でけ~剣を振るう話

 モンハンライズを始めた。初めてのモンハンだ。
 うちのハンター、「ポンコツお凛」は大剣を主にぶん回している。
 武器種類が多すぎて操作方法も各々にあってよくわからなくて、いろいろ考え、合理的に導き出された最強の武器が大剣だったのでお凜は大剣を背負った。すなわちこういったロジックだ。

 ①小さいよりは大きいほうが強い

 ②刺す斬る殴るでいうと斬るが一番すごい

 ③遠距離からチクチクする奴は性格が悪い

 ④爆発したりするのはなんか怖い

 ⑤変形機構は武器にとって致命的な脆弱性になりかねず、
  野蛮な機能については可及的に単純で剛直な構造で実現するのが妥当な技術的判断といえよう

 ⑥笛で殴るなよ

 そういうわけで凜ちゃんは大剣をぶん回している。

 ポンコツなので回避を繰り返してはその隙を突かれぶっ飛ばされて絶命する。おれは「凜ちゃ~ん!」と悲鳴を上げる。俺きっしょ。凜ちゃんは息を吹き返す。凜ちゃんは諦めない。何度でも立ち上がる。再びモンスターに挑む。凜ちゃんは飛翔する。空中からのため攻撃を狙う。突進を合わせられてまたすっ飛ぶ。それでも目の前の強大な敵に立ち向かうことを止めない。だからこそ、お凜はポンコツでありながら、凄腕のハンターなのだ。失敗にとらわれず、歩みを止めないこと、それが頂へと至る唯一の道なのだ。がんばれ凜ちゃん。あとオトモガルクに「月に吠える」って名付けてるんだけどこれ正直めちゃくちゃ格好いいと思う。名詞で終わらない名前良いですよね。多分こいつは元々ボロボロの孤独で孤高な野良犬だったのが、何らかの恩義を凜ちゃんから受けてそれを返すためについてきてくれてるんだろう。

 

 俺も大剣を背負っている。それは心の大剣であり、実物の大剣ではない。実物の大剣は銃刀法違反で捕まるから。そのため心の大剣だけ背負っている。

 思えば俺はずっと心の大剣を振るってきた。ガノンドロフが横スマッシュをし、リンクが王家の大剣でぐるぐる回って厄災でぼこぼこにし、2Bも白の約定をぶんぶん振り回し、Enter the Gungeonではブレット君ばっか使ってきた。

 でけ~剣は強い。ただそれがでけ~剣であるが故に。

 でけ~剣はロマンだ。ただそれがでけ~剣であるが故に。

 でけ~剣は格好いい。ただそれがでけ~剣であるが故に。

 でけ~剣。それは俺の子供心の象徴であり、大人になり切れない俺の心が社会に突きつける反骨精神なのだ。

 でも思い出してほしい。あなたの心にもあったはずだ。燦然と輝くでけ~剣が。忘れないでほしい。過ぎ去りし幼年期、あなたにFF7クラウドが与えた影響を。雨の上がった帰り道、まだ水滴のついた傘を頭上で振り回し、クラウドの勝利ポーズを真似したあの時間を。え、うそ、真似したことねーの? 放課後何して生きてたの?

 そういうわけで、俺は今日も心の大剣を振るっている。もしあなたがすっかり子供心を失ってしまっているというのなら、もう一度だけ大剣を振るってみてほしい。その時、あなたの心は輝きを取り戻すだろう。あの頃のように無垢な気持ちで、この現実を覆う薄暗い靄を振り払い、明日への道を切り開くことだろう。そうして皆が大剣を恐れずに振るっていけば、いつの日か訪れることだろう。大剣が合法化され、往来で大手を振って大剣を振るえる未来が。

 

 別にそんな未来求めてなかったわ。

 モンハンフレンド募集中です。初心者ですがよろしくおねがいします。

パッツパツなジーパンを買ってしまう話

 数学の三大未解決問題は、P≠NP問題、リーマン予想、古着で買ったジーパンのサイズ外しがち問題と言われています。言われてるったら言われてます。言われてるんですよ、知らないの?

 そうなんですよ、またやってしまいました。

 フリーマーケットでノリで買ったジーパンが、パッツパツで入らないの。

 元々はmark jacobsのシャツが欲しくてですね。抱き合わせで安くならないかと左手にmark jacobs右手にジーパンで交渉してみたんですよ。安くしてくんないの。シャツ1,000円にジーパン1,500円。合計2,500円。わーお、簡単な算数だぜ。ほなシャツだけ買えば良いやんと思うやないですか。そうなんですよ。そうなんですよね。本来はそうすべきだと思います。でも人間は常に理非的であれるとは限らない。なんとなく買っちゃった。両方。理非じゃないですね。非理非ですね。でもだからこそ、人間は愛おしい。だから俺を愛してくれ。俺もあなたを愛するから。

 で、パッツパツなんですよ。

 頑張ればケツは収まるんです。でも太ももがパッツパツなの。プリップリなの。旬の寒ブリくらいプリップリ。このまま歩くと旬の寒ブリが二尾歩いてると思われちゃう。旬の寒ブリが二尾、道路を歩いてみてくださいな。スシローに狩られちゃいますよ。さばかれて挙句に今月の太鼓判行きですよ。それは嫌でしょう? そうでもないか。そうでもないな。今月の太鼓判って褒められたら、結構嬉しいかもしんないな。

 で、どうするか。

 1,500円。

 諦めるには惜しい金額じゃないですか? 寒ブリ15皿食えますもん。

 なので僕、ダイエットすることにしました。

 もともとしばらく引きこもってたせいで体重6kg激増しましたし、最近腰痛でちょっとさぼり気味だったんですけど、でもしっかり運動して元の体重に戻せば、多分普通に履けると思うんですよ。腰回りは普通に入るから、腿の肉さえ落ちればいいんです。俺は決めました。このジーパンを無駄にはしない。1,500円は、何かを始めるには十分すぎる金額だ。ダイエットするぞ。走るぞ。俺はやるぞ。

 ダイエットは思い立つまでが勝負です。

 やると決意できたならほぼ瘦せたようなもん。

 なのでほぼ痩せた自分をお祝いするために、新商品のスプリングバレーを二缶とおつまみをいろいろ買いました。

 合計だいたい1,500円。

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美味そうである

  1,500円は、何かを諦めるには十分すぎる金額だ。

虚無を解体する話

 

 外の世界にそれはない。

 心の中に虚無はある。

 

 虚無は誰の心の中にも眠っている。大なり小なりの程度の差はあれど。僕の中にも。あなたの中にも。虚無は心の奥底に潜み、鎌首をもたげて狙っている。あなたが虚無に気付く瞬間を。あなたが気付いたそのときに、虚無はあなたに飛び掛かるだろう。一度あなたを捕らえた虚無は、あなたを締め付けて離さないだろう。例えばそれは、あなたが作り上げてきたものなんて一瞬で崩れ去ると気付いてしまったとき。生き物は簡単に死ぬと気付いてしまったとき。努力も才能も等しく風化すると気付いてしまったとき。社会のアルゴリズムの中では一個人の意思など何にも通じないと気付いてしまったとき。そのとき虚無はあなたを飲み込み、そしてあなたは二度と虚無の腹の中から抜け出すことは叶わないだろう。あなたのすべてが無意味なのかもしれないという恐れが、ずっとあなたを縛り続けることだろう。

 僕が虚無に食らいつかれたのは学生時代、特に大学院生のときだった。部活もちゃんとやれなかった、バイトも半端だった、院試にも失敗した、次々と転び続けていた僕に、研究の悪進捗はとどめを刺した。虚無は僕を捕らえ、たやすく無気力の沼に引きずり込んだ。僕はそこから抜け出そうと何度ももがいた。時々は息継ぎができた。しかし溺れている時間は段々長くなっていった。

 僕は虚無に対処しようとした。虚無に向き合おうとした。思えば、ブログを書き始めたのもそのころだった。「げんふうけい」や「ブーンは歩くようです」からの影響で、創作をしようと思った。それを新たな自分の立ち位置にしようと思った。虚無から抜け出して確固たる自分の足場を作るために、僕は何かを言わなければならないと思った。何かをわからなければならないと思った。何かにならなければならないと思った。そしてその何かは全く具体的なものではなかった。僕は何も目指せてはいなかった。物語を想像するのは楽しかったが、強迫的な「書かなければ」という意思は、しかし僕を虚無の中へとさらに蹴り飛ばした。いくつかの物語を思い描いた。だけどそれらはほとんどがちゃんと形にならなかった。僕の思考は稚拙だった。僕の想像は稚拙だった。僕の文章は稚拙だった。それらは決して僕の足場たりえず、僕は不安定な虚無の砂の中により深く埋まっていった。

 僕が今まで細々と書いていた物語の多くは、この時に原型を思いついたものだった。絵空事、野良兵器、天使。あとまだ書いてないけどサイクロタウンの終盤。どいつもこいつも判を押したように「虚無感、停滞感からの脱出」のモチーフを使いまわし、何年かけても上達も見られず、それらは上っ面だけが取り繕われたいびつな張りぼてみたいで、読み物として誇りをもって完成させることはちっともできなかった。

 就職した。数年たっても仕事に自信と誇りを見いだせなかった僕はなおさら広大な虚無の中で溺れた。そこから逃げ出そうとして、転職した。今度の職場は比較的温かく、僕は少しずつ、顔を出して息をする方法を思い出した。虚無の中から抜け出せると思った。だけどやっぱりまた虚無は僕を飲み込んだ。去年の春。僕は完全に虚無の中に沈んだ。仕事に行けなくなった。少しでも生きる糧を、とその少し前から飼い始めたペット達も、だけど僕の心をほぐし切らなかった。もう全てが面倒になった。全てが楽しくなくなった。酒と油を馬鹿みたいに摂取して、できるだけ早い段階でくたばろうと思っていた。この先の人生における期待値がマイナスになると理解してしまう日がそのうち訪れるだろうと思った。そしてその時に僕は自分で自分を終わりにするだろうという確信があった。もうそれでいいと思った。僕は虚無の中で目を閉じた。

 

 それから10か月ほど休み続けて、今に至る。

 この期間、僕は虚無に対処することを諦めた。

 そして皮肉なことに、その結果として僕の虚無は少し小さくなった。

 年明けから復職の支援を受け始めた。

 その助けを借りて、僕は虚無を解体し始めた。

 

 結局のところ。虚無に向き合おうとしたのがそもそもの誤りだった。それは底なし沼のようで、ブラックホールのようで、メデューサの瞳のようで、立ち向かうものを決して離さないのだ。自分から溺れに行くようなものだった、そして、事実、僕は好んでそうしていたのかもしれない。虚無的感覚はもはや僕の一部になってすらいたのだから。その一部に僕は食らいつくされそうになっていたけれど。

 虚無から離れる方法。考えてみれば単純だった。目を反らして見ないふりをすることだ。できれば他の物事を見ることに集中する。傍らにある虚無は消えないが、やがて少しずつ存在感は減る。少しずつ、でも確かに。

 僕はようやく虚無の腹から上半身を這い出せた。周囲の助けの手をやっと掴むことができた。それを支えに、僕は振り返った。虚無はまだそこにあった。だけど引きずりこまれることは、今はなかった。

 僕は虚無と改めて向き合った。だけど虚無全体と対峙することはもうしなかった。僕は虚無を少しずつ切り取った。切り離した虚無の一部分にラベルを貼った。そして傍らにそっと置いた。

 それは単なる挫折だった。

 それは単なる大きな目標の喪失だった。

 それは単なる自信の喪失だった。

 それは単なる心の閉鎖だった。

 それは単なる認識のゆがみだった。

 それは単なる拗ねだった。

 それは単なる意思発信の不足だった。

 それは単なる愛情の不足だった。

 それは単なる日光の不足だった。

 それは単なる運動の不足だった。

 それは単なる笑顔の不足だった。

 一つ一つは、対処できないほどの大きさではなかった。そいつらが全部一緒くたになって、巨大な虚無の塊を形成していただけだった。僕は虚無を解体していった。解体している途中だ。今もなお。

 虚無が消えたわけではない。まだ残っている。だけど、小さくはなっている。バラバラになって分散したそれに、僕をすっかり飲み込んでしまえるほどの大きさは、今はない。

 強迫観念は鳴りを潜めた。僕は何も書かなくていい。僕は何にもならなくていい。何にも強制されないし、そもそも強制されてなどいない。すべきことなど何もない。社会にいるために適当に税金納めりゃそれでいい。税金納めるために適当に働きゃそれでいい。地位も名誉も社会的成功も僕には必要ない。多少のお金と、暮らしを満足させる要素のいくつかが必要なだけだ。

 傍らに虚無の種がある。それも山ほど。気を抜けばそれらはすぐ融合し肥大化し成長しようとする。だけど今は大丈夫だ。虚無の種にはラベルが貼ってあり、僕はそれにより虚無の種を個別に認識できる。認識できれば再び切り離すことができる。虚無を解体する術を僕はなんとなく身に着けた。

 僕はおそらく完全に元気にはならない。虚無に気付かなかった頃にはもう戻れない。それでも、暮らしていくことはどうにかできそうだ。僕は虚無とともに生きる。そうするしかない。バラバラに解体された虚無と、どうにかうまく折り合いをつけながら、僕は日々をやり過ごしていく。

救いを求める話

 

「何か良いことがあるといいな」

 

 おれが今日聞いた言葉だった。

 それは切実な言葉だった。

 それは短期的な、例えば一万円札拾えればいいな、みたいな即物的な欲望を満たすことを望んだ言葉ではなく、普段の生活を過ごすうえでのかすかな希望を、未確定な未来に託す言葉だった。今の生活を辛うじて続けていくための、蜘蛛の糸にすがるような言葉だった。

 おれにはよくわかる。

 おれにはよくわかってしまった。

 その言葉が浅はかであるなどおれには言えない。突発的な救いが、なにか決定的におれたちを、おれたちの周りを変えてくれるような、言ってしまえばそれは例えば彗星の衝突のような、突飛で決定的な出来事をおれは望んでいたから。

 おれもよく祈っていた。

「何かいいことがありますように」「何かがおれを救ってくれますように」「なにか決定的な救いがおれたちに訪れますように」

 

「おれに救いが訪れますように」

 

 おれが今わかっていることとしては、少なくとも外部から救いの手は差し伸べられないということだ。神の見えざる手のようには。地獄にたらされる蜘蛛の糸のようには。無償の愛なんてもの、基本的には存在しないんだ。親から子に向けられる愛であったとしても、それは不確実な存在なんだ。なあ、例えばおれはもはや可能性がすりつぶされつつあるオッサンだ。そんなおれの目の前に提示される救いの選択肢なんて、仏の御手によるものか、詐欺師の手管かのどちらかだ。無条件であることなぞありえない。そして仏の実在を妄信できるほどにはおれは純粋ではあれない。おれたちはそうだろ?

 

「救いがありますように」

 

 おれたちには外部の救いはもたらされない。「何か良いこと」なぞ起こる望みもない。誰を含めて「おれたち」なんて宣ってるのかおれ自身にもわからないけどな。いいか。おれたちを救うなんて奇特な人間は現れない。実在するとしたら、九割九分が詐欺師だ。おれたちを救う代わりに法外な利益を得る詐欺師だ。残り一分は本物の聖人かもしれないが、本物の聖人なんてなにかしら後ろ暗いものがなければ存在しない。「光ある限りまた闇もある」みたいなこと、だれか言ってたろ。ゾーマかな。ゾーマが言うことはすべて真実だ。ゾーマが言うんだから間違いない。だから大体の救いは詐欺師によるものだ。

 

「誰かが、おれを助けてくれますように」

 

 救いはない。

 例えば無条件におれたちを好いてくれる人間とか。おれたちの存在に励起される人とか。おれたちの奮迅により救われる世界とか。

 おれたちが救えるものはない。だからもちろん救いの手を差し伸べるものなんてない。おれたちには。

 社会は、システムは個人を助けないということをよくわかってしまったはずだ。このなんたら禍の環境下で。ソーシャルネットワークの発達による個人意識の希薄化によって。いや、そもそも社会的成功が人生的成功を意味しなくなった、バブル以降の価値観遷移に伴って。

 だからおれたちのような個人と社会的システムは、ほとんど関係がない。ように思える。

 おれたちとは無関係に、全ては動いていく。決定的な環境として。社会として。システムとして。規定された外部として。その環境から零れ落ちそうなものがいるとして、社会的システムの運用上からはじき出される人がいるとして。そいつらを助ける義務などどこの誰にも存在しない。

 そいつらを助ける義理などどこの誰にも存在しない。

 メリットがないからね。

 

「なにか、決定的な、いいことが、おれの人生に訪れますように」

 

「なにかいいこと」。それは外部からはもたらされない。確実にね。サンタさんはいないんだ。御仏はいないんだ。救世主はいないんだ。おれたちを無条件に救ってくれるようないいことなんて訪れないんだ。これは当たり前のことだっけ? ここが日常系マンガの世界だったらまた別だったかもしれないけれど。でも残念だったね。日常系マンガも愛されるキャラを描いているだけだから。陰に愛されないキャラも埋もれている。

 確率として、無条件に救われない人が大多数ってことだ。

 ならばおれたちは、救いを自力で求めるしかない。

 エクソダスだ。

 救いを自分の力で求めるとして、そこに必要なものは脱出だ。それは外部的なものでも内部的なものでもありうるだろう。自己を規定する外部環境の突破かもしれない。自己の価格認知の突破かもしれない。少なくともなんらかの枠組みを突き抜ける試みであることは間違いない。救いの可能性があるとしたら、おれたちの外側にしかそれは存在しない。

 なんにせよ、おれたち自身の、何かを突破しようという試みなくして、本当の救いは訪れないだろう。妥協した俺たちの前に差し出される安易な救いは、他の安易な何かへの依存に過ぎないから。それは依存の転嫁に過ぎないから。

 

 いやつーか本当の救いって何なんだろうね。

 そんなものもちろん存在しないんだろうけどね。

 安易な救いを騙るやつを、すべて疑い続けることに他ならないんだろうけどね。

 

 これはなんの話だったっけ?

 

 少なくともおれたちを直接的に救う決定的なイベントはまだまだ訪れないってことだ。人類補完計画も。スターチャイルドへの昇華も。ハーモニープログラムの人間意識統合も。あ、これはおれが好きな展開ってだけだったっけ。とりあえず、おれたちは、おれはまだおれとしての存在を義務付けられている。存在としての責任を放棄するという選択肢を除いて。まあ一応おれはまだそれを選ばないけどね。おれの絶望はまだ放棄には足りないから。

 ともかく、自分が信じられる本当の救いは自力で獲得しなければならない。

 社会的なものか。資本的なものか。家庭的なものか。宗教的なものか。ビジネス的なものか。道楽的なものか。まあ孤立的なものを個人的救いとして確立することは意外と難しかろう。外から殴られて揺るがないものってなかなかないからね。

 

「救いたまえ」

 

 救いの手を差し伸べてくれるような直截的な神なんていない。わかってんだろ。この人生は根本的に変わったりなんかしないし、ましてリセットもされやしない。おれたちは継続するしかない。この挫折に満ちた物語を。

 すみません、この話に結論はない。主張もない。なにもない。

 それでもこの、「何かいいこと」の訪れる可能性が極めて低い、おれたちの人生はまだ続いていく。

 あ、もしかしたらきみは違うのかい? そうかもしれないね。それでもいいよ。でも知っててほしい。

 突発的な物語には依存できない、日常系的な幸福にも回帰できない、そういった生活を送る人ってのはたくさんいる。実際の割合なんて知らねえけど、少なくとも俺の知る限り複数は。確実にいる。

 だからおれは言う。言うしかない。おれたちに向かって、言い聞かせるしかないんだ。おれたちに救いはないけど。希望は小さいけど。生きる目的なんて見えないけど。それでも一応言ってみるんだ。


 なにか、いいことあるのかもしれない。 

 なにか、いいことあるんでしょうね。

 

 ま、そんな感じで。

近況とただの愚痴の話

 調子が悪化してしまい、少し早めで長めの夏休みをいただくことになってしまった。

 めまい、耳鳴り、動悸に吐き気、緊張感からくる身体のこわばりと震え。そしてなにより、どうしようもないほどの虚脱感。こう言った身体的症状が周期的に訪れる。正弦波の底の方。その状態がこの2,3週間ほど続いている。しんどい。なにより厳しいのは解決策がよくわからんってところだ。体力をつけに行く体力がない。頭を使うだけの集中力がない。パフォーマンスが低下している。代謝を上げなければ、エネルギーのインとアウトを増やして回転させなければ、と考えはするのだけれど、いかんせん穴の開いたガソリンタンクのように、燃やすべき気力が一向に貯まらない。とりあえず長風呂だけはして最低限の体調を保っている。

 

 緩慢な絶望。

 前進する気力を失ってしまって、少しずつ僕は置いてけぼりになる。状況は悪化していく。そしていずれ取り返しがつかなくなって、この先のいろんな収支が赤字になると確信してしまう点がいつか訪れる。時間軸を進める価値がなくなると理解してしまう時が。その時ようやく、僕は泣いて喚いて後悔するのだろう。

 

 僕は決してニヒリストではない。ある種のシニシストではあるのかもしれないけれど、そうあろうとしたつもりはない。それらはただの楽な立ち位置だ。画一的な解釈で世界を眺められる。他者への優越を可能にする。それはズルだ。ポテンシャルエネルギー面の底辺だ。僕はそこに陥りたくはない。僕は知っている、世の中にはたくさんの価値で溢れている、面白いものも美しものもたくさんある。なんて素晴らしいんだ。しかし、ただ一つの問題として、それら素晴らしいものを理解し解釈するだけの感性や理性を僕は少しずつ失いつつある。その感覚が緩慢な絶望を僕にもたらす。素晴らしい価値を僕は取り込めないし、生み出せない。そんな風に考えてしまいがちになる。そんな出口のない自省と自虐が渦を巻いて俺を閉じ込める。外はどこだ。

 

 いったん吐き出したから少しはましになるはずだ。

 外出しよう。ちょっとずつ頭を使おう。外を見よう。

 自分の中にも自室の中にも突破口はない。そのことは一応知っている、実践できるかどうかは別として。

野良猫が鳴く話

 ちょっと仕事でしくじってしまい、やさぐれて酒を飲んでいる。
 いやしくじったのは完全に手前の落ち度であり、会社の定常的な困りごとに対して個人的に若干先走り「こんな感じで解決の可能性を見出いしました!」的なプレゼンをしたら「実用化を見据えていない独りよがりなものにしか見えない」とボコボコにされたってだけの話で、要は俺の視野の狭さと要領の悪さが責任だ。
 だけどまあしかし、この「独りよがり」加減って、どうやって修正すればよいんだろうな? おれ個人の課題としてずーっと、周りの人間を巻き込んでいくような、みんなを説得するような求心力の欠如ってやつがあって、それはつまりカリスマ性の欠如と、平たく言ってしまえば「人に好かれなさ」の表れとしか思えなくて、おれは自分に対して緩慢な絶望に陥らざるを得ない。それへの対策として、ほかの人には追従できないところまで知識を練り上げて自分自身が確固たる価値を作り上げる、みてえなことを考えてやってたんだけど、自分で書いてて気づいたわ、こんな傲慢な奴、そりゃ人はついてかんわな。まあこういうことを考え続けると、自分の振る舞いやら一挙手一投足に自信が持てなくなって結果として詰むんだけど。
 強い人間になりたい。今の組織だけに限った話ではなくて、シンプルにいる価値のある人間になりたい。

 

 ああ、もうめんどくさくなってきた。

 こういうことを考えて悩むことも。

 そもそも俺のスタイルって、「社会も組織も知ったことか、そんなところになじめなくとも、誰に受け入れられずとも俺はここにいる」ってやつじゃなかったけ。転職してからこっち、人に甘えすぎたかな。

 

 暑くなってきたから窓を開けて眠るようになった。昨日から、やたら猫の泣き声が聞こえる。甲高く伸びるような、自分の存在をアピールするかのような声。それが気になって眠りが浅い。

 なあお前、なんで鳴いてんだ? 周りに誰もいなくて、寂しいからか? ぞれとも怖いからか?

 猫は鳴いている。

 おれは静かに眠る。

変わるもの、変わらないもの、変えられないものの話

 緊急事態宣言の延長が決まる。自粛の余波はあらゆるところに押し寄せて、この国全体が暗澹とした停滞期に潜り込んでいる。活動は中止される。無作為に動く粒子のなかに一つだけ汚染源を放り込んで、あとは熱運動に任せていたら、互いに衝突しあって汚染が直ちに広がることは目に見えて明らかだ。感染者は指数的に増加する。抑制する方法はただ一つ、指数を1以下に低減する必要があり、そのためには熱運動を抑えなければならない。世界全体が冷却され、不活性に陥っていく。

 と、言うような状況であることは理解している。

 が、正直なところ、いまだに僕には実感がない。

 僕の住む三重のこの街ははわりあい暢気なものだ。連休前も通勤に向かう車の量はさほど変わらなかったし、スーパーの中も買い物客がひしめいている。勤務先の会社では変わらずに用務が続けられており、何人かが交代でお試しテレワークをやってみている程度。連休中は自重しようと、GW直前に入った来来亭は8割ほどの客入りでにぎわっていた。国道23号線に車は流れ続けている。ただ、多少その勢いは衰えて見えるし、線路を走る近鉄電車の窓に乗客の影はほとんど見えない。それくらいだ。諸国の厳然たるロックダウンに伴うポストアポカリプス然とした光景はここにはない。緩やかな老年期の影が、よく探せばそこかしらにちらついている程度。

 世界は変わる、という人がいた。人々の意識は刷新され、今後我々はアフターコロナの世界でサバイブしなければならないのだ、と。だけど僕は、このウイルスがもたらす絶対的な変化なんてものを信じちゃいない。生き延びなければならないのは確かにそうだが、しかしそれはCOVID-19によって世界が変わったからだろうか? アフターコロナ、そんなものはない。そもそも古くから感染症は世界のあちこちに蔓延り続けていた。移動機関の発達、ビジネスやコミュニケーションのグローバル化、医療技術の進化。それらによってド派手に登場することに成功した新規感染症、それがCOVID-19だ。こいつら自身が世界を変えたわけではない。ただ、こいつらはその堂々たる目立ち方によって、世界に混乱をもたらして、少なくない数の問題を浮き彫りにして、人々に突きつけた。

 何を浮き彫りにしたのか。政治。医療。休業。転売。マナー。思いやり。山ほどあるが、その根底にあるものを一つだけ挙げるとするならば、それは「僕らの生活は辛うじて成り立っているに過ぎない」という感覚に尽きると思う。

 少し前までに僕らが過ごしていた、何気ない日常とやらは、それに僕らが自覚的であるかどうかにかかわらず、実際に多くのものによって守られていた。教育も、福祉も、医療も、インフラも、技術も。先人たちが、「みんなが快適に清潔に安全に過ごせるようになろう」と作り上げてきてくれた制度によって、僕らは当たり前のように快適で清潔で安全な生活を享受できていた。だけどまあ、みんな気付いてしまっただろう。実際の世界には、未発達な生活が、不快で不衛生で危険な生活が満ち溢れていて、人々の善意と努力によって築き上げられた制度のバリケードがその侵攻を防いでいたにすぎない。バリケードの強度を超えられてしまったらおしまいだ。この強度とはすなわち、制度を支える人々のキャパシティを指す。医療前線に立つ医者や看護師のように。忘れてはならない。彼らは人間だ。

 僕らは辛うじて生きている。多くの人々の善意と努力によって。

 COVID-19が浮き彫りにしたのはその感覚と、その感覚が引き起こすいかんともしがたい不安感だ。

 

 ちょっとだけ話を変えよう。

 漫画版、一色登希彦版の日本沈没の話(五本の指に入るくらいに好きな漫画だ)。

 この漫画の中の沈没に至るまでのプロセスの中で、日本国民たちは、津波、大地震(そしてこの後には阿蘇噴火)といった度重なる大災害に襲われながらも、「自分たちにはどうすることもできないから」「自分に影響の及ばない他人事として認識することで」「変わりない日常を送ろうとしていた」。

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 恥ずかしながら率直に申し上げると、今の僕や、(おそらく)僕の同僚の感覚にそっくりだ。なんなら9.11のときも、3.11のときも、あれらは僕にとって徹底的に「他人事」だった。

 大変な状況なのは理解している。要請された自粛にも対応している。それでいても、どこか実感を持ってこのパンデミックに向き合えているのかというと、僕には自信がない。僕の最大の困りごとは、家にこもりっぱなしで気が滅入ること、毎年の生きがいだったファンキーマーケットが中止になったこと。そして、前述のただ漠然とした不安。いずれもきわめて個人的で浅い事象だ。毎日増加する感染者の棒グラフを見て、なんならクリッカーゲームのスコアの増加に似たような感覚さえ抱いてしまう。不謹慎極まりない。僕には想像力が足りないのだろう。周りの人が感染してしまうこと。自分が感染源になってしまうこと。活動停止による副次的な被害を被ること。それらに対して実際的な脅威を感じることができない。この状態に適用するように変化でいていないのだ。そしてこれは断言してもいい、少なくない数の人が同じように感じてしまっているはずだ。変わることはストレスだから。

 COVID-19は全世界に甚大な被害を与えるだろう。

 僕の周りにも多大な影響があるだろう。

 それでも僕は(あるいは僕らは)何も変わらず、生活を続けようとするのだろう。

 ただ強まっていく不安感に苛まれながら。