老けた話

 前回書いたあの記事を撤回したいような気分になっています。いや別にああやって何かしらか小難しげなことを考えることが間違いだとは思っていないのですが、世の中の有象無象に理屈をつけて言語化して何か分かったかのような錯覚に陥るのだけは最悪です。無知の知、と言って使い方は正しいんですかね? とにかく、自分は何もまだ分かっちゃいねえんだってことだけは忘れないようにしないといけません。僕は馬鹿で無知な愚か者です。馬鹿で無知な愚か者なので、馬鹿で無知な愚か者ではいたくねえなって思い続けることしか僕に前進する方法はありません。

 学生も終わり、二十云歳になり、いよいよ独立生計者にもなろうという僕ですが、はたして僕は大人になれたのでしょうか。高校三年生の僕に尋ねれば「大人になった」というでしょう。顔も老け、体毛は濃くなり、額は少し広くなり、英語の論文を読めるようになり、酒を嗜むようにもなりました。しかし子供の頃思い描いていた大人像のことを思えば「まだガキのまんまだわ」と後頭部をボリボリ掻き毟ることしかできません。「早く大人になりたいんやけどな」なんて苦笑いしながら。
 何故まだ大人になれていないと思うのか。まだ自立していないとか、金を稼いでいないとか、アレのまんまだとか、そういう現実的な、生活的な要素がやはり大きい気がします。それにプラス、昔なりたかった「有識で」「有能で」「思慮深く」「地に足の着いた」「しっかりとした」、精神的な大人でも僕は未だない。
 そして、大人になりたかった僕は、学業をきちんと全うできもしていなかったくせに、後者の精神的な大人ではせめてあろうと考えました。大人ってのはどういうことだろう、正しい物事のみを思考し、正しい言葉だけを述べることのできる人間が立派な大人だろうかなどと考え、正しい思考を得ることばかりに時間を費やそうとしたりしました。
 当然、生活的に大人になれていないのに精神的にだけ立派な大人になんてなれるはずもありません。正しくあれない自分に苦しむ、なんていう自分の尾を追い掛け回してハァハァ言ってる犬みてえな馬鹿げたことを続けて、疲弊しちゃったりしていました。
 その結果。
 もしかしたら僕は、恐るべき、能力的には子供のまま老けただけの人、なんておぞましい存在になってしまったのじゃないでしょうか?

 どんな人のことを恰好いいと思うか。
 そう考えた場合にどうしても僕は、いい年して自分の趣味のために毎週末あっちこっち車を飛ばすうちの父のことを思い浮かべてしまいます。父は自分の遊びたいことに労力を大きく割いて遊ぶことのできる人間で、それは結構いい意味での「子供みたいな大人」だと僕には思えます。
 自分が楽しくあるためには何をすればいいかきっとあの親父は良く知っているし、自分を楽しませることにあの親父は全力を尽くせるのです。それは何も考えずに遊んでいる子供のようでありながら、自分を完全に律することのできる大人にしかできないことです。グダグダ考えてるくせに全く律せていない僕とは、これは全く正反対ってヤツじゃないですか?

 もう少ししたら、僕を取り巻く環境は大きく変わります。僕は人任せの他力本願な人間なので、その新しい環境に結構期待したりしています。基本的に自分一人で生きていかなくちゃなりませんし、大学の時に良くやっていた、布団の中でウジウジ悩むなんてゴミクソみたいな時間の使い方をする暇もきっとなくなるでしょう。
 僕は生活に直面するわけです。クソみたいな思考の檻と暖かい布団の中から放り出されて、その時、僕はやっぱり自分が何もわかっちゃいない、何の仕事もろくにできない馬鹿な子供だってことを再認識するでしょう。例えば世の中全体を俯瞰して何やら正しそうな理屈をこねたりとか、そんなことはもうしている場合じゃない。それは立派に年を召した見識者たちにまず任せておけばいい。そんな理屈は僕の生活を直接には助けてはくれないからです。
 僕は一旦、教えてもらわなければ何も分からない子供に戻される。そしてそこから改めて、僕は大人を目指そうと思います。正しくあることばかりに拘泥した"立派な大人"になろうとするんじゃない。生活に、仕事に、人間に、あと自分に、そういった現実的な要素に向き合い、対処することのできる人間に僕はなりたい。
 老けた子供じゃなく子供みたいな大人になりたい。
 僕は何もわかっちゃいない。
 老けるには、まだ早い。