枕の下に敷いて眠れば翌朝歯の妖精がコインに変えてくれるそうではないか。さっそくネズミ捕りを購入し、俺の歯とともに枕の下に仕掛けておいた。明日になるのが楽しみだ。歯の妖精が持っているコインを根こそぎ奪った挙句、動物園にでも売り飛ばそうと思う。

タケノコを掘る話

 正直なところ、おれはタケノコを舐めていたのだと思う。

 他部署の上司がなんと別荘を持っているというので、お邪魔することになった。山に分け入り道なき道を走り抜けた先にあるその別荘の周辺では、タケノコがよく生えているという。周辺によく生えているものを無碍にするのも心苦しいので、本日のイベントはタケノコ掘りとBBQに決定した。

 タケノコと言えば思い浮かぶのはあの白い切れはし、煮るなり焼くなりされて食われるだけのただの食糧だが、しかし本日現地に出向き、実際に出会ったタケノコは生半可な迫力ではなかった。所詮は竹の幼少期にすぎぬ、子供の相手などこの程度で十分よと軍手のみでタケノコ掘りに挑んだおれはその傲慢さをすぐさま悔やむこととなる。

 茶色の毛皮を身にまとい、節々から尖った葉を生やしたその姿は実に威圧的であり、もはやタケノコというよりは猪か何かが地面から生えてきているようにも見え、いつこちらに鼻息荒く突進してくるかとき気が気でない。なるほどこれが野生のタケノコかとおれはたじろぎ、隣にいる同期などは「ヒィィ」と悲鳴を上げながらもはや腰を抜かしている。取りに来たはずのタケノコを前にこの醜態、どちらが食われる側なのかわかったものではない。

 このままうかうかしているとタケノコの養分にされてしまうに違いないと、なけなしの勇気を振り絞り、おれはタケノコの頭頂部を掴む。頭頂部さえ掴めばこっちのものだ、頭頂部を抑えられて参らない動物はいない、おれは勢い込んでタケノコを引き抜きにかかる。抜けない。びくともしない。左右に揺らしても前後に揺らしてもタケノコは一向に抜ける気配を見せず、鋭く尖った葉がおれの軍手を貫通する。なんという反骨心、敵ながら天晴である。これは止むを得ぬと作業を一時中断し、隣の同期の様子を窺ったところ、野生のタケノコに頭頂部を掴まれて前後左右に揺すぶられている。タケノコほどは地に足のついていない彼のことだ、収穫され、持ち帰られ、同期の水煮にされてしまうのも時間の問題である。仕方ない、戦場に犠牲はつきものだ。

 ここでおめおめと逃げ帰るわけにもいかぬと野生のタケノコとにらみ合いを続けていたところ、颯爽と現れたのが他部署の上司のその父だ。齢八十を軽く超えるというご年配である。あいやご老人無理なされるな、ここは我々今後の世界を担う若者たちに任せてくだされとおれはいきり立ち、その諫言を気にも留めずにご年配は前へと進み出る。振りかざしたその手に握られているのは小さなクワであり、ご年配は正確無比な狙いでクワを野生のタケノコに振り降ろす。

 一撃。まさに一撃であった。古代より崇められてきたご神木のように大地に根をはっていたはずのタケノコはご年配の一撃により、あっけなく地面に転がり落ちる。その後もご年配は周囲を取り囲むタケノコにクワの一撃を加えては掘り起こし加えては掘り起こし、一騎当千、八面六臂、獅子奮迅の大活躍。この光景を目の前にしたおれの驚愕が伝わるであろうか。ドラクエで例えるならばタケノコがメタルスライムであり、ご年配が魔人斬り絶対当てるマンである。いかにメタルスライムが強固な防御力を備えていようが魔人斬り絶対当てるマンの前では無力である。ばっさばっさとなぎ倒されていく。

 やがてご年配はここら一体のヌシかと思われる莫迦でかいタケノコと相対する。その威風堂々たるいでたちはもはやタケノコではあるまい、子供と呼ぶには成長しすぎている。つまるところ竹である。竹に近いタケノコである。ドラクエで例えるならばメタルキングである。しかし悲しいかな、いかにメタルキングであっても魔人斬り絶対当てるマンの前では無力である。

 かくしてタケノコは見るも無残に刈り取られ、あとに残ったのは大量のタケノコが入った袋と、傷一つ負わないご年配と、タケノコに捕食されつくした同期の抜け殻であった。今後の世界を担うはずのおれはタケノコの入った袋を担い、ご年配の後ろをひょこひょこついていく。お父さんマジやべーっすねー、尊敬っすわーと彼へのよいしょを忘れずに。そして、哀れ犠牲になった同期に、哀悼を捧げながら。

 持ち帰ったタケノコは煮たり焼いたりして食った。まあそれなりにうまかった。

置いてけぼりの話

 泣き上戸を発症した。職場の送別会、二次会の途中から俺は鼻をすすりはじめ、店を出て解散するかというところで遂にボロボロ泣き出した。頬を涙に濡らしながらタクシーに揺られて帰り、部屋に入るや否や布団に倒れこんでひとしきりしゃくりあげ、それからベランダで煙草を二本吸った。そのころ、ようやく涙は止まった。耐えようのない衝動のようなものも薄れだしていたが、その代わり酒といまだに慣れない煙草のせいで軽い吐き気を催しており、粘っこい唾液だけを洗面台にぶちまけてからもう一度布団に入り、眠った。

 いつだったっけな、と早朝に目覚めて思う。前に泣き上戸を患ったのは。酒が入るといつも泣きたくなるわけではない。むしろかなり稀なケースだ。前回がまだ学生の時分であったのは間違いない。実家のマンションのエントランス手前にある、公園とも呼べないような小さなスペース、そこにおいてある動物の乗り物とベンチのうち、ベンチの上に横たわって、先ほどのようにしゃくりあげていた。家族に泣き声を聞かれるのはさすがに恥ずかしかったのだが、泣き場所を選べるほどその時の俺には余裕がなかったのだと思う。どんな知り合いが通りがかるかわからない場所で、俺は小一時間ばかり泣いていた。理由は、忘れた。

 今日、というか昨夜。俺は自分が泣いた理由を考える。心当たりが多くて絞り切れない。自分が未だに仕事のやり方をつかめていないこととか、同期たちはそれぞれに自分の仕事をこなし始めているらしいこととか、未だに職場では委縮してしまっていることとか、散々怒られた上司が来月から異動することとか、他部署の上司に軽い説教と励ましを頂いたこととか、いつもぶっきらぼうな先輩がアイスをおごってくれたこととか、近頃常に靄がかかったように思考が霞んでいることとか、先日縁石にひっかかってすっ転び自転車のライトを壊してしまったこととか、水泳用の水着がもう何か月もベランダに干したままにしてあることとか、ギターが部屋の片隅で埃をかぶっていることとか、昔好きだった子がどうやら結婚するらしいこととか、仲のいい友人が東京に引っ越してしまい簡単には会えなくなることとか、昔のように小説や音楽を楽しめなくなっていることとか、そして俺がいくら感傷に浸ろうが、明日からも何も変わらないということとか。些末なそれらが、きっとそれぞれに辛いのだ。

 

 書きたい、と思っている話がいくつかある。と、言いながらちっとも書き上げないのが俺の最も醜悪な点である。書いては消し、書いては消し、話の展開に詰まって放り投げ、読み返した時のつまらなさにファイルごと抹消する。分かっている。俺に足りないのは小説を書く才能ではなくそのもっと前の段階であり、言うなれば努力や根気や計画性、あと自信だ。

 全部放り出して、布団に寝転ぶ。俺は俺の空想を頭の中で反芻する。それは例えば空を塗り続ける男の話だったり、ゴミの降る街に暮らす少年の話だったり、野良兵器の上にまたがって釣りに行く少女の話だったり、右も左もわからない街に流れ着いた男の話だったりする。全く形にならないそれらを思い返していると、皆一様にある種の「置いてけぼり」を抱えていることに気付く。

 俺は置いてけぼりにされたものが好きなのだ、と思う。自分がそうされていると感じているからなのかもしれない。上司や先輩に、同期に、友人に、昔好きだった人に、本や音楽にも。俺が周囲に抱いている違和感をできる限り感傷的に表したものが「置いてけぼり」という一言になり、そしてその違和感を形にすることができない俺は、「置いてけぼり」すら置いてけぼりにする。あるいは、置いてけぼりにされる。後に何が残るのか、俺にはわからない。

 

ココアの話

 最近、頭痛がひどい。頭痛というかなんというか、鈍い痛みが顔の左側を移動する。頬骨が痛むかと思えば次はこめかみの奥がずきずき疼き、やがてそれが頭の上まで這い上ってくる、これを繰り返す。行ったり来たりで節操ない。俺の落ち着きのなさを継承したんだろうか。ペットは飼い主に似るというが、痛みが痛み主に似るという話は寡聞にして聞いたことがない。

 頭痛の一つの原因はカフェインですよ、そうネットの妖精がささやくので、コーヒー断ちをすることにした。毎日職場までインスタントコーヒーを詰めたステンレスの水筒を持っていき、春頃に美味いコーヒーを飲みたいがためにネスプレッソを買った俺がここでまさかのコーヒー離れだ。めっきり使われなくなったエスプレッソマシンが寂しそうに部屋の片隅に鎮座しているが、ここは諦めてもらうほかない。人間は誰しもが孤独と戦っている、だから、お前も。

 で、コーヒーの摂取量をできる限り減らして一週間。頭痛はだいぶマシになった。結果としては良好であったが果たして頭痛が本当にカフェインのせいだったのかどうかは不明であり、そこを詳細に明らかにするためには厳密な対照実験が必要となる。つまりは俺を二人用意し、コーヒー漬けにした俺とコーヒー断ちした俺に丸っきり生活を送らせる。同じように出社し、レポートを書き、上司に怒られ、金曜の夜には安い居酒屋で腹がはち切れるまで飯と酒をかっくらうのだ。しかし現実的に俺は一人だけで、二人いても持て余す。この案はお蔵入りだ。

 そんな感じで頭痛は落ち着いたのだけれど、如何せん口さみしい。休日、コーヒーをずるずる啜りながら読書に励むのが俺の至福の余暇だったわけだが、コーヒー断ちしたお陰で啜るものがない。他に啜れそうなものはといえばカップラーメンか鼻水くらいであり、どちらも日常的に啜るのは御免被りたい。

 そこでココアだ。液体だし、色も黒っぽい。ほぼコーヒーであると考えて差支えない。コーヒーの代替品ではなく、これは甘くてカフェインが少ないコーヒーである。そういう特殊なコーヒーの一種である。そう自分に言い聞かせながらスーパーの棚の前で森永とヴァンホーテンをにらみつけ、どちらにしたものかと悩んだ挙句にヴァンホーテンを選んだ。名前が格好いいからだ。

 部屋に帰り、マグカップに粉末をドバドバ落とす。コーヒーにしてはやけに量を要求してくるなと思いつつ、そこに低脂肪乳を注ぎ込んで、電子レンジの中に収める。ボタンを押して、あと数分待てばコーヒーっぽいものの出来上がりだ。

 電子レンジを開けたら、沸き立ったココアが電子レンジをココア浸しにしていた。

 反逆だったのだろう。俺はそう思う。コーヒーコーヒーと呼ばれ続け、自身の名前をちっとも呼んでもらえなかったココアの、ささやかな反逆。ぼくはコーヒーじゃない、正しい名前を呼んでほしい。そんなココアの心の奥底にたまった不安が、電子レンジの中で加熱されるにあたり溢れかえったのだ。

 ココアでべたべたになった電子レンジを、俺は布巾で優しく拭いた。それから机の上のマグカップに向かい、ごめんな、と声をかけた。ココアを一口啜る。温かいココアは甘く、優しく、口の中に広がった。それはまるで全てを赦してくれるかのようだった。